ぴたん、と水音が響いた。続いて、蛇口を締め上げるぎゅっという音が響く。
「すみません!」
急かされるような心地で、鏑木は浴場のドアを引いた。浴槽の手前で、青八木が振り向く。
「わざわざ水止めてもらっちゃって」
「いや…」
構わない、と青八木は軽く眉間に皺を寄せた。背筋のなだらかな筋肉が、反応に連動して震えた。
「蛇口、ちょっと緩いんですよねー。替えろって言ってるのに、調子がいい日もあるからって結構長いことそのままになってて」
「ねじを締めればいいんじゃないか」
「また戻って来ちゃったんですよ」
そうか、と青八木は頷いた。視線は壁際に落ちている。まるい肩を眺めながら、「しまった」と鏑木は舌打ちをした。たなびくタオル地を太腿に感じながら、大股に壁の側に向かった。青八木の視線が追いかけて来る。
「青八木さん、これ!」
尻、洗ってください、と洗面器を差し出す。だが青八木は、三白眼を見開いて「いや」と頑なに拒否した。
「じゃあ俺洗いましょうか」
「…違う」
今度はかぶりを振る。どうやら、青八木は恐縮しているようだった。剥き出しの肩の上に、金髪の尖った先がぱらぱらと散らばる。
「お前が先に洗え」
「えっ」
「家の者より前には使えないだろう」
と、かすれ声で答えた。「成程」と納得して、鏑木は腰を屈めた。青八木から目を逸らし、浴槽に桶を入れる。湯をすくってからはたと気付き、身体を扉の方に向け直してから、桶の内容をぶち撒けた。



***


バスタブの中には、内壁のクリーム色が広がっている。素通しの湯に、鏑木は未だかつてない程の頼りなさを感じた。何とはなしに膝を抱えると、眼前に青八木が浸かっている。ゴムを忘れたのか金髪を槽の縁にかけて、こちらも手持ち無沙汰に座っている。
青八木と風呂に入るのは初めてだ。合宿で泊まりはあったが、入浴時間は学年ごとに分けられていた。
「入浴剤、入れたらよかったですかね…」
沈黙の下から、鏑木はおずおずと話を切り出す。水面を見つめていたらしい青八木が、目線を上げる。
「例えば…?」
「え…っと、オレンジの奴とか」
そんな入浴剤が存在するのか否か、鏑木は知らない。風呂の湯に異物を入れる習慣がないからだ。不安を覚えたが、青八木はただ「ふうん」と頷いただけだった。
「オレンジの色と香り、か。いいな」
「そうですか!?」
でも寝ぼけて飲んだら困るな、とくつくつと笑った。緩い波紋が、ざわざわと鏑木の方に広がって来る。
「……」
波紋をたどって、鏑木も水面に目を落とした。熱を持った透明な液体の奥に、自分以外の身体がずっしりと沈んでいた。蛍光灯の屈折で、筋肉の質感が妙になまなましく映る。遮蔽物もなく、視線は盛り上がった膝の向こう側に吸い込まれた。青八木の身じろぐ気配がした。
「さて」
「青八木さん」
問いの先を奪って、ちょっと待ってください、と要求する。青八木は不思議そうな顔つきで、水中に留まる。
「どうした、鏑木」
「あの」
ちょっと触っていいですか、と鏑木は身を進めた。
「何を」
「空気です、そこの空気」
ほら、と説きながら青八木の脛を撫でた。皮膚を覆っていた細かな気泡たちは、こぼれて水面に上り、やがて消える。
「俺、これ好きなんですよ。だから」
更に指を滑らせる。滑らかに剃った脚の表面が、次々と露わになって行く。
「そうか」
まあ面白いもんな、と青八木は暢気に同意を示す。そうでしょう、と言い募って鏑木はまた泡つぶを殺す。必死である。
「ちょっと炭酸にも似てるしな」
好きだろ炭酸、と口にした後、ややはにかんだ気配があった。「好きですとも」と返答して、鏑木はふと息を吸った。錯覚か、鼻腔に甘いオレンジの香が広がった。




(完)

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