第1回 「登下校」 / 第2回 「誕生日」 / 第3回 「春」
第4回 「制服」 / 第5回 「卒業」 / 第6回 「夢」
第8回 「食べ物」 / 第10回「炭酸」
お題【登下校】
段竹は、と尋ねると、喧嘩をしたのだと鏑木は返答する(正確には喧嘩という表現ではないが、膨らませた頬とあと一度も部活動中に口を聞いていないし、だいたい朝から別々に登校してきている)。
「だから、青八木さんと帰ります」
(だから!)
「珍しいな」
謎の因果関係を主張する鏑木がじっとこっちを見る。手嶋とはどうなのかと目が質問している。
たまに、と青八木は答えた。
「することもある。喧嘩」
「珍しいすね」
「そうか」
そっか、先輩達も喧嘩すんのか、と鏑木はなぜか感心している。それを言ったら、今泉と鳴子なんてどうなるのだ。
(あいつらは、喧嘩ばかりしてるが)
「段竹が」
自転車を押しながら、鏑木は言う。影がグラウンドに細く、長く落ちる。鏑木の指が影絵を作る。狐、と言いながらも
「約束したのに、他のやつと帰った」
「……女子か」
ほのかに、単語に、語尾にまとわりつく怒気と躊躇いを青八木は感知する。なるほど。
「あ、彼女じゃないんすよ。ただ委員会で遅くなって、危ないからなんとかかんとかって」
(どこに問題があるんだ?)
鏑木の怒りがどこに反応しているのかは、よくわからない。
サドルに跨がって地面を蹴る。段竹のやつ……と声がし、すぐに鏑木が追いついてくる。
鏑木の心は狭い。約束を破ると怒り、権威がないと小野田に怒り、小野田を尊敬しないという理由で同級生に腹を立てる。
危なっかしいやつだといつも青八木は不安になった。あまりにも不安になったため、告白してきた鏑木とつきあってしまった。
つきあったところで不安は解消されず、もしやこのまま一生不安を抱えるのだろうかとさえ、最近は考えている。
三車線の道を右に曲がると、車がずらりと並ぶ車庫の前を通過する。家から漏れる明かりで、グラウンドピアノのようにボンネットが光る。高いんだろうな、と四輪の車に興味がない青八木は思った。
「ねえ」
「なんだ」
「青八木さん家ってこっちじゃないでしょ」
青八木は頷いた。
「ていうか、こっち俺の家ですし!」
青八木はもう一度頷く。
「……今日は遅いし、ここらへんは暗いだろ」
「はああ!」
背後から、明らかに怒りを含んだ声がする。
「昨日の段竹と同じこと言わないで下さいよ!」
(言われたのか)
そして怒ったのだろう。
わかりやすい。
三叉路を曲がる。現れるのは規則正しく生えた街灯、きらめく星に、広がる真っ直ぐな道。何度目かは覚えていないか、何回見てもいい道だと青八木は感動する。どこまでも白線は伸びている。
視界の端に、鏑木を認めてから、爪先に力を込める。
「ちょっと、青八木さん……くそ、女子扱いかよ」
鏑木の文句が、息が追いかけてくる。
悪いことをしたな、と青八木は思うが、煉瓦の壁の家が背中の後ろにかけ去ったときにはもう忘れる。
鏑木の気配が近くなる。並ぶ。耳が少しだけ赤い。
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お題【誕生日】
夜遅いというのに、青八木が嫌がる顔をみせなかったので鏑木は安堵した。
今暇ですかと尋ねると「暇じゃないけど、ちょうどコンビニまで用事ができた」と返ってくる。
こんな時間に青八木の家に来たのは初めてだ。
測溝の蓋を踏む。白線の上でバランスを取って歩く。
青八木のコートのポケットからは、鏑木が玄関で渡した銀の包み紙と茶色のリボンが覗いている。
