アスファルトの焦げる匂いを湊は迂回し、ほぼ砂利と化している道端に寄った。
槍のように熱線は降りそそぐが、どれも一撃で湊をうち負かすことはない。
車通りの多い川ぞいは、今はかすれた白線が光っているだけだった。救急車のサイレンが遠くなると、周囲からは音も消失した。
急な斜面を慎重に進む。不ぞろいな灰色の泡が濁った川面を回転して流れている。
暑さは、少しだけ湊から死を遠ざける。
暑気に耐える感覚は罰に近い。
枯れていくさなかの草の匂いは、橋梁の影に入ると一気に、生きた草から発散される、にがい香に変わった。
家の、自分の部屋が湊は好きだった。だが、自然の中には見るものが数多くある。
今の時期はせわしなく飛来するトンボや橋脚にはりつくカエル、それに運が良ければカメの姿が観察できた。
(……何もいない)
今日はついていない日だ。
湊は膝を抱く。
尻の下の土が冷たい。
手持ちぶさたに石を積む。一つ、二つ……六つ、積み重ねる。
(あと一つ)
顔を上げた湊は蛇を見た。
見るだけで体温が一、二度下がるほど白い蛇だった。
草の間をするすると真っ白い曲線が伸びていく。下書きをなぞっている。迷いのない線だった。
(すごい)
上空から眺めたら、どんな描画が見えるのだろう。
蛇を観察するのは初めてではない。
それでも蛇を見るたびに湊は感動する。
蛇は美しい。
あまたの装飾品や彫像のモチーフになっているのも納得できる。
びっしりと並ぶ菱形の鱗は、忍耐強い作業のはてに現れる美麗さだ。
これを絵にすればどんなに心踊るだろうか。
まだ満足のいく蛇の像を表せたことはなかった。いきいきとした曲線や、緻密な鱗の重なりや、静と動が同一平面にある動きは、数度の試行では捉えられない。
今なら、できるかもしれない。
ぼんやりとした畏怖を抱いたまま、湊は確信する。
(しまった)
こんなときに限って、筆記具を持ってこなかった。
「この脳みそを引きちぎってメモできればいいのに……!」
呪いたい。
自分を。
「どうしたの」
「肝心なときにも役に立たないこの頭を」
「まさか暑さで変になっちゃったの?」
「違います」
「そっか、そうだよね」
「いつだってそうなんです」
「ところで何かお困りですかぁ?」
「紙が」
「まさかトイレ?」
外はダメだよ、大瀬さん。
振り向いた湊は、夏の夜より黒い目を見つめ返した。一時間前に玄関で湊を送りだしたときと変わらない暗い色だ。
「い、いつからいたの」
「んー、大瀬さんが四つん這いになったあたり」
夜は餃子だよ、と本橋はニール袋を持ちあげる。
人の頭くらいあるキャベツがビニールごしに透けていた。
「大瀬さん、人間捨てないでね。まだ契約済んでないんだから」
「しません」
即答に本橋が首をかしげる。
前髪が濃い影を作る。地球のはてまで伸びている穴じみた瞳を隠した。
「てか、何見てるの」
湊の指す蛇の円相に「蛇じゃん」と本橋は感心の声をもらす。
「あれって毒はないやつなんだよね?」
「ないです」
蛇に噛まれて死ぬ夢想もしたおぼえはある。
残念ながら湊の生活圏には、そんな蛇はいなかったのだけれど。
「紙って何に使うの」
いつの間にか、本橋も隣に腰を下ろしている。
はい、これお尻に敷いてねと上着までさし出してくる。
本橋の問いに湊は口をつぐむ。用途を説明しようものなら、画材店まで(六駅離れている!)走って求めに行くような相手なのだ。
「……ああ、スケッチね」
なのに、あっさりと本橋は看破する。
「なぜ、それを……」
奴隷なめないでよね、と本橋はポケットをひっくり返して言う。
「……別に今描かなくてもよくて、覚えておけばそれでも」
「はいはい、強がり強がり」
今、描きたいくせに。
「……描きたいわけでは……ない……わけでもなくて……だけど」
見透かしてくる本橋に弱々しく反発する。これじゃあまるで、猿川さんみたいだ。
他人を自分の心の中に住まわせる罪悪感に湊は吐き気をおぼえる。
「じゃじゃーん!」
すかさず、本橋の尻がふらつく湊を草の上に押しもどした。
「マジックあったよ、大瀬さん」
「いりません。必要ないです」
熟する直前の草の実が、上着の下で潰れていく。
青い匂いと、本橋の服が汚れる事実に湊は小さく悲鳴を上げた。
「ほら座る」
紙がなー、ないんだよな。レシートはなー、ちょっと違うよなー。
鼻歌みたいに本橋がぼやく。
「本当に、本当に大丈夫ですので!」
湊の心拍数を無視して、草の向こうの蛇はゆっくりと首をもたげて静止していた。
蛇の周りの空間だけが時間の経過が停止している。
ゆったりと伸ばされた尻尾は半円を描き、鱗と鱗のあいだからは淡い卵の色がにじんでいる。
「すごいね」
後頭部に本橋の首輪の金具が当たる。
頬を本橋のひやりとした両腕がつつむ。
「……ぅ!」
「ねえ、そうだ。大瀬さん」
背後をとった本橋の声が降ってくる。
陽の光より速く、夜の闇よりも深いところまで届く。
「これに描きましょうよ」
「はい?」
「ほら、これ!」
視界の上半分を包帯が、いや本橋の腕がぐるりと湊の頭に回される。
その白さに湊の思考は束の間だが、奪われた。
「……いお君の腕じゃん」
「便利でしょ」
湊の顔を覆う腕の表皮は均一で、どれだけ目を凝らしても構成する粒子が見えない。
湊の知るどんなキャンパスよりも白く、汚れも染みもない。
「い、いやだ。いやです。したくないです」
「は?」
もう決定事項なんですけど。
「拒否権とかないんですけど」
ほら、早く。
「逃げちゃうよ」
(蛇が?)
「はーやーくー!」
自分は逃げられない。
柔らかく、本橋の身体が湊を締めつける。
手の届かない場所で、蛇が湊をじっと見返してくる。
その目はけして発芽することのない種のように黒く、鱗は永久に融けない雪みたいに白い。
美しい生き物だった。
(了)