歩行者信号が点滅する。伸び上がる鏑木を制して止まると、二人の間を温い風が抜けて行く。
坂を下りた先の通学路は、住宅街とも商店街とも言い難い道路である。樹木と低い屋根の家々を浸す、夏の宵闇は透き通った色をしている。
「……」
横で蠢く後輩の存在感は、青八木をやや落ち着かない気分にさせた。この道を鏑木と帰るのは初めてだ。
信号はやがて青く変わる。鏑木の視線を感じながら、青八木は先に立って走り出した。サイクリング程度の速度ではあるが、風はいちどきに涼しさを増した。
興が乗って来たあたりで、鏑木がわくわくと喋りかける。
「青八木さん、音楽で映画見ました?」
「音楽?」
授業の話か、と聞き返すと、はい、と答える。
「見ていない。俺は美術だから」
純太は選択音楽だったな、などと考えながら、何気なく返したところで青八木ははたと気付く。沈黙が下りる前に、急ぎ質問を返した。
「で、何の映画を見たんだ」
「それはですね、あ、えーと」
タイトルは忘れちゃったんですけど、と鏑木は悪びれずに言い放つ。おい、と内心嘆息しつつ、青八木は続きを待つ。
「そうだ、音楽家のなんか暗い映画なんですけど、出て来るお菓子が超うまそうなんすよ」
「そうなのか」
どんな映画なんだ、といぶかしく思ったが、取りあえず頷いた。
「あとやたらとうんこうんこ言ったりして、鳴子さん思い出しちゃいました。変な映画ですよね」
うーん誰だったかな、聞いたことある名前だったけどな、と鏑木は首をひねる。
「ねえ、青八木さん誰かわかります」
「いや、全くわからん」
あとで純太に聞こう、と密かに青八木は決意した。それから「授業で映画なんて見るんだな」と口に出して見せた。
さっきから、意識して会話を繋ぐようにしている。互いの心を了解し、好きな時に好きな言葉で話し合い、空気のように存在する手嶋と、並んで走るのとは違う。
鏑木と段竹の間柄も同様だろうか、と青八木は想像する。一人インターハイのメンバーに入ってから、鏑木は段竹と一緒に下校していない。
レギュラーとそれ以外の練習メニューは異なっている。それに鏑木は、時折秘密特訓をしている。
「選択美術は基本、絵を描いてばっかりだ」
映画はない、と呼び水の如く付け加えると、鏑木は「いいでしょ」と無邪気に笑った。
小さな林の脇を通り過ぎる。セミの声が湧いて来る。ゆるいカーブを曲がる時には、鏑木はぴったりと後ろに付ける。
黙っているのは不自然ではない。しかし青八木は緊張している。鏑木もおそらく同様だ。前方の安全を確認して、青八木は背後を一瞥する。
「鏑木、さっきガススタの看板があったな」
「はい!」
あの黄色いやつですね、と弾んだ声が即座に返る。
「純太の家は、あの道を入るんだ」
「へー、じゃあ近くなんですか」
「いや、入ってからが長いんだ。住宅街に着くまで、小さい道でぐねぐね曲がっている」
「ふーん。なんか手嶋先輩のパーマみたいっすね」
「コラ…」
青八木は軽く目を剥いた。この後輩はたまに信じ難い発言をするのだ。
失礼な発言を窘めるうち、十字路に辿り着いた。普段ならば、青八木はこの道を直進する。
「鏑木…」
減速するまでもなく、「あ、左です」と背後から声がかかる。頭部で了解の意を伝えて、青八木は十字路を左折した。道の先は暗いが、両側には街灯が灯っている。走っているうちに水田が見えて来る。学校の付近にはない光景だ。
「初めてだな、この角曲がるの」
つい口にすると、鏑木は「ええ」と大げさに驚いた。
「先輩にも知らないこと、あるんですね」
「ああ…」
戸惑いを覚えつつ、青八木は同意めいた音声を発する。そうした評価をされるのもまた、初めてのことだ。手嶋は確かに物知りで、世間にも明るいけれど、青八木の興味の範囲は狭いし、人間関係も狭い。同年代に比べても、むしろ知らないことが多いと思う。
だが、学年の差があるからだろうか。後輩からすると、先輩には格好よくあってほしいのだ。
(それはわかるな…)
ふと、田所さんのことを考える。青八木にも、更に手嶋にも、田所さんの苦悩はわからなかった。そして田所さんの側でも、己の弱さを見せまいとしていた。それはきっと、後輩の希望を知っていたからだ。今の自分たちの身の上であれば、そうした心の動きも、少しは理解することができるのではないかと思う。無論田所さんの境地には遠く及ばないだろうが。
「俺にだって、わからないことはある」
蘇って来た切なさを堪えて、青八木は微笑した。神様の存在さえも信じている、鏑木の捉えどころのない純粋さに向けて。
「さっきの映画のことだって、知らなかっただろ」
「なるほどなるほど」
鏑木は軽妙に相槌を打った。
「わかりました。じゃあ明日の朝も、初めてですね」
「は?」
深刻なムードがいちどきに吹き飛ぶ。青八木が勝手に嵌り込んだ空気とは言え、鏑木の発言は唐突である。
「何がだ、鏑木」
「だから、朝この道を通ることですよ」とこともなげに鏑木は言う。
「ここ朝めっちゃ鳥がうるさいんですよ。カラスとか、スズメとか。あとは、セミも鳴いてますね。この時間に鳴いてるのはニイニイゼミなんですけど、朝はアブラゼミとかで」
そりゃあもううるさいんですよ、鳴子さんぐらい、と付け加える。
「おい…」
一言多い、と指摘しつつ、青八木は笑みを禁じ得なかった。今回は心底からの微笑である。
本当に鏑木の言動は突発的だ。秘密特訓後の世間話で夕飯の献立を聞かれ、「今日は親がいないから」と返答した傍から「じゃあうち来てくださいよ」と提案された時には、混乱したものだった。
「親御さんに迷惑だろう」と婉曲に断りかけたところで、既に実家への打診が完了していた。すべてが性急すぎる。
遠い背後で太陽が沈んで行く。熱も夕焼けも退き、穏やかな夜が新しい光に備えるべく訪れる。水田から野太い蛙の鳴き声が響く。「青八木さん、牛ですよ」と、子供の如く鏑木がはしゃいで見せる。
(完)
back