大学の、使われていない教養学部の校舎と校舎の間に目的物はあった。
白い服に、黒い首輪。どこかで落としてきたのか帽子は見当たらない。
隙間はぎりぎり一人分だ。壁に体を寄せる。
腕を差し入れて飴村は壁の間に入り込んだ「飴村乱数」の体を引っ張った。
昼からの雨で冷えた自分の体と死んだ体の温度は同じだ。
うんざりする。
「……っ!」
自分と相手の質量は等しい。飴村乱数なのだから当たり前だ。
どこかに引っ掛かったのか、首を飴村と反対に向けたまま動かなくなる。
(クソ)
飴村の筋肉量では試行の回数にも種類にも限界がある。
(なんで中王区の奴らに回収させない?)
考えるな。
疑問を覚えてはいけない。
結果を出すことだけを考えろ。
体重を重りにして引く。
一回、二回、と揺する。
飛び出した体と抱擁する。ぞっとするラブシーン。庇に遮られていた体はあまり濡れていない。
右手に握られたマイクを確認する。
ふにゃふにゃした体を雑草混じりの芝生に下ろす。
足元の飴村は右手をマイクごと、胸元に押しつけて固く目を閉じている。
この飴村が何に使用されたのかを飴村は知らない。
先日、波羅夷空却と白膠木簓に差し向けられた俺か……とも考えたが、この大学は応戦地点と離れている。
(それにしても、ずいぶんと迂闊なことだな)
与えられた指令は、キャンパスに残ったままの体を指定された場所まで運べというものだ。
回収するまでの間に、死体を目撃されたらどうするつもりだったのだろうか。
不確定要素を毛嫌いする勘解由小路らしくない指示だった。
あの女の世界には白と黒、またはピンク色とそれ以外の色しかないから。
命令とともに渡されたトロリーバッグを飴村は開錠する。
金色の花模様がプリントされたピンク色の布張りの空間には、甘い匂いのする緩衝材が詰められている。





(最悪だ)
サ・イ・ア・ク、と音を出さずに飴村は唇を動かす。
サイドミラーに映る顔は笑顔だ。
笑顔を作るのは得意だった。
運転席の男は無言だ。口数が多い質ではないから、それはおかしいことではない。
(いや、おかしい)
先程から飴村が振る話題は、ほとんど神宮寺を素通りしている。
昨今発売された菓子にも、トレンドの衣服の話題にも興味を惹いた様子はない。
かろうじて反応があったのは、一部の傘下チームのきな臭い動向についてだけだ。
が、小競り合いは碧棺左馬刻と山田一郎の加入で解決するだろう。
その前に中王区が動くか、と思うのと同時に後部座席でトロリーバッグががたんと揺れた。
(だが、今はこいつの心配をしてる場合じゃない)
飴村の体を収めても鞄には余裕があった。周囲の雑草を毟って詰めたものの、遮音性は心許ない。
荷物を引きずって歩いているときに、まさか神宮寺と遭遇するとは思わなかった。
これから仕事だからと説明したが、近くまで車で送ると言ってきかない。
自分と同じ顔の死体の入った荷物を、何も知らないチームメイトの車に積んで走っている。
開封されたら終わりだ。
神宮寺の注意を逸らす必要がある。
「ねえ、寂雷。具合でも悪いのかなぁ? さっきからすっごい静かだけど」
「いえ、元気ですよ」
(嘘だな)
嘘吐きに嘘を吐くとは、片腹痛い。
「そっかな~。ぼーっとしてるし、疲れてるみたいだけど? 寂雷らしくないっていうか……ひょっとしてこの前の左馬刻達とのバトルでどこか」
「それはないですよ」
信号が赤になる。
静かに車が止まる。
バッグの揺れ。
神宮寺の視線が、飴村の体の上を滑り、往復する。
「大事な時期に隠し事はダメだよぉ。心配事って、もしかして寂雷だけの問題じゃなくて、他の子も絡んでるのかなあ」
「まあ、そうですね。そうなるのでしょうね」
(衢か)
神宮寺が親代わりに面倒を見ている青年を思い出す。
(確かにあいつは働きすぎだ)
人間は疲弊する。
不便なことだ。
組むことになった碧棺達のチームに事務に長けた面子がいれば緩和されるのだろうが、望みは薄い。
神奈備が女だったら、中王区でも重宝されただろうなと想像すると気が滅入った。
「そうだ! 温泉とか楽しいんじゃないかな。お互い疲れも取れるし、ゆっくりできるし、ご褒美も必要だしね」
「え、ああ、はい。行きたい場所とかありますか」
「そうだねえ?」
(俺のリクエストを聞いてどうする)
神奈備の好みそうな温泉地を脳内でピックアップする。どの場所でも喜ぶのではないかという気はした。
直接、本人に尋ねた方が早いだろうに。
(正直、寂雷はサプライズするのに向いてないと思うが……これはサポートするべき事項なのか?)