当日受験で青八木はいなかったから、数日遅れだ。
「わざわざ家まで来たのか」
学校で渡せばよかっただろうという提案を鏑木は無視する。
今は卒業式の練習ばっかだし、プレゼントだって当日の一番でもないのに恥ずかしいだろ、そんなのという気持ちだ。
「なんで今日が誕生日じゃないんすか?」
「……俺が知るか」
「今日誕生日にしましょうよ」
それはちょっと、という顔を青八木はする。誕生日のメールに返信しなかった癖に。
プレゼントを選びはしたものの青八木が気に入るのかは予想もできない。
だいたい何か欲しいものあります? という質問の回答が「特にない」だ。
「じゃあ俺から青八木さんのお父さんとお母さんにお願いしますよ、今日か明日を青八木さんの誕生日にして下さいって」
「いや無理だろ……」
「だって俺が一番に祝えないじゃないですか」
「……旅館でメール見た」
「えっ! 返事なかったですよ」
「試験は朝早い」
そういえば大学入試は慌ただしい。鏑木は思い出す。
宿泊先で蟹を食べたと青八木は続ける。旅館の人がたくさん蟹を出してくれたとかなんとか。
「ハハハ、またたくさん食べましたね」
「……そこまでは食べてない」
いやいやいや、食べただろ。
なんでそこで謙遜するんだこの人……と鏑木がつっこむ前に、オレンジ色の目立つコンビニエンスストアに到着する。
ピザまんを食べ終わるまでは時間はある、と青八木が言う。
(すぐじゃん)
青八木さんは食べる速度が速い。
「これ」
と一口、口に入れて落ち着いたのか青八木がポケットを示す。
「大事にする、ありがとな」
「はー、別に適当でいいですよ。あんまりしっくりこなかったし」
「そうか」
「そうです」
青八木に似合うもの。青八木に渡したいもの。考えたけれど、いい考えは浮かばなかった。
鏑木には欲しいものがいっぱいある。新しいホイールがほしい。グローブがほしい。ルアーだってほしいし、服も、靴も、何でも欲しい。
「青八木さんて、そもそも欲しいものあるんすか?」
「……は?」
「わかんないんですよ、青八木さんに何がいいのか」
いや、嘘だ。それ以外にもある。あるけれど、鏑木は言わない。自分と青八木の頭の上で輝く白くて丸い円。考えても考えてもあれが一等に青八木には相応しいし、だけどあれは鏑木のものではない。
(……どうやったら、あれって手に入るんだっけ)
「あ、総北の勝利以外でお願いしますよ」
「……」
(あれだったら流石の青八木さんも喜ぶだろ)
NASAか、NASAなのか。ロケットか。
ああ、NASAが自転車レース主催してくれないかな。コースは月。優勝商品も月だ。
鏑木は上空に首を伸ばす。黄色の柔らかな光。地上の冷気など感じさせもしない温かな光。
あそこでレースしたら、きっとめちゃくちゃに気分がいいだろう。
鏑木の気持ちも知らずに、青八木は前から気になっていたというチーズピザまんを見事に半分、たいらげている。そういえばきれいだな、月。と感心しながら。
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お題【春】
「パンは飽きました」と言った口で、鏑木はバターの染みた食パンをかじっている。こぼれるパンくずを器用に皿で受けている。なんとなく曲芸を青八木は連想した。
「うまいすね」
「そうだろうな」
田所の実家のパンだ。青八木は頷く。
くすんだ色のフローリングの上で鏑木の膝が動く。
鏑木の背景は積まれた段ボール箱、もちろん青八木を囲むのも段ボール箱だ。ようやく発見したオーブントースターが、箱に収まっていない唯一の家電だった。
