※文庫設定とアニバーサリーブックの設定を一部含みます
アナウンスが流れて、ゴンドラが動き出す。
右の視界で海がきらきらと光っている。左側はコンクリートに覆われた斜面だ。コンクリートの隙間からは枯れた草が伸びていて、手を伸ばせば触れそうだ。
「朝一で大正解っすね」
早起きしたおかげでロープウェイは貸切だ。冷たい空気に白い息が溶ける。
「そうだな」と答えるのは正面の渋沢さんで、笠井の返事がないのは顔半分までマフラーを巻いてるせいだ。大学に入っても寒がりは改善しないらしい。というか、寒いなら手袋すればいいのに、指先の感覚がどうのこうのと言って手袋は拒否するのでよくわからない。
「……てめえかよ、こんなふざけたスケジュール組んだのは」
怖い。
怖い怖い。
見ないようにしてる左からは、三分前に地獄の底から蘇りました、みたいな三上先輩が睨んでくる。
「なんでそんな不機嫌なんすか。新幹線寝れたでしょ」
「レポート終わらねえんだよこっちは」
「えー、先輩珍しい」
低血圧ってやつも、大学に入学したからって変わらないものらしい。
「ほらほう、だよ」
マフラーの下からもぞもぞと笠井が言う。そりゃそうだよ、って? まあそうか。そういうものか。
「大学のこと、なんだと思ってるんだよ」
「え、勉強するとこ?」
「そうだよ」
わかってるじゃん、とマフラーを笠井が外す。
「なんで、三上先輩と一緒じゃなかったんだよー」
「えええ?」
朝の三上先輩が超絶不機嫌なのは、中学校のときから有名だ。起こすと当たり散らされ、起こさなくてもキレられ……同室の近藤先輩は寝る前にお祈りまでしてたらしい。
「そんな噂あったね、そういえば」
「噂じゃなくて、まじだから!」
「そうなんだ?」
それは大袈裟だろ、と笠井は呆れているが、起き掛けの先輩の蹴りを受けたことがないからそんな呑気なことが言えるのだ。あれは痛い。
「つか、試合のときもあんくらい蹴ってくださいよ」
「黙れ」
先輩の不機嫌オーラが倍増する。怖い怖い。
久しぶりのデートなんだから、もうちょっと嬉しそうにしたらいいのに。
「お前さあ、先輩疲れてるんだし」
「でも来たじゃん。年末は来ないって言ってたのにさあ」
「笠井は風邪はもう大丈夫なのか?」
「あ、はい。回復しました。ありがとうございます」
「よかったね、先輩」
俺のパスを三上先輩は無視する。ひどい。
「そういえばさ、たまーに笠井呼ばれることあったでしょ。朝、三上先輩の部屋」
「あったね、そういえば」
体育会系の世界のオソロシさは、先輩の命令が絶対という点だ。理不尽でも納得できなくても、先輩の指示には従わなければならない。不思議な世界だ。
めちゃくちゃ朝の三上先輩は怖い。怖いけど、鎮める方法もあるっちゃある。
「愛の力ってやつ?」
「あい?」
笠井が渋沢さんの方を見る。なぜ見る。そっちを。
「笠井がいたら、三上先輩爆発しないからさあ」
「そうなの?」
言った途端に蹴りが入る……のを、華麗にガードする。
「先輩、ここで喧嘩するとメーワクっすよ」
「黙れや……」
「笠井は招き猫みたいな扱いだったんだよね」
「待って。何も招いてないんだけど」
「近藤先輩の安心は招いてた!」
「いや、俺結構寝ぼけてたし」
笠井が言うのはその通りで、近藤先輩から渋沢さん、渋沢さんから根岸先輩を経て連れてこられた笠井は三上先輩のベッドの前でわりとうとうとしていた。にも関わらず、何回かお声がかかったのは、笠井招き猫大明神の効果が絶大だったからだろう。
「だから今日は笠井も一緒に来るかと思ったのにさあ」
「嫌だよ。一回大阪に行かなきゃいけないし。尻が痛いんだよね」
はい?
思わず渋沢さんと目が合う。わー珍しい。
渋沢さんの狼狽えた顔だ。ウルトラスーパーレアじゃん。0.0000001パーセントの確率で出るやつじゃん。
「ケダモノ……」
「ばか!」
笠井の蹴りはもろに入った。痛い。
「もっと俺を大事にしてほしい……」
「馬鹿なこと言うからだろ! 深夜バス!」
「新幹線乗りなよ」
「いくらすると思ってんだよ」
「笠井は大阪詳しいのか」
動揺をどこかに蹴り飛ばした渋沢さんが質問してくる。
三上先輩は必死に渋沢さんの服を引っ張ってるけど、流石に渋沢さんはびくともしない。
鍛えてんな。
大学入ったのに鈍ってないし。ちょっと俺もトレーニング増やさないとやばいかなあ。
「渋沢さんてもしかしてヒットマンとか向いてるんじゃないすか? 笑顔でとどめを刺してくるタイプ」
「黙れ! 止めろてめえも」
「えええーどうしよっかなー。俺に止めるメリットないじゃないですかああ」
月に一回くらいですよ。大阪はイカ焼きがおいしいですね……と答えたところで、笠井が我に返る。
だが遅い。
遅いんだ。
「それ、通ってる人のセリフだよ。愛じゃん」
また笠井が、いや笠井だけでなく先輩まで渋沢さんを見る。だからなんで。
「すみません、三上先輩」
笠井の首が直角に曲がる。
ぎぎぎ、と音がしそうな上目遣いで先輩を見上げる。ロボットの笠井だ。三上先輩の起きがけの怒りを鎮めてくれる猫型のロボット。三上先輩はどっちかというと、ガキ大将のほうだけど。
「いや、いいよ……」
頻繁にデートをしていることをばらされたというのに、三上先輩は優しい。
「甘くないすか?」
「しかたねえだろ、渋沢相手なら……あんなんに狙われたら即死だろ。普通は」
「そうっすねえ」
でも相手がとどめを刺そうとしてくるってことは、こっちにも攻撃のチャンスがあるってことじゃないのかなあ。
小声で言うと三上先輩は顔を顰めた。「愛ってやつかよ」
「先輩の愛の定義おかしいですよ」
先輩が笠井にいろいろ言ってないのも愛なんすか。
聞いたらうんこを見る目で睨まれた。本当に俺に優しくしてほしい……。
2023/11/05