神の啓示は突然にやって来るものだ。だが鏑木は、それを神の気まぐれだとは思わなかった。
プライドの賭かる秘密練習の休憩中、部の生死を賭けた如きインターハイの真っ只中。すべては必然性に基づいて訪れるのだ。自分が壁にぶつかっているとか、何かに必死になっているとか。
ある時部室はオレンジの樹の生い茂る森と化す。部の旗を掲げて、手嶋がまぶしそうに空を仰ぐ。薄い肩の後ろで、今泉と鳴子が何か揉めている。二人の間に挟まる小野田は例のように慌てているが、しかし笑顔ではある。深刻な口論ではないのだろう。あの二人実は気があってるよな、と決め込んで鏑木は樹木を見やった。絶妙に手は届かないが、登れそうな幹の太さだ。何なら枝を揺すってやっても良い。
と、喉元がむず痒くなった。炭酸水を飲み干す時のような、くすぐったい感覚が身の内から湧いて出て来た。続いてさわやかな甘い香りが生まれる。口内からは次々と白い花が芽吹いて来る。花片の味は不思議と美味であった。
耳たぶをくすぐる風は、自転車で疾走する感覚を思い起こさせる。視界の端に長い金髪の毛先がちらちらと見え隠れする。気が付くと女神らしき人影が傍に立っている。オレンジビーナの神だ、と鏑木は直感した。
(おじいさんじゃなかったのか)
一度いぶかしく思ってから、そう言えば、と思い返す。考えてみれば、何でおじいさんだと思い込んでいたのだろう。
だいたいおじいさんはロードバイクに乗れるかしら。
(ママチャリか外車ならおかしくはない、のか)
ビーナとビーナスの音は似ている。飲み物の色も若く明るい。でも女神か、と鏑木は軽い戸惑いを覚える。何をされた訳でもないが、女子は苦手だ。どう接して良いかわからない。
「鏑木」と神が呼ぶ。果たして女の声ではない。神様の声を聞くのは初めてだ。神様の啓示はいつもメモ帳だからだ。
赤青の布がなびいている。神の肩を覆う布地は、手嶋の手にしていた部旗に少し似ている。
(神様)
顔を上げると、たわわに実るオレンジの果実が目に入る。濃い緑の葉が、青空を隠す如くに密集している。鮮やかなコントラストを背後に、目隠しをした子供がいきなり眼前に現れた。橙の髪の幼児はあっという間に弓を構えて、鏑木の眼目がけて矢を放った。
何しやがる、と思ったがやはり反射的に目を閉じた。そこで目が覚めた。
「あ、青八木さん」
「大丈夫か」
朝から騒がしいな、と逆さまの青八木が呆れ顔で眺めている。
「あの、青八木さん」
俺夢を見たんですけど、と覚醒した鏑木は早口に訴えた。「起きてから言え」と青八木は眉間の皺を深くする。
「わかりました」
顎をしゃくって、鏑木はシーツの上に正座した。寝間着を着た青八木も、鏑木の脇に這い上がって来る。
「という夢を見たんですが」
何だと思います、と改めて訊ねる。
「まあ青八木さんは出てなかったから、もしかしたら知らないかもですけど」
出演が問題なのか、とひとりごちながら青八木は目を閉じる。金色の前髪から見え隠れする眉毛は金色をしている。しかし睫毛の色は明らかに薄い茶色だった。しばしあってから青八木は瞼を上げた。
「春だ」
何ですって、と鏑木は聞き返した。
「だから春だ」
ボッティチェリの春、と舌を噛みそうな名前をゆっくりと口に上した。
「ロビーに複製が飾ってあっただろう」
「なるほどー、あの絵そういう名前だったんですね」
見たことあるけど全然知らなかったです、と鏑木は何回も頷いて見せた。





(完)

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