「この皿、あって大正解でしたね」
鏑木が皿を指す。引っ越してきたばかりの青八木の部屋に、まだ食器はほとんどない(そしてまだ段ボールの中で眠っている)から、これは鏑木が持ってきた皿だ。店でパンを買って、ポイントを貯める。そうすると皿がもらえる。
「貯めました」
皿を持って鏑木が、新居に現れたのは正午を少し過ぎた頃だ。
こいつのことだから引っ越し祝ではあるまいと青八木は踏んだ。
当たりだった。
「皿ですよ、皿」
「あ、ああ……?」
「パン食いまくりましたよ、俺」
白い皿を鏑木はトロフィーのごとくかざす。
「青八木さんが見たいって言ってたやつ!」
「言ってないぞ」
「言いましたよ。ほら卒業式終わった次の日」
青八木は首を捻る。そもそも先々週は、鏑木につき合って山に行ったのではなかったか。坂の途中で二人してばてかけ、おまけに水も切れ、腹も空き、見つけたコンビニエンスストアに転がりこんだ記憶は情けなくも、新しい。
「青八木さん、ここの皿見たことないって言ったし」
そこでパンを買ったのだ、と鏑木は続ける。
包装紙にはパンを食べると皿がもらえると印刷されていたこと、そしてそれを見た自分はこの皿の実物を見た経験がないと言った……らしい。覚えていないが。
「どうですか、皿。気に入りました?」
尋ねて鏑木はまたパンを噛む。物を口に入れて喋るなと、しつこく注意し続けた成果で咀嚼している間は鏑木は話さない。
(確かに、見たことはないな)
それどころか、玩具のつまった缶詰めも、アイスの当たり籤も、自動販売機の大当たりも、青八木は実物を知らない。その気になればドーナツくらいは食べられた気はしたけれど。
鏑木はすべて持っている(あるいは持っていた)と言う。
鏑木らしい話だ。
「白いですよね」
鏑木は勝手に完結する。それから、あーあいいな、大学生かー大人じゃん、とぽつりと言った。
「何でもできますね」
「……」
それはお前だろ、と言葉を青八木は飲み込んだ。飲み込んだときに、うっすらと先々週の一面の菜の花が広がった山の光景を思い出す。どうかな、と生返事をしながら。
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お題【制服】
博物館裏のラーメン屋が総北の生徒をひそかに出入り禁止にしているのは有名な話であるが、その原因を作ったのは青八木である。
「俺じゃなくて、田所さんも」
青八木が不服そうに訂正する。
もちろん青八木の不満の理由は、この量を制限時間内に平らげれば無料だと掲示されたラーメンを最短記録で平らげ、更には店中の餃子を食べ尽くし、チャーハンを飲むように消費した偉業は、自分一人の功績でなく、田所あってこそと主張したいからだ。
「ほう田所さん! なるほど」
あの人と青八木さんならば、大いにあり得る話だ。
青八木の自慢話に、流石だと鏑木は感心する。
「七割は田所さんだ」
とはいえ、件のラーメン屋には表立って総北生が入店できないわけではない。学生証の提示を求められるわけでもないし、だいたい店も高校生の区別ができるわけではない。
実際、この前の連休に、鏑木もその店でラーメンを食べている。
「要はばれなきゃオッケーすね」
「そうだな」
ただ青八木は食材を食らいつくした去年の冬以来、行っていないのだろう。
この先輩は、妙に律儀だ。
「たとえばジャージとか、制服とかはアウトってヤツですね」
頷く青八木は制服だ。色のついたシャツが襟から覗く。
鏑木も制服だから、今日は二人ともあの店には入れない。
(あそこだけじゃないな)
