乱数の訓練場である円形の広場は、周囲をぐるりと壁に囲まれている。
「ねえねえ、中王区の外側にも壁があるんだって。ここの真似だよねえ」
と、一度施設から出た経験のある乱数は得意げに言いふらすが、乱数は壁の外を見たことがない。
壁面には単語の走り書きやサイケデックな模様、三角形を組み合わせた中王区のマーク、広げたときの猛禽類の羽根、心臓のデフォルメ……が描いてある。描いたのが誰かを乱数は知らない。
「もちろん、別の僕だよ」
乱数と隣のベッドで眠る乱数が教えてくる。口中の飴を引き抜いて乱数に渡す。受け取って服の裾の陰で指を絡める。同じ爪の形、同じ肌の感触、同じ温度。
「そっかあ、さすが僕」
「いーシュミだよね」
ピンク色のハートは外に通じる扉に描かれており、滅多にないことだが扉が開閉されると二つに割れた。
「あれは恋が叶わないって意味だよ」
「恋」
「おねーさん達と僕がすることさ」
「恋」
飴を噛み砕き、隣の乱数に抱きつく。抱擁はいつも甘い匂い。甘い息。恋。足元の花よりもずっと乱数の方がよい匂いがする。恋。




隣のベッドの乱数とは生まれたときから一緒にいる。その隣の隣のベッドの乱数とも、もう一つ隣のベッドの乱数とも、ある日いなくなったさらに隣のベッドの乱数とも同じ日、同じ時間に生まれた。ひんやりとした記憶。
同じ身長、同じ顔、同じ服、同じ靴。
たまに乱数は手を繋いでいる乱数が自分の隣のベッドで寝ている乱数なのか、わからなくなることがある。いやもしかしたら自分の隣で寝ているのは自分なのではないか、とも。
「どっちでもいいじゃないか、僕ってば面白いなあ」
手を繋ぐ相手は笑う。同じ唇、同じ歯列、同じ舌。
「そっか、そうだよね」
馬鹿らしくなって乱数も笑う。誰が誰でもいいのが、乱数のいいところだ。
「今日はなんだかざわざわしているね」
中王区の役人が来ると乱数達の施設は騒がしくなる。施設の職員達は急に壁の上に設けられた通路と手すりに向かって頭を下げ始め、乱数達を一斉に整列させたがる。つまりは隠れ鬼の時間だ。愉快だ。和を乱すのは乱数の得意技だった。
「しっかりしてよ、僕」
乱数が顔を近づけてくる。
「飴が足りてないんじゃないのかなああ?」
「そんなことないよ。ほら」
「……ふふ、本当だ」
服の中を覗き込んだ乱数は言う。そのままの体勢で
「来てるよ、失敗作」
と告げた。
「どこどこ?」
「壁の上にいるよ」
乱数の指す方向は、太陽と同じ側だ。
「ええー見えないよ」
「まだ生きてたんだ」
「使い道あるからね」
見えないが乱数には噂の存在は感知できた。乱数だけではない。乱数の首に唇を当てる乱数も、花を踏む乱数も、鬼ごっこをしている乱数も頭上の同胞の場所は認識できている。甘い匂いに一筋、焦げる前の砂糖の匂いが混じっている。隣のベッドの乱数が風呂上がりにさせる綿飴の匂いとは異質の匂い。
「なんか僕に用事なのかなあ」
「用なんてないよね」
おぶさってくる乱数の頭を乱数は撫でた。
頭上の同胞は乱数の知る限り、一番長く生きている個体だ。帰れ帰れ、と頭上に向かって乱数が叫んでいる。





失敗作、と他の乱数が呼ぶ個体をまだ乱数は見ていない。失敗作とは言え、乱数だから乱数の顔をしているはずだが。焦げ付いた砂糖のように真っ黒いイメージしか乱数は抱けない。膨らんでぺしゃんと潰れた砂糖の塊。失敗作とはすなわち弱い個体。
「でも僕なんだよ。弱いなんてあるのかなあ」
「んー、感情があると弱いんだよ。精神力がないから」
毛布に潜り込んだ乱数が言う。今日は輸血の時間が長引いたせいで、腕に白いガーゼが残っている。何も貼られていない自分の腕を乱数はさする。
「だめだめなんだよ」
隣の隣のベッドの乱数も乱数と喋っている。大部屋には砂糖とミルクの匂いが充満している。混ざり物の匂いはひとかけらもなく、そうか感情は混ぜ物なんだと乱数は理解した。
「あいつがくると楽しくないからやだ」
「僕は子供だなあ」
「同い年じゃないか僕は」
むくれる乱数の頬を乱数はつつく。
「もうここにはいないって」
そうだよね……と目を伏せる乱数の目には乱数が映っている。





