公園のフェンスの向こうを移動販売の車がのろのろと移動していく。
搭載のスピーカーから流れるのは交響曲第九番の第四楽章だ。一昨日、動かなくなった男性の部屋に飾られていたレコードに収録されてた曲だった。そして、年末に彼が趣味のサークルで合唱した楽曲。
……いよ、……すいよ、と楽曲に濁った声が混ざる。運転席は光が反射して神宮寺からは窺えない。
背後では桜が満開だ。
花見には最適な時期だが、十分ほどの徒歩圏内にある河原に植えられた桜の方が本数が多い。そのためか、公園内には花見客はいなかった。
花の重みでしなった枝は神宮寺の頭部を、肩を覆い隠す。
大木が地面から吸い上げた水が、道管を流れていく。
音を聴きながら、記憶の抽斗を神宮寺は開けた。
頬に軽く指を添えると感情が凪ぎ、スムーズに抽斗は抜くことができる。
壮大な交響曲を好んだ男性の末期の声と彼の人生の記録をラベルする。実態のない企業への融資と、人身売買と違法薬物の取引と、彼の愛する家族の誕生日の思い出も同封する。
保管する。
(忘れていたな)
施錠してから、学生服の下で肘の冷たさが蘇った。洗浄した後に残る水の温度。
同梱をし損なった。
たぶんあの人の家族のことを思い出したからだろう、と神宮寺は考察する。
同級生だったという妻と、遅くに授かった幼い子供。自分の背丈と同じサイズの熊のぬいぐるみを抱き上げる少女の写真。
すぐにそれは、違法の競り市の写真と紐づけられる。
(あの人は、悪事に手を染めるとき自分の家族のことは考えなかったんだろうか)
答えのない疑問だ。
人間は平等だ。命の重みも、与えられる可能性も運命も平等であるべきだ。
机上の空論だとしても。
故に奪う命に対して、神宮寺は今まで対話を試みたことはなかった。
風が強くなり、背に流した髪が乱れる。
頭上の桜が弾けるように散った。視界を白の花弁が駆け抜ける。
(おや)
足元にヘアゴムが落ちている。
大きな丸い飾りがついた、幼い子供が好みそうな意匠だ。ガラスのような表面には傷一つなく、遺失物になってから間がないことが推測された。
(あの子のものだろうか)
滑り台とブランコの間に神宮寺は視線をやった。
剥き出しの土に幾何学模様が描かれている。
先から、その上では、一人の少女が片足で跳ねては両足で着地する遊びを繰り返している。
近隣の私立小学校指定のコートの、重そうな裾が、少女が跳ねる度に肩掛け鞄と一緒に上下した。
「これは、君のものかな?」
話しかけると少女は神宮寺を見返した。青色の目が、髪飾りと同じ素材で作られているように光を反射した。
灰色のクラシックなデザインのコートから伸びる首筋は恐ろしく細く、血管や骨が透けそうなほどに白かった。
「うん。おにーさん、ありがと」
別の生き物のように、くるみボタンの袖から覗く白い指が動く。
人差し指と中指の爪の長さは同じだ。
少女が腕を捻る。筋肉が収縮し、関節の空隙を満たす液体が移動し、骨の車軸状の凸部が回転する。
ゆっくりと腕を伸ばし、それから引く。甘い息の匂いがした。
「痛くないの?」
「痛い……?」
返すと、「だって血が付いてるよ」と少女は言った。
「ビョーイン行く?」
「どこに、付いてるのかな」
「んー」
地面の丸と三角模様の上を、スキップしながら少女は移動する。三角一つ分と丸二つ分を往復し、勢いよく神宮寺の腕を掴んだ。
肘だった。
「ここ!」
「……怪我は、してないよ」
「そっか、そっか。ならよかった。怪我したら痛いもんね」
制服越しに食い込む指の冷たさは水温を想起させる。
子供の同業者の話は、神宮寺は聞いたことがない。ただ存在するとすれば脅威だった。
(この子は……)
わからない。
改めて神宮寺は少女を観察した。愛らしい容姿は、ターゲットを油断させるには最適だ。