半分廃墟のようなパチンコ屋を過ぎると、シャッターの降りた(むしろ店が開いているのを鏑木は見たことがない!)商店街、さらには一際周囲から浮いた城、そう城だ。ご休憩の文字を鏑木は認める。あの城もどきにも、入れない。制服だから。
(ご休憩の予定ねーけど)
「こら、見るものじゃない」
「あ、はい」
夜になるとネオンが輝く悪趣味な城の前を! 大人専用の城の前を! 青八木と歩くのは、そういえば初めてだ。今日は自転車じゃないから。
青八木と走れば本気になる。本気の競争になれば、それは試合だ。
筋肉で膨らむ青八木の太股はもはや、制服のズボンには収まりきらない。
カバンを引く青八木の腕が、もう一段階伸び、耳を掴む。
力を緩和するべく、青八木の側に鏑木は寄る。
青八木の指がいつもより熱く、鼓動が早く、制服であるとよいこともあるものだと、そのすっきりと整った横顔を眺めて鏑木は発見した。もしかしてこの発見は、ノーベル賞を取れるかもしれない。
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お題【卒業】
ザリガニは卒業した。と発声したときの鏑木の顔を、段竹はよく覚えている。
右掌に握り込んだオレンジビーナがぬるくなっている。手嶋の組んだ足の、爪先がふらふら揺れている。紙パックからずるずると液体が吸い込まれる音がする。
鏑木まだかなー、とあくびまじりに手嶋が言う。
「すみません」
なぜだか職員室で教師に叱られている気分に段竹は陥る。経験はある。小学校でも、中学校でも。
ただ隣には、いつもいた(そして段竹が呼び出される原因であった)鏑木は、今はいない。
「いや、怒ってないよ」
「……はい」
手嶋は職員室で説教された思い出は、ないのだろう。段竹は腹を押さえる。わずかに、痛い。
「じゃあ、俺が青八木さん呼んできますよ!」
と鏑木が宣言したのは、もう一時間以上前であった気がするが、時計を確認するとまだ十分も経っていない。
鏑木の宣言は中庭で遇った手嶋が、そういえば青八木に渡さないといけないものがあったと世間話を挟んだすぐ後だ。青八木の名前が出るなりの反応だった。
「たいした用事じゃなかったんだけどな」
「すみません、一差が」
「助かるよ」
今の時間だと教室か購買だな青八木と手嶋の口調は呑気だ。
「鏑木が青八木を呼びにいってくれてると助かる」
手嶋はそう言ってくれはするが、単純に一差のやつは呼びに行きたかったのだろうなと段竹は思う。
可能ならば、休み時間ごとに青八木のもとに突撃したい願望を抱いていても不思議ではない。
鏑木の登下校の話題は小野田のことが五割、青八木の話が四割だ。
鏑木がザリガニに飽きたと宣告した瞬間を、段竹はとてもよく覚えている。
唐突だった。
そんな傾向は一切なかったし、前日までは餌の種類を、冬眠の時期を、ザリガニの生態を、鏑木は熱心にしていた。飽きたと告白したときの声も、ザリガニの名前を楽しそうに語るときと同じ明るい声。
(これからはフナだよな、やっぱり)
何がなんだ。と段竹は思う。
鏑木は眩しい。光が射すように何かを愛し、日が沈むときみたいに当たり前に飽く。
(一差)
青八木に対する鏑木の態度を、段竹は危ぶんだ。青八木はザリガニではない。鏑木家の物置の隅に転がる変身ベルトでもない。
「……不安か」
気がつくと、手嶋がじっとこっちを見ている。
「いえ……いや、少し」
何が、とは手嶋は言わないので、段竹も言わない。
ストローの袋を手嶋は折っている。紙の袋が星の形になる。
「ま、いいんじゃないか」
若い二人のことだし?
