「ちわーっす」
白い息を吐きながら、鏑木が部室の扉を開ける。後ろから段竹が「うっす」と続く。
「お、カブダン」
既に来ていた二年生たちの注意が、自然と二人に向く。視線を感じた鏑木は意気揚々と胸を張る。
「皆さん、今日何の日か知ってます」
「へー何の日やろな」
気のない様子で鳴子が返して来る。イチイチゴーやからイチゴの日かな、それともええ子の日かいな、とまで首を傾げてみせる。
「はい不正解!
違いますね」
おい一差、と焦る段竹を後目に鏑木は言い返す。
「俺の誕生日っすよ、16歳」
まあ俺超いい子ですけど、と付け加えると「ないない」と鳴子は声を立てて笑った。
「けど誕生日はネタやないよな。おめでとさん」
「あ、鏑木君」
鳴子の言葉を呼び水に、小野田が立ち上がった。いそいそと寄ってきて、球状のカプセルを手渡す。
「お誕生日おめでとう。えっと、これは僕から」
「ありがとうございます!」
勢いよく恐縮しながら、鏑木はカプセルを回す。
「でも何すかこれ。みかんに変な顔?
あと手と足も生えてる」
困惑するうちに、鳴子からもお呼びがかかる。
「おいカブ、あれに見えるがワイからのプレゼントや」
指さす先にあるのは、大きな段ボールである。箱の脇には「和歌山みかん」と大書されている。
「好きなだけ持って帰れや」
「ちょっと鳴子さん」
鏑木が突っ込む前に、「お前の親戚から送って来たみかんだろ」と今泉が同情めかした声音を挟む。
「余ってるからって部室まで持ってくるな」
「持ってくるの結構大変やったんやで。それに家でカビ生やすよかましやん」
「うーん、部室で食べます」
揉め始める前に、鏑木は結論を出した。「おいしいもんね、みかん」とすかさず杉元のフォローが入る。
「せや、早いもん勝ちやからな」と鳴子は破顔した。大股で箱に駆け寄って、鏑木たち二人の側に次々と投げてよこす。善は急げと言わんばかりだ。
「ホラ。よう揉んでから食えや」
「どもっす」
矢継ぎ早に飛んで来るみかんを、鏑木は細長い指の股に挟んで行く。段竹は掌に重ねて行く。わあジャグラーみたいだ、と小野田が感嘆の声を漏らす。
鏑木は調子に乗って右腕を掲げる。そのまま辞儀のモーションに入ったところで「ボウリングかい」と鳴子が水を差し、鏑木の興味も逸れた。
「あ、今泉さんたちは」
俺に何かないんですか、と問うのを、段竹は「一差」と止めるが特に効果はない。無論、今更に咎め立てする先輩もない。早速杉元が答えかける。
「勿論」
だがその台詞に被るように、「俺は別にない」今泉が宣言した。杉元がさっとその場から引っ込んだ。
「今泉さん、酷っ」
「スカシぃ、忘れとったんやろ」
盛大に、鏑木の抗議と鳴子の茶々が入る。やや頬を染めた今泉は「すまん」と謝罪を零した。
「かーっ薄情やなスカシは。澄ましたお顔とおんなじやァ」
「そんなことないよ親切だよ今泉君は。あ、そうだ」
僕と連名にしない、と提案する小野田に、今泉は「それはいい」と首を振る。
「小野田のプレゼントは小野田の真心だろう」
「……」
眼前の騒動を見物しながら、鏑木は既にみかんを頬張っていた。頬袋がみかんの汁気で満足げに膨らんでいる。「おい一差」と段竹はため息を吐きかけたが、その両手は自分と鏑木のみかんですっかり塞がっていた。
「やあ。おいしいみたいで何よりだよ」
「杉元さん」
しばし気配を消していた杉元が現れる。すみません、と謝る段竹をいいからと手で制し、「鏑木」と主役の注意を促した。
「あ、僕からはこれ」
濡れた手指を避けて、指定コートのポケットに丸い青い缶を差し込む。
「ささくれはハンドル握るのに邪魔だからね。あっ、そうだ」
「!」
鏑木はいちどきに、口いっぱいの唾液と果肉とを飲み干した。
「えっ」
青八木さん来たんですか、と叫ぶと「ああ」と肯定が返って来る。渦中を脱した今泉である。
「すぐ帰ったけどな。それ置いて」