薄桃色の髪の毛も、ミルク色の肌も、どことなく現実感がなく、夢の中にいる錯覚を覚えさせる。
「怪我がなくても、痛いことはあるよ」
なぜ、自分がそんなことを口にしたのかはわからない。いっときでも、子供の殺し屋という醜悪な想像をした自己嫌悪かもしれなかった。
「そーなんだ?」
神宮寺の腹の位置で少女は不思議そうだ。
「そういうときもあります」
「そっかー」
密着した体勢のままで、少女は鞄を弄った。緑色の怪獣が刺繍されたポーチから、飴玉を取り出して己の口に放り込む。
包紙を開けた瞬間、ぱっと甘い香が広がった。
「だったら、痛いの痛いの飛んでけーって魔法をかけてあげるね」
子供らしい発想だ。
飴玉を口中で転がしながら少女は笑う。
「でも、痛いのってどこに行くんだろうね。空の上かな、それとも僕のとこ?」
「そうだね」
桜の花弁が載ったつむじは綺麗な渦を描いている。まるで専門家がデザインしたみたいに綺麗な渦だった。たぶん血管の分枝も、椎骨の突起も、骨の断面のハバース層板も、この子は綺麗だ。
「じゃあ僕の……未来に」
「君の未来に飛ばせばいいんだね?」
「うん」
「君は名前、何ていうの?」
名乗ると少女は頷いた。
「わかったよ」
左肘が小さな両掌に包まれる。
「寂雷の未来に、痛いのを飛ばしてあげるね」
少女がゆっくりと呪文を唱え出す。
と、だらだら続いていた交響曲の音色がぐにゃりと歪んだ。政治家の娘の姿と、目前の少女がオーバーラップし、記憶の抽斗が束の間震える。さらに人身売買の現場写真、もっと昔の凄惨な事件の被害者の記録群が再生される。
すべては幻覚だ。
振り解くように神宮寺は視線を逸らす。足元の円は真円だ。おそらく三角形も狂いのない正三角形で……。
舌先の飴が歯に当たって軽い音を立てるのを、神宮寺は聞いた。
移動販売の車が、ようやく角を曲がって視界から消えていく。
「おい、寂雷」
「獄」
級友の声に、神宮寺は瞬きをする。
「どうしたんだ」
「どうしたじゃねえよ。式に遅れるぞ。代表のくせに」
「ああ……」
色素の薄い天国の瞳をまじまじと神宮寺は見つめた。
「もうそんな時間なのか」
「というか、お前さっき」
「うん?」
天国が言い淀む。
「あいつといなかったか」
「あいつって……」
聞き返すと、天国は先週まで交際していた少女の名前を零した。交際が終わりを神宮寺に報告した際に、言葉とは裏腹に未練を残しているようだった天国。
「いや、会ってないよ」
そもそも彼女とは話したこともない。
話したことはないが、天国の恋人はいつも天国に少し似ていて神宮寺は好感を持っていた。
「……ならいいけどよ。てか、やっぱり帽子忘れてきたな」
「本当だ」
頭上に手をやると、肘に留まっていた甘い痺れは霧散した。
取りに帰る時間はないな、と考えた神宮寺に、天国が櫛と自身の帽子を差し出す。
「これでも被っとけ。あと花がついてるぞ」
「いいのかい、獄は」
「俺は別にいいんだよ。お前がだらしねえ格好してると問題だろ」
天国の帽子からは、彼の愛用する整髪料の匂いがする。
砂糖菓子の残り香を一掃する強い油の匂い。
「じゃあ、ありがたくお借りするよ……あ」
一歩踏み出すと、靴の裏で何かが弾けた。
靴を持ち上げると、底にピンク色の飴玉が張り付いていた。潰れた球から黄色の内容物が漏れている。
「あー、本当に何やってんだよ、寂雷!」
天国が髪を掻き毟る。セットした髪が崩れるので、神宮寺は申し訳なくなった。
リンゴを売る車が独唱する、フランツ・リストの「愛の夢」が音階を変えながら遠くなっていく。
踏んだ飴玉の中身は破れた心臓のような形にも見える。
体のどこかが痛むような気がしたが、すぐにその感覚は去っていった。
(了)