見合いのような発言を手嶋は行い
「来たな」
と目を細めた。
「青八木さん、連れてきたぞ、段竹!」
渡り廊下の向こうから叫ぶのは、鏑木で、その後ろには青八木がいる。叫ぶな、と注意されたのか、鏑木が振り向いて何かを話している。
青八木にうなずくときの鏑木の横顔は穏やかで、どこか青八木と似ていて――段竹は先週に鏑木が、フナの子供にザリガニと同じ名前をつけたこと、あの変身ベルトの出てくる番組の歌をカラオケで歌ったこと、いまだに本棚に大事に飾られているデカマジロボのことなどを、凄まじい速度で思い出した。
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お題【夢】
高熱があるときみたいに、全身がふわふわとしている。
足元に敷き詰められた銀杏の黄色い葉に、ところどころに散らばるのは掌形の紅葉の赤。
目の前に青八木が立っている。その体は妙に頼りなく、だけど青八木が頼りないなんてあるはずがないので、これは何かの間違いだなと鏑木は判じた。
少し不安を感じた以外は、青八木はいつもの青八木だ。
肩までの髪も、匂いも、黄色のジャージも。
(あれ?)
鏑木は混乱する。そもそも、何でジャージを着ているんだ(ただし、自分も総北のジャージ姿だ)?
部活はどうした(自転車は青八木の背後に停めてある)?
そうだ、自分は喉が渇いている!
だから自動販売機の前で止まったのだ。
鏑木の右の手の中でペットボトルがふらふらと揺れる。冷えているはずなのに、温度が一切ない。
(そっか)
「夢ですね! これは」
「……そう、か?」
青八木が怪訝そうな表情になる。
やはり夢だ。
(いつもの青八木さんだ)
鏑木は安心する。
最近青八木は、夢に頻繁に登場する。別に夢に出てきたところで、空を飛んだり、水の上を走ったり、変身したりするわけではない。
内容は怒られたり、話しをしたり、自転車に乗ったりなどだ。現実と同じだ。
「昨日の続きってわけですか、青八木さん」
「昨日は部活なかっただろ」
「それは現実の話ですよ。しっかりしてくださいよ、今は夢の中なんですから!」
青八木が首を傾げる。さらさらと髪が風に乱れ、でも一昨日の夢で青八木に教えてもらったシャンプーの名前を鏑木は思い出せない。忘れないようにしようと思ったのに、忘れてしまった。
(くそ、何だったっけ)
何でわからなくなったんだ、俺。
「……戻るか」
「はい。あ、勝負しますか、学校まで」
「する」
夢の青八木が頷く。青八木は負けず嫌いだ。知っている。走っていると髪が外に跳ねるのも、どういうタイミングで眉間の皺が消えるのかも。
「変なこと言ってすまなかったな」
「ハハハ、青八木さん。大丈夫ですよ、これは夢の中なんで」
(じゃあ、変なのは俺になるのか)
変なことを言う、少し不安定な青八木は鏑木の夢の産物だ。鏑木の夢を作ったのは鏑木自身だから、青八木が放つ「変」という形容詞はそのまま鏑木に返ってくる。
(青八木さんに変って、思われたくないな)
そう、どうせなら天才とか!
夢の中の青八木は、不思議な部分だけは現実に酷似していて、鏑木をたまにしか誉めてくれない。
夢ならもっと誉めてくれてもいいようなものを。
「大丈夫か、お前」
「絶好調すよ」
「……ならいい」
さあ勝負! と言いかけて、鏑木は肩透かしを食らう。青八木は鏑木の横を抜け、自販機に向かってしまう。
「俺も喉が渇いた」
熱い、と青八木がジャージの前を開ける。
『今日は例年なみの気温となり……』
今朝のニュースが鏑木の中で再生される。自動的に。お天気お姉さんの服が兄貴の好みだとデレデレしてたから印象的だった(そのおかげで兄より先にトースターを占領できて、さっさと朝飯を食べられたのだが)。日中も冷えるところがありますので……。脳内の声は再生を続ける。
(夢)
ふらふらと鏑木は青八木の後ろをついていく。夢の中だから、平気だ。
(頭おかしいのか、俺、やっぱり)
地面に座る頭に、じっ……と青八木の視線が注がれているのがわかる。わかる。夢の中なので、鏑木は顔を上げない。どういう顔をしていいのかわからない。
おかしい。何もかもが。
だって青八木が! 自分に!