視線の先には、緩くくびれた500mlペットボトルが直立していた。定番のオレンジビーナだ。
「そうそう。温いかもって心配しとったで」
鳴子も、先輩情報を補う。
「冬やからちょっとぐらいええと思うけどな」
「……」
いっぱいに見開いた眼で、鏑木は淡い橙色を凝視していた。メールで礼言うとけや、と言い置いて鳴子は話を閉じようとする。そこに鏑木が唐突に食ってかかる。
「あの、なんで待ってもらわなかったんですか」
俺いないのに、と言い募って地団太を踏んだ。杉元はそっと距離を置き、小野田はおろおろする。
「アホォ」
段竹が口を開くよりも、鳴子の反応が早い。「あの人ら受験やん」と心底からの呆れ声を出す。
「二週間もせんうちに、センター試験やで。来てくれただけで御の字やがな、無口先輩」
「そんな最近なんですか」
「全校集会で言ってただろ」と今泉も鳴子に同調する。両者の見解が一致する、数少ない瞬間の到来である。
「お前全然先生の話聞いてないな」
「失敬な。超聞いてますよ俺」
「夢の中で聞いてるんやろ、お前は。それは妄想や、聞いてるうちには入らん」
毎回騒いで注意されてるお前が言うな、何やて、としかし二人はすぐ口論になだれ込む。取り残された鏑木たちに、しょうがないな、と杉元が苦笑して見せる。
「ずっと先みたいな気がしてたけど、結構すぐなんだよね」
受験って、と小野田がしみじみと口にする。時間を遡るような遠い目で、天井の染みを見上げた。
「俺は高校受験やったばっかですけどね」と鏑木は首を振る。「そうだったね」と小野田は頷く。「まあ受験の前にインハイやろ」
紆余曲折を経た鳴子が会話に入って来る。場の空気がまとまったか、というあたりで、鏑木が再び話題を飛ばす。
「あ、そう言えば次は青八木さんっすよね」
誕生日・2月24日・18歳、と念を押す。
「言われてみればそのへんだったな」
「それにしても、お前よう知っとるな」
「交換で俺の誕生日も教えましたし」
「絶対お前が一方的にしたんやな」
「ねえ」
だが鳴子の慨嘆は聞かれない。「青八木さん来ますかね」と鏑木はわくわくと先輩の名を口に上す。
「おい、多分二次試験の最中だぞ」
ワイはもう言わんで、と匙を投げた鳴子に代わり、今泉が本日何度目かの冷や水を浴びせた。そうなんですか、と鏑木はさも初耳のような顔をしていた。




**



「よっ、久しぶり」
部室の扉が開く。紺の指定コートの手嶋が、煙る呼吸と共に入って来る。
「手嶋さん!」
「ああ、手嶋さん」
「お、パーマ先輩や」
お久しぶりです、と声のかかる中、青八木も続いて戸口をくぐって来た。軽く周囲を見渡して、「元気そうだな」と唇を動かす。
「あっ」
部屋の隅にいた鏑木は、弾かれたように飛び上がった。そのままのそのそと近づいて行く。
「青八木さんだ!」
「純太もいる」と青八木は眉間に皺を寄せて答えた。部活は引退したけれど、長い金色の髪は健在である。
「今泉から連絡があってな」
手嶋が意味深長に頷く。こちらは後ろ髪が心持ち短くなっている。
「まあデリケートな時期かとは思ったんですが」
先輩方なら大丈夫だと思いまして、と今泉も滑らかに応じる。
「言うねえ」
俺明日第一志望の発表だよ、と手嶋は首をすくめて見せた。
「公貴なんて明日が本命だから、前日現地入りしてるぜ。俺もまあいくつか滑り止め受かってるけど、な」
青八木、と水を向ける。懐かしそうに室内を眺めていた青八木は、「ああ」と小さく息を漏らして向き直った。
「俺は第二志望で決まった」
ちなみに自転車競技部がある、と付け加える。おめでとうございます、と二年生の声が揃った。
「Nですか、Tですか」
今泉の問いに「Nの方だ」と青八木は返す。「おおー」とまた、二年生は異口同音に感嘆した。
「俺知りませんよ」
何で先輩たちだけ知ってるんですか、と鏑木が割って入る。鳴子が長くため息を吐く。
「食堂前に貼り出してあるやろ、三日ぐらい前から」
「知らなかったですよ!
