怪魚
※死ネタ。キャラクターがグロテスクな死に方をするので、ご注意下さい。











真っ白い昼下がり。視界の右上に褪色したレンガ壁が引っ掛かっている。白い光。光は脇を痒くする。どうどうと馬のようなエンジンのような怪獣の悲鳴のような音が不動の耳をつんざく。脇が痒く、体は温かくなったり冷たくなったりする。鉄のにおいに吐き気がする。便所に行きたい。
痛痒が脇から広がっていく。左腰骨に達したときに、ざわめきが、ようやくびょういんという単語に聞こえてくる。
びょういんに・つれていかないと・でも・もう
「かわいそうに。まだ子供じゃないか」
不動は目だけで周囲を見る。うすぼんやりとした昼下がり。明るい光は不動の浸る水面を侵す。赤と白。脇が痒い。数分前まで不動は橋の上にいた。鉄骨が落下してきたのはそのときだ。謀りすまされた鉄の塊は、あやまたず不動の骨を砕き、朽ちかけた橋を崩した。
(くそったれが……)
貧血の前症状のような白い光。橋の上の群衆に唾を吐きかけたくてたまらないのに、その力すら自分には残っていない。黒いものが不動の視界を横切る。思わず凝視すると、それは嫌というくらい見慣れた金属のデルタだった。切れた革紐が水に浮かんでいる。
眼帯だ。
この持ち主が、眼帯を外した姿を不動は見た記憶がない。
菓子に群がる蟻のように、真新しい橋には人影がびっしりとたかっている。あの橋が落ちればいい。間違い探しをするみたいに、不動は青みかがった銀の髪を探す。顔はわからなくても、髪色はわかる。
……佐久間と橋の上に立っていた。対チームK戦ののち、沈黙している影山。髪を染めたその姿を、一昨日、日本ともイタリアとも無関係なこのエリアで不動は見かけた。来ないでいいと言ったのに、口を滑らせた不動に佐久間がついてきた。
流れる水ははるか遠く、眺めていると腹の中にひんやりとした感覚が走る。
落ちるなよ、と佐久間が言う。言いながら、ふちから離れる。一つだけ色の違う黄色のタイルを踏んでくる。古いし、危ないな、柵もないのか。
「そんなドジ踏むかよ」
と不動は鼻で笑う。確かに高いが、足を踏み外さなければいいだけのことだ。……佐久間が不動の名前を叫ぶ。
脇が痒い。痒くて堪らない。不動は爪でかりかりと脇腹を掻く。ごぼり、と音がして体が冷たくなる。耳の中に水が入る。川の流れは遅々としている。ゆっくりと、不動の体を橋の影に運んでいく。橋の作る影はとても暗い。地の底のようだ。早く連れていけ。地底に生える銀色の藻。黄泉に続く坂に群生する植物。不動はその一点のみを睨む。



佐久間の銀の髪は水を吸い、溶けかけた雪の色に変化している。指に絡まり、不動にわずかに残る快不快の感覚をかきたててくる。眉根はきゅっとよせられており、難問を考えるときに、佐久間はよくその表情をした。今もきっと考えているのだろう。答えが出ないだろう問いを。
壁の凹凸と不動の指に髪を絡ませた佐久間は、正しく半分だ。顔だけが何の傷もない。
鉄骨に気づいたのは、佐久間が先だった。叫んだ口の形のままの佐久間に、不動は突き飛ばされた。黄色の点を原点として、X=3、Y=5からX=20、Y=16まで不動は移動する。(3、5)の地点には鉄の塊が降り、その縁は鈍く光る。ずいぶんと愚鈍な刃物だが重力と速度の助けで骨と筋肉を切断するには充分すぎるくらいだ。
地面と鉄骨の間が赤く濡れている。
「は」
不動が状況を理解したときに、時間差で橋は崩壊した。

こういう顔をしていたのか、とたいした感慨もなく不動は佐久間を眺める。気持ち悪いほどに作り物だ。胸像は目を閉じている。どこかの変態の芸術家に見せれば、大喜びするに違いない。題名は……題名は……。
(『嫌いな相手を助けようとした阿呆の顔』)
……思いつかない。せっかくなので、右足でも探してやろうかと不動は思ったが、遠くに流されたのか近くには見当たらない。
脇がまた痒くなる。痒くなって、燃えるように熱くなる。苔のむしたレンガを掴もうとして、不動は水を飲む。気道が焼ける。水のにおいがこんなにも嘔吐を催させるのだと、不動は初めて知る。
(余計なことをするんじゃねえよ)
浮力を得た彫像を、不動は左腕で持ち上げる。息が切れ、力が抜ける。胸に負荷がかかり、くらくらする。大きな魚のように、胸の佐久間は無機質だ。不気味な魚。赤い目をした銀色の魚は生きた人間の肉を食べる。心中しかけた男女の肉を噛み、恋人達の抱く死への甘美な幻想を打ち砕く。
(いい気味だぜ)
二人で死ぬというのは、こんなにも暗く、空っぽだということがなぜわからないのだろう。うす暗い橋の下で不動は疑問を抱く。もう頭がぼんやりして、思考がまとまらない。
地獄で文句を言うために覚えたというのに、佐久間の顔だって忘れてしまいそうだ。向こうに見えるのは白い光。午睡にうってつけな昼下がり。



(了)