親子のことは飴村の専門外だ。
親は子を守り、子は親を慕う。家族はお互いを縛り合って共同体を形成する。
「寂雷は行ってみたいとこってないの?」
質問すると、有名な温泉地の名前を神宮寺は口にした。子供のときに父と泊まった施設があって、と。
「古い建物なんですが、中に動物の彫刻があって面白かったです。庭も綺麗でした」
「へえ、それは見てみたいなあ。楽しそう」
「はい。是非」
碧棺達と合流するまでの間に多少日はある。調整は必須だがこちら側に不安要素が残っている方が問題だ。
人間はよくできていない。
肉体が疲労すれば精神が磨耗し、精神のダメージは肉体に反映される。
「一日、二日くらいだったら、サボっても問題ナッシングじゃない? 寂雷頑張りすぎるとこあるし」
神宮寺の手の甲に掌を重ねる。体温も鼓動も相手の体調を読むのに有効だ。
(あ)
す、と神宮寺は左手を引いた。
「すみません」
謝るからには、意図があるのだろう。
図りかねて隣を見上げると、神宮寺はひどく困惑したような表情をしていた。
初めて見る顔だった。
「あの、飴村君」
「ん、何かな?」
「午前中にお話したことなんですが」
(午前中)
今日の午前には、飴村は神宮寺とは顔を合わせていない。
飴村の頭の中でピンク色の光が点滅する。自分の知らない出来事。自分の記憶がない時間帯に、飴村乱数と話したという神宮寺。
(あの飴村乱数、か)
後部座席は見ない。
(気づかれたか、いや……)
神宮寺は目を伏せている。
「突然あんな話をして、驚かせてしまったね」
「寂雷の行動は読めないからなあ。飽きないけどね。そういうとこが」
「以前から、考えてはいたことだったんです」
(あの俺と、寂雷は何の話をした?)
自分や中王区の話では、おそらくない。
神宮寺の周辺の出来事で、飴村に話すだろう事項は限られている。
神宮寺の過去か、それとも未来か。
情報によっては計画の修正が求められる。
(あの女に報告は入っているのか?)
勘解由小路が把握しているのであれば、これ以上の追求は不要だ。
へたな質問は墓穴を掘る恐れがある。
(気にはなるが……ただ中王区に伝わっていないのであれば)
ポケットから飴を取り出す。
一呼吸おいて噛む。
信号が青になる。
「まさか寂雷、ラップ辞めたりしないよね?」
「辞めせんよ」
「なら、いいよ……辞めないでね。約束して」
「はい、約束します」
小指を差し出すと、神宮寺はまた困ったような悲しいような顔をした。
少し待って下さいと断って、脇道に逸れ路肩に停車する。
「でも針千本くらい、寂雷だったら飲んじゃいそうだから、罰ゲームにはならないかもだねっ」
「流石に飲めませんよ。飴村君は」
「僕はこれからもずーっとラップしてるから、約束は要らないなあ」
飴村乱数の人生は生まれる前から決まっている。





「なんで突然話そうと思ったの。午前の僕に」
トロリーバッグの中の飴村乱数に神宮寺が伝えた内容が、神宮寺をしばし上の空にしている。つまりは価値のある情報だと飴村は判断した。
そうであるならば、知っておいて無駄にはなるまい。
「あのとき少し、君がおかしかったので」
「へーえ、ボク、おかしかったんだ?」
変な意味ではないよと神宮寺は捕捉する。
「焦っていたし、急いでいた。なんだかそれがとても気になってね」
「えへへ、スケジューリングに失敗しちゃったんだよね。うっかりうっかり」
「なら、いいんです」
車が再発進する。
「焦ってたし、急いでたからさ、僕、なんか寂雷に変なこと言っちゃった?」
沈黙。
後ろの席から錠を壊して自分が復活する、そんな錯覚に襲われて飴村は目を閉じる。
飴村乱数は何を聞いた? そして何を言った?
