ココアを作って乱数は部屋に戻った。
一郎の姿勢は乱数が事務所に来たときと寸分変わらない。
ソファーに浅く腰をかけ、携帯端末を操作している。
眉間には皺が寄っている。
TDDが拠点としている場所はいくつかある。一つは乱数達と合流する前から使っている左馬刻の馴染みの部屋、それから乱数の職場。あとは領土拡大に伴い書類置き場や待機場所として乱数が契約しているいくつかの部屋……この部屋もその一つだ。
(萬屋の依頼か?)
手間のかかる依頼であれば厄介だなと乱数は思う。一郎達と組んでいるチーム……TDDはトーキョー周辺を制圧し勢いづいている。
これから全国制覇に繰り出すというのに。一郎がトーキョーを離れられないとなれば話が変わってくる。
(俺と寂雷、左馬刻だけでもバトルに支障はない、が)
周囲の目はそうではない。パフォーマンスの面で左馬刻と一郎のコンビは不可欠だ。
メンバーが全員揃ってこそ、この芝居は最高潮に盛り上がる。
強い男と肩を並べて対等に戦える女、相手のチームの男を力づくでねじ伏せることができる女。
一郎が望まなくても、中王区の掲げる女性像の一端をすでに一郎は担っている。
「ね、ね、どしたの?」
乱数はマグカップを机に置く。
「さっきからー、すっごく困ってるみたいだねっ」
「乱数」
「お悩みならこの乱数お姉さんに話してみなよ。ズバッとスパッと解決してあげるよ」
覗き込もうとした端末の画面は、さりげなく一郎にガードされる。
「や、そういうんじゃねえけど」
「そうなの? の、割りに深刻そうに見えるけどなー」
「あー……」
一郎は口ごもる。
山田一郎は相談が下手だ。乱数が今まで出会った女性の中でたぶん一番。
乱数が日頃遊ぶ女性は、みな大なり小なり悩みを抱えていて、乱数にその一端を見せることも多いから余計にそう思う。
(愚痴や悩みを話すのは、コミュニケーションの一つではあるな)
それに自分は都合が良い。
長く付き合うことがないから逆に話しやすいし、乱数は真剣な話を好まないから話題を明るく濁して終わらせる。
(本当の悩みなら俺じゃない奴に話せばいい)
アルコールのようなニコチンのような嗜好品としての自分に、乱数は満足し、たまにだが同時に苛立っている。その度に自分に言い聞かせている。それでいい。それでこその自分。
「乱数はさ」
一郎がまた端末に視線を落とす。
「うんうん」
ココアの湯気越しに乱数は一郎を見つめる。
悩みの種は仕事か、家族か、はたまた恋愛問題か。
目を伏せると一郎の繊細な顔立ちが際立った。野生動物じみた膂力と芸術品めいた顔。
年相応のあどけなさに、なるほど左馬刻はこういうアンバランスさに惹かれたのかと乱数は思う。
「夢、小説って知ってるか」
「へ?」
とはいえ、その赤い唇から飛び出す単語は乱数の想定外であった。
「ナニソレ?」
「そりゃ知らねえよな」
悪い、と立ちあがる一郎の袖を掴む。
「それがイチローの悩みなの?」
「悩みっつうか……」
「うん?」
とりあえず座ろうか、と乱数は言った。








ラップバトル以外は、ほとんど一郎の語彙能力は発揮されない。
なだめ、すかし、尋問し、半ば無理やり乱数は詳細を聞き出した。
「つまりは、憧れのキャラクター? とかアイドルとかと恋する小説ってことなんだね?」
「恋愛ばっかじゃねえよ」
「友達になったり一緒にチーム組んだりとか?」
「そういうのも、ある……んじゃねえのか」
焦がれる相手と何らかの人間関係を形成している、という想像を作品にしているのだと乱数は理解する。
「ふむふむ、なんとなーくわかったよ。僕も会ったことないオネーさん達から手紙とかメールもらうもん。僕とあのお店に行きたい、とか僕とデートしたい、とかって」
「まあ、近いっちゃあ近いかもな」
異なっている部分は、本人に欲求を告げずに、電子情報網で公開している点だろうか。
「その夢小説、が一郎の悩みなの?」
「いやそうじゃなくて……」
一郎曰く、願望を綴った小説と願望の対象の間には距離が必要、であるらしい。
「好きな人を間近で見たら幻滅しちゃうってこと?」
「や、恥ずかしいっていうか、まあ……夢見てるっていう前提だし、本人には言いにくいっていうか……」
要はそれが現実の人間に対する欲望であっても、本人には知られたいという気持ちは別物らしい。
(幻惑をかけるにも条件がある、が)
無論強制的にかけることだってできる。できるが脳への負担が大きい。ローリスクでコストを抑えられるならばそれに越したことはない。
夢を見る相手に教えずに楽しむことが今回の幻惑の発動条件だ。
たまたまインターネット上で夢小説に遭遇したのだと一郎は言う。
「で、それがTDDの夢、小説だったんだ?」
「まあな……」
「見ちゃいけないのに、見ちゃって一郎は悩んでるんだね」
「悪いだろ、なんか」
「ふーん」
一郎は真面目だ。
「別に僕はどんな妄想されてもヘーキだけどなあ。だって人間は見たいものだけしか、見ないじゃん?どうしてそれじゃあいけないんだろう」
「乱数らしいな。でも皆がそうじゃねえよ」
「あはは、それもそだね」
夢。願望。欲望。
二つ並んだマグカップは赤とピンク。
「僕も読んでみたいなー、その夢小説ってやつ」
「だめだ」
「ええー、一郎は読んだのにずるーい」
「もう読まねえよ」
乱数はココアに手を伸ばす。
「あ、そうだ。だったら一郎が書いてよ。夢小説」
我ながら名案だ。
「は?」
「そうだなーTDD全員出てくるお話がいいな」
「おい、何言ってんだよ」
「うんうん。ナイスアイデア。萬屋ヤマダに依頼するよ。見積もりよろしくね」
「マジかよ……」
乱数の性分を把握しているせいか、一郎はそれ以上は食い下がらない。一回ため息を吐くと、ココアを啜り始めた。