(青八木さんが、俺を好きだなんて、変な夢だなー)
鏑木は思う。しかし醒めたいとはまったく思わない。中指と薬指と小指を水滴が伝い、ようやく鏑木の温度を奪っていく。
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お題【食べ物】
ミカンの皮に、目と口を描き入れると鏑木は喜んだ。
「すげえ、なんだこれ」
眉毛をつけ足せば完成する。高い知能指数を誇り、平和を愛する宇宙人だ。
果実を青八木は机の上に載せる。そうだ、とその生き物の底部に名前を書く。
他人に、食べられると困るものに名前を書くのは常識だ(と、手嶋が言っていた。純太が言うのだから、一般的にそうなのだろう。確かに一年の頃に、手嶋と古賀が食べた食べないで言い争っていたことがある。かくいう青八木も仲良くなりたての頃に、手嶋のドリンクを飲んでしまい険悪な雰囲気に陥った覚えがある。集団生活のルールは大切だ)。
「あれ、青八木さん。こいつ尻の穴が横ですよ。さすが宇宙人」
「……漢字だ」
青八木は脱力する。
「いち!」
「名前だ」
「あ、そうですね。青八木さんの」
青八木のミカンを指で押しながら、鏑木は、鏑木一差は言う。
(お前もいち、だろう)
卒業生である寒咲が、客からもらったミカンだ。
段ボールいっぱいのそれは、食べ盛りの男子高校生ども(しかも運動部だ!)によって、あっという間に消費……されつつある。
宇宙人をもう一体、青八木は生産する。
今度は「手」と書く。後で部室に顔を出すと言っていた手嶋の分だ。ついでに縮れた毛髪も。
「手嶋さんですね」
青八木は頷く。
鏑木は相方の段竹を待つ様子もなく、ミカンを食べている。白い筋を丁寧に取っているから、そこまでの速さではないが。
「懐かしいすね。ミカン。小学校で目潰しとかよくやった」
青八木は首を傾げる。そんなことはあっただろうか。あった……あったのかもしれない。
「これってメガネのやつは、有利なんですよ。目に入らないから」
と、重大な秘密を教えるように鏑木は告げる。
「そうだな」
「あと暗号だ!!」
何が嬉しいのか、鏑木の声が高くなる。
「これでですね、文字を書くと文字が消えるんですよ」
「知ってる」
「やりますか」
「止めておく。食べ物で遊ぶなよ」
断ると、鏑木は露骨にがっかりした表情になる。わかりやすい。が、根っこはわかりにくいのが、鏑木だ。
「何を書くつもりだったんだ、お前……」
「それは秘密ですよ。だって暗号ですし」
教えたら面白くない、と鏑木は言う。
二つ年下だというのに、たまに青八木よりも大人のような顔をする。
もうすぐ後輩が入ってきて、学年が一つ上がる。
鏑木も成長しているということか。
(もう少し安定するといいんだけどな)
「……知りたいですか」
「いい。秘密、なんだろ」
「ああ、そうですよ! 秘密です!」
本当に不安定だ。高い音のまま、鏑木の口調は荒くなる。
(段竹と喧嘩でもしたのか、こいつ)
疑問を感じながら、青八木はミカンをまた掴む……上から鏑木が青八木の手を握った。
「!」
冷たい。さっきのことばとは真逆だ。
反射的に、青八木は鏑木の手に触れようとする。しかし持っているのはマジックだ。ペンの先が、黒い線になり肌を分断する。
「……すまん」
「い、いえ……」
鏑木も驚いたのか、青八木と自分の手を交互に見ている。
「洗うか」
「いいすよ。このままで」
横一文字に走る線を、鏑木は振ってみせる。
それから「名前ですね」
と言った。
「一の字だ」
「……?」
「青八木さんのサイン」
「え」
青八木は思わず顔を近づける。
それは暖色をした果実の表皮に描いたものと、同一の。
