物事には波がある。うまくいくときはすべてが気味悪いくらいにとんとん拍子に進むくせに、うまくいかないときには何をしても時間の無駄だ。たとえばディベートで次の流れを読み誤る、たとえば課題を図書室に忘れてくる、たとえば兄からの気紛れな通信を受け取ってしまう。
「君らしくもないね、エスカ・バメル」
わざわざフルネームで呼んでくるのは嫌がらせだ。編んだ髪にエスカはもう違和感を覚えなくなっている。
「こっちにもいろいろあんだよ」
「へえ、いろいろねえ。それも君らしくないかな」
たとえば黒く長い睫毛。たとえば陶磁器の肌。たとえば幼さのわずかに残る薔薇色の頬。ミストレーネはその外見の下で毒の霧を吐く。黙っておいたほうが得をすることもあるだろうにとエスカは思い、ミストレーネの傷一つない(あるいはけして傷の残らない)滑らかな頬を注視する。
このミストレーネは、常に女生徒から構成される親衛隊を引き連れている。彼の通った後は甘さと乳くささの混じり合ったにおいと華やぎの残滓がたゆたっている。軟弱な、と露骨に不快感を示す人間もいたが、エスカはそうは思わない。
(軟弱なやつが決闘なんかするかよ)
それにエスカの見立てでは、ミストレーネと女生徒達の関係は「親衛隊」をけして逸脱してはいなかった。ミストレーネのファンへの態度は姉や親戚の女性に対するかのように、やや甘えながらも紳士的であったし、彼女らもまたミストレーネをどこか庇護すべき対象として愛しているようなところがある。
そのせいか、ミストレーネは清浄な雰囲気を纏っており、そうでなければバダップが声をかけるはずがない。
ミストレーネがたまに迸らせる感情は驚くほど素直だ。
「さあ、それで君の不調の原因は何なのかな。話してもらおうか」
「いや、たいしたことじゃねえよ」
エスカの視線に痺れを切らしたように、ミストレーネが口を開く。わずかによじれる薄い唇。清潔な赤。たとえば柔らかい頬。たとえば血の通った唇。たとえば接吻。ミストレーネが親衛隊の一人の頬に接吻をしたとの噂は野を越えて山を越え、千里を駆けて、エスカの耳に入ってきた。
「本当だよ。……それにもう解決した」
「じゃあ、話す気はないってことだね」
「まあな」
「なら、君一人で解決できる問題だってことか。にしてもずいぶんと手こずったみたいじゃないか」
「俺一人ねえ」
たとえば図書室に課題を取りに走る。たとえば近道でカフェテリアを通る。たとえば女生徒の集団。たとえば女生徒の熱のこもった告白話。
『それでね、ミストレ君がね……』
『早く言いなさいよ』
『もったいぶらないで!』
『だから、この前ミストレ君とお話ししたときに……』
『ミストレ君とバメル君』
『そうそう。ミストレ君って、最近バメル君と仲良いよねって』
『そうね』
『バメル君って男の友達しかいないじゃない。ミストレ君とは正反対』
『ちょっと近寄りにくいよね、バメル君』
『そうそう。でも一緒にいても不思議と変って感じしないよね。なんかしっくりくるなあって』
『言ったの?』
『言ったの』
『そしたらキスされたのね?』
『ミストレ君どんな顔してた?』
『笑った』
『笑ってた』
『とても嬉しそう』
『キス』
『キス』
『されたんだ』
『キス』
(キス)
きゃああっとカフェテリアの一角は沸く。そのバメル君には女生徒達は気づかない。なるだけ体を平らにしてエスカは床を這った。
男子ってわからないよね。ミストレ君ってミステリアスだよねと会話は続く。
たとえば喜びの表現。たとえば一番になる。たとえば容姿を思いがけない相手に褒められる。たとえば理解を示される。たとえば親愛の印。
『キス』
『キス』
上擦った声で、途中で何度もその単語は挿入される。ミストレーネの顔立ちの数少ない欠点であり、魅力でもあるあの薄くそして微かに歪んだ唇。たとえばエスカの目の前で蠢く。たとえば不機嫌そうに尖る。受けたいとは思わない。見つめるのみにエスカは留めた。
(了)