一郎の仕事は早い。数日後にウェブサイトのアドレスとパスワードを記載したメールを寄越してきた。
一郎に執筆を依頼した部屋で乱数は内容を確認する。
サイトのタイトルは「無題」で、小説のタイトルは「転校したらTDDのいる学園で生徒会書記に強制入会させられた」とある。非常にわかりやすい。
(ふむ)
創作物には作者の思考が反映されやすい。正義も希望も理想も偏見も怒りの閾値も。
使い方によっては一郎の行動を制御する鍵になる。
(これは中王区のやつらに報告すべき事項なのか?)
読んでから考えるか、と乱数は外に出る。マンションには同じようなドアがぎっしりと並んでいる。
三角コーンとコーンバーを跨ぐと心なしか風が強くなった。
螺旋を描く非常階段に腰を下ろす。足元の段は一段がなくなっていて脚をぶらつかせるにはうってつけだ。
作業を再開する。
『苗字を入力してください』
文言が現れる。
(苗字?)
夢小説は個人情報を求めてくる。
続く『入力しない場合は「名無し001」となります』という記載に乱数は顔を顰めた。
苗字の次は下の名前、愛称、さらには友人の苗字と名前をプログラムは求めてくる。
(ややこしいな)
手続きの煩雑さとは裏腹に一郎の作品はシンプルだ。転入してきた「自分」は登校初日からなぜか生徒会に入ることになる。生徒会の会長は神宮寺寂雷だ(顧問じゃないんだ、と乱数は思う)。
転校生はグラウンドで乗馬中の生徒会長と顔合わせをする。
(馬?)
いやしかし、寂雷はたぶん馬に乗れるなと乱数は納得した。海外でショベルカーやコンバインを動かす姿を見たことがあるから。
それから学校一の不良の左馬刻と、文化委員長の乱数と……一郎は購買部でアルバイトをしている役割だ。左馬刻を体育委員長にうまく任命するのが転校生の最初の仕事だ。
(大仕事だな)
左馬刻に関する描写は饒舌だ。
かつて野球部のエースだったという左馬刻、紅蓮の炎のようにマウンドに現れ、凍りついた魔球を投げる左馬刻。
(球が溶ける)
左馬刻が退部した理由を転校生は探そうとする。調査の最中で逆に左馬刻に転校の理由を問い詰められる。
前の学校が、と転校生は語る。ゾンビに襲われて。
(うん?)
その理由でなぜか左馬刻は納得する。
自分の事情を話す。
左馬刻は多くを語らないが、どうやら練習中に乱入してきた謎の人物に魔球を打たれたことが一つの原因らしいことがわかる。そしてその人物は、左馬刻の妹に似ていて、
(ふむ)
「飴村さん」
「んー?」
乱数は振り返る。バーの向こうに衢が立っている。
「どしたの、庶務」
「何の話なんですか?」
「こっちの話!」
「危ないですよ、その場所」
「ええー気持ちいいのに、ここ」
衢は呆れ顔だ。
「明後日から業者の人が来てくれるみたいですよ」
「そっか、残念だなあ」
一度だけ強く空を蹴ってから乱数は立ち上がった。
白い雲の向こうにうっすらと太陽が透けている。
「あの、飴村さん」
「何かな?」
「その……携帯で今見てたのって……」
「見えたんだ? これはねー見たらメッなんだよ」
「あの、寂雷さんの名前だけですけど」
(別に不安になるようなものではないが)
作品の中でも、現実世界でも心配性の衢を乱数は見返す。
「何だと思う?」
「寂雷さんに関すること、ですか」
「どうかなあ、あんまり関係はなさそうなんだよね」
話の主役は左馬刻である。
ゾンビから逃げおおせた転校生に、おそらくこれから左馬刻は興味を抱くのであろうと乱数は推測する。
(一緒にコーシエンでも目指したりするのかなあ)
「じゃあ何なんですか」
「ねえ、衢」
夢小説って知ってる?
尋ねると衢の口がぽかんと開いた。
「え」
「夢小説っていうのを読んでたんだよ」
「聞いたことくらいは、ありますけど」
「夢小説にね、寂雷や衢が出てきてたんだよ。あ、僕もいるけどね。名前変えたりできるんだよ、すごいよね」
きっと衢の知る夢小説にはゾンビは出てこない。
跳ねるように乱数はバーの前に移動する。
「そういえば飴村さん。名前何にしたんですか」
「名前?」
乱数は首を捻る。
「僕は僕だよ、飴村乱数。他に何があるのさ」
苗字『飴村』、名前『乱数」、愛称は『乱数ちゃん』……転校生の基本情報だ。
「そういうもの、なんですっけ?」
「うん!」
携帯端末の中では転校生の『飴村乱数』が生徒会室でゾンビの倒し方の説明をしている。文化委員長の飴村乱数が入ってくる。生徒会長の神宮寺寂雷と、生徒会庶務の神奈備衢と転校生の友人である『飴村乱数』も一緒だ。遅れて碧棺左馬刻も。
(続きは後だな)
乱数は端末をポケットにしまう。凪いでいた風がまた吹き始める。雲が流れて影ができて、でも衢は困惑した表情のままだった。




(了)


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