他人に食べられたくないものには、名前を書いておくのだ。
自分のものには。
鏑木の指からはミカンの香がする。
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お題【炭酸】
「オレンジ色スパークリング!」
橙色の果実に描かれているのは、中年男性の顔だ。
おそらくはイタリアとかスペインのあたりの顔立ち。
目鼻のついたミカンが無数に並ぶちょっとした悪夢のようなラベルが、鏑木の持つペットボトルには巻きついている。
いつもの売り切れてました、と鏑木は、やや暗い声で報告してきた。
校舎の陰にいるせいで、余計に暗く響く。
「くそ、誰だよ。買ったやつ」
「明日か明後日くらいには、業者が来る」
「それ予言すか」
「いや、だいたいそのくらいの周期だろ」
「そっか、じゃあ明日、明日だ」
本当に明日かはわからないのに、鏑木の中では決定しているようだ。
落ち着いたのか、ペットボトルを鏑木が持ち上げる。
喉が動き
「……う」
「どうした」
「苦っ」
鏑木が眉をしかめて、ペットボトルを振る。ぶんぶんと異国の男性達の顔が揺れる。
「きついですよ、これ。痺れる……」
(じゃあ飲むなよ)
と思う青八木の思念は声にしていないので、もちろん伝わるわけもなく、鏑木はさらにペットボトルを空にしようとする。意地みたいなものか。
「ほら、見てくださいよ」
鏑木が口を開ける。
オレンジの匂いが微かにする。
差し出される舌を青八木は注視する。
「……見えない」
どうやって痺れを目視しろというのだ!
いや、そもそもこの体勢はよくない。いいけどよくない。
先だけ動く舌は、鏑木とは別の生き物みたいだ。
赤い色が粘膜の存在を青八木に訴えかけてくる。
昨日の屋上近くの階段のことを青八木は思い出す。それから何で今ここに来たのかも。
「……しまえ」
「あ、はい!」
弾かれたみたいに、鏑木が舌を引っ込める。
落ち着かなくなり、断って青八木は鏑木の悪趣味な炭酸飲料を一口、含む。
苦い。
確かに。
視界の端で鏑木が驚いていて、頭がぼんやりする。
(これ、アルコール入ってないよな……)
ラベルの表示を確認する。ない。原材料は砂糖と行ったこともない国の、果物の名前だ。
鏑木がうろうろと動くので、青八木は正気に戻った。お互いに目的を忘れている。
「しゃっくりか」
う、と鏑木の言葉の間に痙攣が挟まる。
「驚い、たら出て」
「何にだ?」
「いや、青八木さんが、炭酸、飲むの、初めて、みました」
「普通に、飲むけど……」
「いや初めてすよ。俺初めて、見ましたし!」
「そうか?」
「ええ、そうすよ! ずっと見てますから」
鏑木は自慢げだ。ならそうなのだろう。青八木は頷いた。
途端に、肺の下が動く。
「あ」
「青八木さんもしゃっくりですか」
(移るものなのか、これ)
向かい合った男子高校生が二人して、しゃっくりをしているというのも、なかなかに珍妙な眺めだ。
鏑木はどこか嬉しそうに青八木のしゃっくりの数を数えている。
「どうします、百までいったら」
「それよりお前今、何回目だ」
指摘すると「しまったー!」とばかりに鏑木の表情が変わる。
「ど、どうしますか」
(どうって……)
百回したって、別に死なないだろ、とか、水を飲めよとか、青八木の頭の中で言葉が回る。
まだ頭のどこかがふわふわして、言葉が選べない。ペットボトルを飾るイタリアとおぼしき日差し。読めない単語。遠い国の挨拶。
「……大丈夫だ。お前が百回したら、俺もしてやるから」
結局のところ、それくらいしか咄嗟に出てこない。
鏑木が神妙な表情で頷く。なるほど、こういう顔もするのか。思った瞬間に、青八木の痙攣は、止んだ。