ある朝、目を覚ますと、まだ隣のベッドで乱数は眠っていた。甘い寝息、同じ体温。心拍数が同じことを確認して、乱数は手探りで寝室から脱出した。早く起きてしまったせいか、施設はしんと静まり返り、灰色の光に包まれている。
訓練場には、乱数と同じく早朝に覚醒した乱数達が立っている。乱数の飛ばすシャボン玉がくるくる回っている。
(あ)
風上に立っていたせいか気がつかなかった。壁に寄り掛かった乱数は頭上の張り出した場所に、あの乱数が立っているのを知った。黒く焦げた砂糖の人形の乱数。
他の乱数達は面白そうに壁を指差している。
(なんで)
せっかく顔を見るチャンスなのに、体が動かない。施設の中で見たことがないのは、乱数だけだ。
四肢を強張らせて乱数は息を吐いた。甘い……甘くない。異物の匂いはさっきまで乱数と同じ拍数だった心拍数を乱す。対角線の向かい側でピンクのハートが視界で点滅する。
(くそ)
目の前に虹色のシャボン玉が飛んでくる。曇り空を、花畑を、凍りついたみたいに立ち尽くす乱数を映す。ぽかんと口を開けた間抜け面。知らない顔。
「あ!」
歪んで回転する世界は、乱数に当たる前に割れた。シャボン液の匂いに一滴、嗅いだことのない匂いが混じった。
(雨、なのか……?)
頭上から落ちてきた水に、乱数はようやく首を動かすことができた。そしてそこには、乱数がいた。黒焦げの砂糖ではない乱数が。緑色の長い上着に赤いリボン。目の前のハートと同じ色の髪。あまりに乱数と同じ乱数。隣のベッドで眠る乱数と同じ顔。笑っていない乱数。
見なければよかった、乱数が後悔するより前に頭上の影は身を翻していた。
炭化した糖の匂いが遠くなる。シャボン玉の小瓶を片手にした乱数が野次を飛ばし始める。乱数も慌てて追従した。カラメル色の煙がぱっと網膜に広がって消えた。





朝食が終わると、乱数が寄ってきた。
「おめでとう、僕」
頭上の影を目撃した後では、隣のベッドの乱数の顔がなぜか見れなくなった。避けるように端の席にいた乱数を、しかし乱数は見逃してはくれなかった。
「な、なんのことかなあ?」
「誤魔化したって、僕には無駄無駄だよ。僕は僕なんだから。ね、見たんでしょ、失敗作」
「うん」
乱数はぐいぐいと訓練場の物陰まで乱数を押していく。
「で、どうだった?」
「どうって……別に」
「別に、ってそれだけなの?」
「だって、別に」
見なければよかった。その気持ちは時間が経つごとに乱数の中で強くなっている。あんなに同じ顔ならば、見なければよかった。
「もうみんな噂してるよ。こんなにしょっちゅう来るなんてそろそろなんじゃないかって」
「そろそろ……?」
「もー、僕なのに鈍すぎるよ。そろそろ処分じゃないかってこと」
乱数は息を飲んだ。誤魔化すようにポケットの飴を口に放り込む。甘い。唾。飲み込む。甘い。
「今日は、ひょっとしたら、ひょっとしたらだよ、すごく面白いことが起こるかもしれないね」
乱数達がわらわらと訓練場に現れる。輪を作る。今日は何して遊ぼうか? 乱数と乱数も輪に混ざる。
「そうだ、失敗作ごっこしようよ」
「えーそんなの楽しくないよ」
「やってみないとわからないよ。ね」
乱数達が決を取る間に乱数は、隣の乱数に口移しに飴を渡す。乱数が笑うので、乱数も笑う。
「まず笑う顔の真似!」
最初の案が採用されたのか、輪の中央に立つ乱数が叫ぶ。
「笑ってないときはこうだね」
「つまらないね」
「ね」
乱数は乱数と囁き合う。統制が取れていなくても、乱数は気にしない。楽しいとき、おねーさんの話を聞いてるとき、嘘泣き、と次々に出題がされる。
「じゃあ、寂しいときの顔!」
いきなり指名されて乱数は驚いた。
「寂しい?」
「わっかんないよねー」
「感情あるふりも楽じゃないよね」
中央の乱数が肩をすくめる。どこかで金属が擦れて軋む音がする。乱数達がおしゃべりを止める。
今日は扉が開く日。誰かが出て行く日。
(寂しい)
どきりとする。今朝、頭上にいた乱数の真っ白い笑っていない顔。少し濡れていた目。あれは。
「ねえ、僕」
隣の乱数が袖を引く。飴。甘い。飴。笑っている。
「失敗作の真似、オマエうまいね」
飴を口移しされた舌で乱数は褒める。青い飴玉みたいな瞳だ。
扉が左右にゆっくりと振動し、鮫の歯のような嵌合部が出現する。ハートが割れる。





(了)

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