シートベルトをバッグにもかけておけばよかった。
「……考えさせてほしい、時間をくれ、と君は言いました」
「まあ急だったしねえ」
(内容は提案か……厄介だな)
齟齬が発生した際に、不信感を抱かれやすい。忘れたふりをして、再度提案をさせるのも手段ではあるが。
「あのさ、寂雷」
目を開ける。
混乱する。
なんでお前がそんな顔をしている?
(なんで)
「以前から考えてた、って言ったよね。いつから考えてたの?」
「それは……」
「それは?」
神宮寺の回答を待つ。
背後の物音に集中する。
記憶を探るみたいに、神宮寺が瞬きをする。飴村の知らないアーカイブ。息が詰まるような膨大な記録。
「それはたぶん」
「うんうん」
君と初めて会ったときから、と神宮寺は言った。
「今朝に会ったときに、もう二度と会えないような気がしてそれで、つい」
「アハハ、寂雷はロマンチストだねえ……んん?」
(へ?)
「えっ」
神宮寺の口振りはまるで、彼が飴村に想いを告げたかのような物言いだ。
(どういうことだ、これは)
意味がわからない。
笑えない冗談か何かだろうか。
悪夢か。
(確かに考えさせてほしいし、時間がいる、が)
「そっかそっか。一目惚れってやつだねえ。僕って罪な男の子だね」
一抹の望みをかけるも、神宮寺は無言だ。
沈黙が肯定を伝えてくる。
(考えたって答えなんて決まってるのに)
飴村乱数は特定の相手は作らない主義だ。
その返事で事足りる。
(しかし、時期が悪いな)
……むしろこの時期だからなのだろうか。
飴村は心臓を押さえた。痛い。
(痛い)
それどころか体も熱い。
痛い。
痛い。
神宮寺の告白を断ると考えただけで痛くなる。
大学に放置されていた体を思い出す。
左胸を押さえた動かない肉体。真正ヒプノシスマイクを使用したことによる心停止。
(……これとあれとは、どう違うんだ?)
爆ぜそうなほどに心臓が痛い。
こんなに速く鼓動を刻むようにはこの心臓はできていない。
(寂雷は、あの僕になんて言って告白したんだろうか)
それを聞く術はない。
永遠にない。
告白されて、あの飴村乱数が何を感じたのかも。
嬉しいも悲しいも鬱陶しいも寂しいも嫌悪も喜びも。
「飴村君?」
「ごめん、降ろして。バスで、行くから」
途切れ途切れに懇願すると、神宮寺は素直に頷いた。





バス停近くのコインパーキングに神宮寺は車を停めた。
荷物を下ろそうとする手を飴村はやんわりと止めた。
「仕事の道具なんだ」
「大事なもの、なんですね」
「大事……どうだろうね。便利ではあったんじゃないかな」
持ち上げる。
息が切れる。
着地する。
けたたましい音楽を流しながら道路を車が疾走していく。
音が割れているが、聞き覚えがあった。反乱分子が好む革命の歌だ。
地獄で流れているだろう曲。
「ねえ、寂雷」
「はい」
バスの終着地点であるかつての高級住宅地で、この荷物を渡す。
それで任務は完了する。
体の行方は知らない。
湿った砂利の上で、死体の入った鞄の車輪は喚くように軋む。
地獄で泣く死者の声。
耳元で鳴り響く鼓動は地獄の煮え湯が沸騰する音。
「ボク達、付き合っちゃう?」
「え」
提案すると神宮寺は立ち止まった。
構わずに飴村は進む。
神宮寺が追いつけないほどに速足で進む。
死者の声は止まない。どんどん大きくなる。
地獄が近いのかもしれない。
桃色に塗装されたバスが道の向こうにゆっくりと姿を現していた。




(了)