いないんですね、と室内を見回してまず、鏑木は言った。
「鳥。お店がトリカフェなのに」
「ああ」
確かにいない、と青八木も肯定する。
「鳥は駄目だ。何と言うか、色んなものを飛ばして来る」
小学校にいただろう、と問うと「いましたね」と鏑木も同調する。
「だからだ」
だがいないこともない、と青八木が付け加える。
「えっ、今いないっていったじゃないですか」
「飼ってはいない。だがメニューにはいる」
から揚げ、ハーブチキンサンド、と数え立てる。鏑木は首をかしげるが、すぐに「名物ですか」と聞き返す。
「名物だ、というか何でも美味い…」
特にパンが美味い、と強調するのは忘れなかった。
開店までは充分に時間がある。大きな窓から差す陽光が、木造風の壁を明るく照らす。
内装はヨーロッパの田舎をイメージした、ごく気軽な作りである。手嶋が持ち込んできた大きな古時計の上には、青八木のタイプしたメニューが鋲で留めてある。通り様に鏑木がちらりと目線を送って行く。
「本当にトリだ。あ、オレンジジュースあるんですね」
勿論ある、と顎をしゃくって、青八木はカウンター脇の扉を開けた。
「ここが更衣室だ」
「狭いっすね」と鏑木が忌憚なく感想を述べる。青八木も「おい」と窘めはしたが、別段反論はしなかった。
行先の部屋は細長く、奥行きも左程ない。小さなスペースには五人分のロッカーがひしめき合い、手前には消耗品入りの段ボール箱が積んである。
「お前はそこだ」
青八木は一番手前のロッカーを指す。鏑木が戸を引くと、平たくなった白と黒の制服が鎮座していた。
「早速着替えていいっすか」
「そうだな」
鏑木の尻を追い越しながら、青八木は頷く。すぐ隣のロッカーを開けると、同じ白黒の上下が、こちらはハンガーで吊り下がっていた。



「外にかけとくのはどうですかね」
鳥かご、と鏑木は先の話を蒸し返す。
「テラス席あるし。誰か飼ってないんですか、鳥」
着替えたか、と髪をかき上げて青八木は訊ねる。「無論」と鏑木は威勢よく答える。
「普通のシャツとズボンですから。あー、これ中学校の制服に似てますね、色とか」
うち学ランだったんですけど、中間服が丁度こんな感じで、とべらべらと補足した。「俺のところもだ」と返すと「お揃いっすね」と鏑木は嬉しげにかぶりを振る。
「……」
何か言いたげな沈黙を挟んで、青八木は一度ロッカーに潜る。黒いカフスボタンの腕だけが、鏑木目がけて伸びて来る。
「何ですか、これ」
リレーのバトンを受け取るように、鏑木は青八木の掌に掌を重ねる。
「おい」
潰すな、と叱りつつ、青八木が不自然な体勢のまま戻って来る。鏑木は身体ごと下がり、青八木の体重を引っぱり上げる。掌中にあった物体は、結局二人の手の間で潰れた。
「大丈夫っすか」
「潰すなと言っただろう」と青八木は細い眉を顰める。手指を開くと、よれてはいるがリボン状に成形された黒い布が入っている。
「襟元に留めておけ。これで中学生には見えない」
鏑木はおお、と歓声を上げた。摘み上げると、リボンの裏にクリップが接着されている。金具ごと握られていた青八木の掌には、くっきりと金具の痕跡が残っていた。
「……すみません」
消沈するのを「謝らないでいい」と一蹴し、青八木はまた自らのロッカーに向き合った。鏡の裏から同じ蝶ネクタイを取り出し、手早く首元に挿す。
「つけ方、わかるか」
「あ、はい」
しおらしい返事には、今しがたの衝撃の名残がある。そのままの口調で、「青八木さん」と鏑木は問うて来る。
「あの、今日ちょっと髪の毛違いますよね」
ちょっと後ろに流してません、と訊ねる。「ああ」と青八木は是認する。
「ワックス、持ってたら貸してください」
俺も後ろにやります、カフェですし、とおずおずと言い出した。「わかった」と呟く青八木は、鏑木の襟首に指をかける。はっと目を見開くのに「俯くな」と声をかけて、リボンの角度を心持ち手前に回した。



「マスター開いてるー?」
入り口の方から呼び声がかかった。開放的な店内とはいえ、隣室までよく通る美声である。
「え、まだですよね、開店時間」と声をひそめる鏑木を、青八木はただ「落ち着け」と諭した。
「儲かりまっかー?」
「っと、すいませーん」
続いて、また別の客人が入って来る。明瞭な関西弁とくぐもった疑問符の不協和音に、鏑木はようやく「ああ!」と雄叫びを上げた。いちどきに調子を取り戻し、更衣室の外へ走って行く。
「小野田さん、鳴子さん」
あと手嶋さーん、と上がる喜びの声色に、青八木は嘆息する。安堵した笑みの浮かぶあたりで、厨房の方から力強く問う声がある。
「どうだ青八木?」
「はい!」
大丈夫です、と青八木も腹の底から回答を響かせる。
「そうか!」
今泣いたカラスがもう笑ったな、と声の主も呵呵大笑した。それを聞きとがめてか、テラス席から鳴子が叫ぶ。
「おーいオッサーン、注文ええですか」
「お前何しに来たんだよ!」
非番だろうが、と田所も怒鳴り返した。大音声の反響で壁が心なしか震える。
「はい、俺注文取りますよ!」と鏑木が宣言している。田所も「準備はいいぜ」と促す。「あっスカシ来た!」とまた鳴子ががなり立てる。
頭を縦に振って、青八木はテラス席に出た。
「鏑木」
メモは取れ、と呼ばわって道具を投げた。リングの太い大罫のメモ帳と、ボールペンである。
「かしこまりました!」
振り向きざまにキャッチして、鏑木はきらきらと笑った。



(完)

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