※虫注意
三上は、暗い暗い道を笠井と歩いていた。あまりにも光がないので、手を前にかざしてもわからない。虫が鳴いているのだが、聞いたことのない鳴き声だった。ときおり靴の裏でぶちっと何か適度に硬い小さいものを踏み潰す感覚がした。その度に虫の気配は途切れる。かと思うと、別の場所ですぐに新しい虫が鳴き始める。五感を狂わされる。まるで三上達を見張っているみたいだった。
三上はそろそろと背後に手を伸ばした。笠井は息が首にかかるくらい近くにいる。宙を、三上の指は何度も切った。笠井の発している熱は感じられるのに、右手は熱源をすりぬけてしまうのだ。
「てめえ、こけんなよ」
「はい」
笠井の声は暗闇の中でわずかに震えている。ビブラート。笠井の声が視線じみた虫の嬌声を乱す。
踏みつけた草が青臭いにおいを放つ。三上は盛大に顔をしかめたが、それは懐かしいにおいだった。
「なあ」
三上は会話のきっかけを探していた。この空間には虫の息遣いと草の生命力が充満している。黙っていると、自分がその一部になってしまいそうな気がした。
「びっくりしました」
笠井のことばは、掠れている。
「あんなところに誰かいるなんて思ってもいなかったから、すごくびっくりしました」
「そうか」
笠井が話すと安心する。
「バスごと、島に連れてこられたときも驚いたけど、あれより凄かった。びっくりするのって慣れないんですね」
「てめえは臆病だからな」
「そうですか?」
「いつもびくびくしてんじゃん」
「そうかなあ」
「一軍になったばっかの」
「一軍になったときばっかの話なら、三上先輩だからですよ」
「どういう意味だよ」
困ったように笠井が湿った息を吐き出す。どういう意味でもないです、と言う。
「今は違いますよ」
「当たり前だ」
怒った声を出すと、笠井がくすりと笑った。喉に詰まった闇が緩和される。三上の腹が鳴った。
「鳴った」
「うっせー」
「あはは、先輩。腹減ってるんだ。ふふ」
「違えよ」
「すごい音。ふふふ」
腕を振り回すが、巧みに避けられている。三上の努力は無益に空気を引っかき回して終わった。
「ぐう、って。ぐうって鳴った……。いいんですよ。もう丸一日、何も食べてないんですから」
「一日食わなくたってどうってことねえよ」
「俺、飴持ってます」
背中の後ろで、笠井がポケットを探っている。笠井の歩みが遅くなり、三上から遠ざかる。慌てて三上は速度を緩めた。ぶちり、と靴の裏で虫が嗤う。
「食わせて」
「えっ」
「俺、手洗ってねえし」
「俺もですよう」
「触んないようにすりゃ、いいだろ。ほれ」
目をつぶって口を開ける。瞼の裏に虫の鳴き声が充填される。恥ずかしいな……と笠井はなぜか照れている。がさがさと包み紙を破っている。
「あ」
「どうした」
「落としちゃいました」
「馬鹿」
レモンのにおいがかすかに鼻先を漂う。今踏み潰した虫は、ひときわ大きい。
「ごめんなさい」
「あっそ」
思っていたより空腹だったようだ。自分でも意外なくらいに不機嫌になって、三上は大股に歩いた。ぴたりと笠井は悲しげについてくる。笠井は影のように静かだ。
「いいよ。気にしてねえ」
しばらくの後に、三上が許したのは、おとなげない自分を恥じたのと、沈黙しているとぽかりと開いた闇の中に飲まれてしまいそうだったからだ。
「ごめんなさい……」
「謝んな」
「先輩、ごめん」
「いいから。別の話しようぜ」
「……びっくりしました」
「またその話かよ」
「びっくりした。あんな場所に誰か隠れてるなんて思わなかったから」
虫の声。笠井の声。
「びっくりするのって、本当慣れない。今ならわかる気がします」
「何が」
「びっくりするのって、怖いのと同じなんだ。次に何があるのかわからない。だから慣れない」
「へえ」
笠井らしからぬ聡明さに少し三上は驚いた。歩くという行為はよいインスピレーションをもたらすのかもしれない。
「だから、あいつもびっくりしただけなんですよ。怖かったんだ。きっと」
「誰の話だよ」
「俺、実はあんまり怖くなかったんです。ただびっくりしただけで。何が起こったのかもあんまりわからなかったし。でもあんなとこに誰か隠れてるなんて気づかなかったなあ……」
笠井の語尾は虫にかき消された。
こいつは何の話をしているんだ?
「笠井、笠井」
「ごめん……先輩、ごめんね」
瞬間、あたり一面が静かになった。虫も、笠井も口をつぐむ。天から新たな暗闇が落下してくる。
「笠井、おい笠井」
三上は首を曲げた。笠井の姿を、気配を正面から捕らえようとした。
振り向くな。
そこには・お前の見たくない・現実があるぞ。
幾百、幾千の包み紙を破る音がする。千の、万の飴が零れ落ちる。
虫が飛び立つ音だ。
ぶううううううん……。羽音が鼓膜を振動させる。びっくりした、びっくりしました……と微かに聞こえてくる。
「笠井、笠井!」
びっくりしました……ごめんなさい……びっくりした……。
手を伸ばす。笠井を構成する熱源は拡散している。笠井がさっきまで立っていた場所には誰もいない。虫の、笠井の体よりも冷たい、硬い甲殻が指に触るのみだった。
(了)