どうして教えてくれないんですか」
「そら知らんとは思わんからな」
「ねえ青八木さん!」
矛先を向けられた青八木は「来年は見たらいい」と真顔で処した。
「来年って、あ」
そうですね、と鏑木は神妙になった。怖い怖い、と鳴子はわざとらしく脅えて見せる。
「いざとなると、何とかなるもんだぜ」
予備校は夏からだけど補習もあるし、と手嶋は笑う。
「ロードで鍛えてるだろ、集中力と応用力」
「鳴子は尻を落ち着ける特訓からだな」
「何やて!
スカシかて顔の割にアホやろ。生物とかからっきしやん」
「お前が言うか!」
しようもない論戦が始まった。早速、二人を生温かく見守るギャラリーが形成される。相変わらずの恒例行事なのだ。
「よくやるなあ」
輪の中で二人を見守りつつ、手嶋は呟く。その声色には隠れもない懐旧の響きがあった。一方の青八木は、その喧噪に背を向ける。
「鏑木」
あのメモはお前だろう、と鏑木の耳元に囁いた。
「はい」と鏑木は首を縦に振った。
「オレンジビーナのメモのことだ」
「靴箱間違えてなかったですね。よかったです」
「まあな、だが」
名前書いてなかったぞ、と青八木は淡々と告げる。マジですか、と鏑木は恐縮した。
「じゃあ青八木さん、何で俺だって」
「筆跡だ」
すげー、と鏑木は大仰に驚き騒ぐ。「何度見てると思ってるんだ」と青八木は苦笑した。
「名前はちゃんと書け。入試では致命傷だ」
「はい!」
「本当に大丈夫か」
いぶかしげな表情のまま、青八木は再度鏑木の顔を覗き込んだ。釣られるように鏑木も、首を傾げて行く。跳ねた前髪が触れそうな距離で、青八木が小さく口を開く。
「鏑木、正直俺は」
全部危ないところだと思っていた、と低語した。えっ何言ってんすか青八木さん、と鏑木は聞き返す。
「実技もあったしな。俺としても出来ることはやったつもりだったが。そこで」
「聞こえませんよ!」
「何だ」
「いや聞いてますけど!」
甲高く声を張る鏑木に、「どっちなんだ」と青八木は問う。鏑木はその質問には答えなかった。
「つまりギリギリだったんでしょ」
「そう、だが」
言い淀む青八木に、不思議そうに聞き返す。
「でもそれって、いつものことじゃないんですか」
青八木は瞠目した。それから、ゆっくりと俯いた。
「そうだな」
三日月のように口元が緩んで行く。青八木の顔つきの変化を、鏑木は至極嬉しげに眺めていた。
「お前の気持ち、確かに受け取った」
「どういたしまして!」
でも、と誇らしげなまま、鏑木は逆接を口にする。不穏な気配を感じてか、青八木の微笑は曇る。
「青八木さん、つまり第一志望は、お」
「コラ…」
腕を掲げて、青八木は鏑木の耳を引っ張った。
「言うな。純太がまだだ」
「全くだよ」
聞こえてるぜ鏑木、と背中ごと振り返った手嶋が声を投げた。いつの間にか舌戦は止んでいる。
「カブ、何か忘れてへんか」
にやにやと笑みを浮かべて、鳴子が鏑木を煽る。鏑木は戸惑った様子を見せる。
「へっ、何ですか」
眉を顰めていた青八木が、軽く息を吸う。視線の先では、手嶋が指先で合図している。
「お前が最初に言え、イキリ」
楽しみにしてただろう、と今泉が促す。鏑木君、鏑木、と小野田と杉元が口々に呼ぶ。
「ああ!」
得心が行った風に、鏑木は叫んだ。心配そうに「一差」と零す段竹を見て、部室の奥を確かめて、最後に青八木の瞳を、じっと見据えた。



(完)

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