いとせめて恋しき時はぬばたまのよるの衣を返してぞ着る
小野小町
「恋しい人に会いたくてたまらない夜はぬばたまの、これは夜の枕詞になるな、夜の衣を裏返しに着て寝る、という歌だ。寝間着を裏返しに着て寝る---袖だけ裏返す場合もあるが---これは夢に好きな人が出て来るおまじないだな。
平安時代の『夢』は今の夢とちょっと違ってー、とここ大事な古典常識だからきちんと書いておくように!
テストに出すぞ」
「という訳で」
青八木さんに会いに行くぞ段竹、と鏑木は友人に宣言した。「どういうことだ、一差」と段竹は普段通りの、重々しいがやや驚いてもいる口調で問い返す。
「ハアー」
4組も菅原先生だろ、と鏑木は嘆息した。
「ノート取ってなかったのかよ。和歌のところで言ってただろ」
まあ、と段竹は頷く。しかし戸惑った表情は変わらない。
「一人で、行くのか」
「勿論」
段竹はちゃんと古文の復習しとけよ、と言い置いて身体を翻した。夕焼けの中、馬の首の如くハンドルを巡らして、ひらりと愛車にまたがる。
「一差、青八木さん家知ってるのか」
背筋の後ろから段竹が声を張る。「知らねーけど」と振り返りもせず鏑木も叫び返す。
「だから学校行く」
「もう夕方だぞ」
忠告の言葉は尾を引いて遠ざかり、いつしか千切れた。街は薄赤く染まり、どことなく寂しさを掻き立てる。ここは鏑木の夢の中だ。
「夢に好きな人が出て来たとして、今だったら『あたしがあの人のことばっかり考えてたから、夢にまで見たのね…』って思うだろ?
でも平安時代は逆なんだよ。『好きな人があたしの夢まで会いに来てくれたのね…』なんだ」
正門坂を登って部室に向かう。部活の時間は無論終了して、照明も既に消えている。ふと見上げると上級生の教室棟にはまだ明かりが灯っている。それを無心に眺めながら、鏑木はフェルトを柵に錠付けした。
「百人一首にも当然夢の歌は入ってる。一月にクラス対抗カルタ会があるから、今のうちから覚えておくと便利だぞ。
たとえばこいつ、住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらん---二句目までは序詞で、寄る波の寄るからナイトの夜が引き出される。どうして夜見る夢の中でも、通ってくるのに人目を避けてしまうのか、という歌だな。三句目までの頭だけ読むと『スキヨ』になるけど折句じゃないぞー、間違えるなよ」
薄暮に満ちた細長い世界で、明るい教室は一つだけだ。誰もいない廊下を、息を殺しながら歩いて行く。自然と教室札が目に入る。まだ判読できない程の暗さではない。
「二年生?」
首を傾げたところで、ようやく人影が目に入った。例の教室の外側に、男子生徒が一人立ち尽くしている。
「……」
足裏の動作に集中して、鏑木はゆっくりとその背後に回り込んだ。彼は気付かない。廊下の柱に隠れるようにして、ひたすら内側を窺っている。
明かりのついた室内には、やはり男子生徒が一人座っている。その机上には大量の封筒や書類が積まれており、生徒は紙切れにペンを走らせ、封筒の口をナイフで裂いては、別の山に積み替えて行く。しかし紙の束は減らない。青ざめた横顔は、黒々とした癖毛に縁取られている。
「純太…」
声にならぬような声、幻聴や無機物の偶然に立てた音でも誤りそうな声が、その男の名前を呼ぶ。握られた拳は今にも血を流しそうだ。廊下の男子生徒は小柄で、髪の長さは肩につくやつかずである。夏も終わらないのに、長袖の中間服を着ている。
人造と思しき金髪は薄闇に陰り、本来の輝きを発揮していない。半開きの曇りガラスが、内外の感情を隔てている。鏑木は息を飲んだ。それから、窓枠ごと砕けよとばかりの剣幕で、大音声を発した。
「青八木さん!」
驚愕の表情で、青八木が振り向いた。鏑木の知る彼よりも顔つきは幾分幼く「去年の青八木さんだな」と鏑木は知らないながらも独り納得した。
椅子の脚が床上に擦れる。教室の内側でも、手嶋が書類の間から立ち上がり、廊下の窓へと近づいて来る。
「青八木?」
何だ待っててくれたのか、と手嶋は緩く笑った。こちらも、額に垂れかかる前髪でやや頼りなげに見えた。
「あの、純太。俺に出来ることがあったら」
遠慮しないで言ってくれ、と青八木は一息に告げた。手嶋は薄い隈のある目を見開いて、「ありがとな」と頷いた。鏑木はその光景をただ見守っていた。
「鏑木」
と、唐突に青八木がその名を呼んだ。部活で聞く、迷いのないいつもの声音だった。
「え、え」
何で俺のこと知ってるんすか、と鏑木は狼狽した。
「だって青八木さん二年だから、俺まだ入学してない」
その問いには答えず、青八木は口の端で微笑した。瞳を閉じるといとけなさがやや減じ、最近の精悍な顔立ちに近づいた。
「ありがとうな、鏑木」
再び瞼を上げて、青八木はまっすぐに礼を言った。その眼光は、紛れもなく三年生の、鏑木の大好きな先輩の獲物だった。
(完)
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