今の一郎の手の中にはひんやりとした寂雷の髪の束がある。光の下では明け方に東の空に浮かぶ雲みたいな色に見える。
人生で一郎が触ったものの中で一番艶やかな髪だ。
寂雷がなびかせているときは軽やかで重力を感じさせないのに、こうして握るとずしりと重たい。量があるせいか油断すれば溢れてしまいそうだ。
強く引きそうになって我に返る。
「すんません、痛くなかったですか」
「大丈夫ですよ」
寂雷の声は穏やかで自分に粗相があったのかわからない。
「イチロー、できてるじゃん」
三つ編み、と乱数が手元を覗き込む。編まれた寂雷の髪は美しい紐のように一郎の掌に向かって伸びている。
「もうちょっと緩めに編んでも可愛いと思うなっ」
「そういうのもあるな」
学校のクラスメイト……の髪型は朧げだ。ただライトノベルの登場人物の中には緩やかに編まれた三つ編みの主は何人もいる。
「寂雷の髪の毛はさらっさらで気持ちいいけど、すぐ戻っちゃうんだよね」
困ったねえとヘアーアイロンをかちかちと打ち鳴らしながら乱数は言う。
「これ使えるようになったら、便利だよ」
「それは、三郎にはまだ早くないか?」
「そうかなあ」
寂雷の髪にヘアピンを乱数は差し込む。
「中学生のおねーさんと仕事することあるけど、みんなすっごくオシャレだよ。髪の色も可愛いし」
「それはモデルだからだろ」
一郎は別段、三郎をモデルデビューさせたいわけではない。妹の三郎が最近髪を伸ばし出した。乱数(と寂雷)に三つ編みについて教えを乞うたのも、いつか自分がその髪をアレンジする日が来るかもしれないと思っただけだ。
「一郎が使うこともあるんじゃないの?」
「俺が?」
一郎は思わず己の髪の毛を触る。しばらく散髪に行けていないせいで施設に住んでいた時分よりは伸びている。
「あはは、別に今使ったっていいんだよ」
僕もするもん、と笑う乱数の髪は短い。
「あんま想像できねえな」
「ええーしてよ、イメージ」
「飴村君、一郎君が困ってますよ」
編み終わった寂雷の髪の毛の先端を一郎はリボンで括る。
「じゃ、裏編みチャレンジいってみよっか」
「いろいろあんだな」
「面白いでしょ」
しかしこんなに年長者の髪の毛をいじっていいものかと一郎は鏡越しに寂雷を伺う。……苦笑しているがどことなく楽しそうだ。
「私の知らない分野ですね」と寂雷は言う。
「俺も初めて聞く話ばっかっす」
「飴村君は詳しいですからね」
「そういえばさ」
飴村の細い指がすばやく動き、寂雷の髪の形を変えていく。
「イチローの妹って好きな髪型とかないの?」
「そういや、考えたことねえな」
一郎は首をひねる。そもそも髪型に好きも嫌いもないとは思うが。
「似合うヘアスタイルもいいけど、最初はやってみたい髪型がいいんじゃないかなあ。その方が楽しいしね」
まあ寂雷みたいなスーパーロングに憧れてるっていうなら、時間はかかるけどねとも乱数はつけ加える。
「今はウィッグとかもあるからさ、自由だよ」
「ウィッグか……仕事でも見たな」
先月受けたコスチュームプレイ専門店の依頼を一郎は思い浮かべる。非現実的な色の髪の毛と盆栽みたいな髪型。並ぶ様は壮観だった。
(じゃあ、あれもそうだったのか)
「乱数もウィッグとか使うのか」
「使うよー、けどどしたの?」
興味あるの、と乱数は迫ってくるが
「いや……ちょっと前に髪が長い乱数の写真見かけた記憶があってよ」
「んんんー?」
「いつだろ」と乱数の言葉と「いつですか」と寂雷の問いかけはほとんど同時だった。
(寂雷さん、食いつくな)
冷静な彼にしては珍しい。が、寂雷はすぐに「すみません」と謝ってくる。
「いや、俺もあんまはっきりと覚えてなくて」
検索で見たんだったっか、と一郎は考える。
長髪の乱数は……確か白い長い上着を羽織っていて……まるで白衣みたいだった。手の中で試験管がきらきらと飴みたいに光っていた。横顔のポートレートだったことは覚えている。
たぶんニュースサイトに掲載されていたのだと思う。
「可愛くなったねえ寂雷」
「華やかですね」
リボンを編み込まれた髪、エクステンションを追加された髪、一郎の小指より細い三つ編み……幾多もの髪の半分は乱数の作品だ。
「イチローできそう?」
乱数が一郎の顔を覗き込んでくる。
「たぶんな。もうちっと実戦までは時間ありそうだけど」
そもそも三郎が自分に頼んでくるかはわからないなとも考える。三郎は器用だから、自身で髪の毛はまとめてしまうかもしれない。
(自立心があるってのはいいこと、だよな)
「じゃあ次はイチローの番だねぇ」
「は?」
「ええー、イチローの髪の毛でも遊んでいいってヤクソクじゃん」
「してねえよ」
机の上に展開したアクセサリーが示される。「えらく多いな」と思ったのだ。そういえば。
「遊んでたんですね、飴村君」
「楽しかったでしょ?」
「そうですね……」
「このクリーム、すっごくいい匂いするんだよ。イチローの髪質だったらこれだと思うんだよね」
宝石箱じみた平たい容器を乱数は引き寄せる。こうしたときの乱数は強引だ。
助けを求めて寂雷の顔を見ると、申し訳なさそうに目礼された。
(だめか)
観念して一郎は目を閉じる。
「わかった」
「やったね。あーあ、サマトキ様は嫌がるんだよね」
「左馬刻さんは無理だろうな」
「毛繕いされるのが嫌いなのかなー?」
確かに殺気だった左馬刻は獣に似ている。無駄がない動きで相手の喉笛を狙う姿勢はあらゆるものが削ぎ落とされている。視線を逸らしたら、その瞬間に殺される恐ろしさがある。
「飴村君、相手が嫌がることはだめですよ」
「嫌だった?」
「そういう意味では、ないですよ」
寂雷は乱数に優しい。一郎達より付き合いが長いから、お互いの性格も熟知しているのだろう。
「一郎、見ててね」
寂雷との会話に漂う甘さの残る息を吐き、卓上の鏡を乱数が指さす。ゆっくりと櫛と指が動く。
「ね、こうやるんだ」
「面倒くさそうだな」
「あはは。慣れたらすぐだよ」
今だけは揉め事が発生しないでほしいと一郎は願った。自分と寂雷のこの姿ではどうにもしまらない。
「そういえばなんで、イチローの妹のおねーさんは髪の毛伸ばそうと思ったんだろ?」
「ん、ああ……」
なんでだっけ、一郎は一昨日の風呂上がりの会話を思い浮かべる。洗面所で三郎と顔を合わせた。自分の髪は濡れていた。結構伸びたよな、前髪邪魔だよな、と自分が言って、三郎は
(僕も、伸ばそうかな)
はにかんでいた。すぐに二郎も入ってきて喧嘩に発展したけれど。
「そうだな……」
一郎は言葉を探す。鏡に映る乱数は、黄色とピンクの薬品の入った試験管を観察していたときと同じ目をしていた。
(了)
配色及びデザインはこちらの本を参考にさせていただきました。
「見てわかる、迷わず決まる配色アイデア 3色だけでセンスのいい色」(ingectar-e/株式会社インプレス)レトロ01(P62~63)
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