トイレ前のフローリングの玄関のマットに、隠れるようにしてカードケースが落ちている。茶色の革に、刻印された英語のロゴ。部屋の持ち主が所有するにしては、いささか高価な代物だった。
(……わざとらしいなあ)
掌を組み合わせ、人差し指と中指の腹の間から、白膠木はリビングを見る。ちゃぶ台の前でウイスキーを舐めている天谷奴は、顔をあげもしない。
先刻、この男は席を外している。
天谷奴に焦点を合わせたまま、白膠木はカードケースを拾った。革は、時間に鞣されて吸いつくような感触を獲得している。製造は戦争前のものだろうと白膠木は推測した。
「なあおっさん」
「おお、どうした」
「もろてええんか、これ」
「ええわけあるか」
缶ビールの躑躅森が代わって言う。
「そんなところに落としちまったとはな」
息とともに天谷奴が吐き出す。二酸化炭素が、かすかな嘘の匂いと一緒に部屋に沈殿した。
「大事なものなら、落とすなや」
大事にせえよ、とスリッパを乗り越え、ゴミ箱を跨ぎ、カードケースを差し出す。……意志を持ったかのように、ケースはまたも落下した。
「簓!」
「落とすとは。おっと、すまんわ」
(わざとか?)
確かに、天谷奴の指先は、革の表面を掠った。蝶番のように開いたケースは、躑躅森の膝の上で鈍く蛍光灯の光を反射している。
「見たか?」
「見とらん」
躑躅森が瞬きするより先に、白膠木は返答する。ケースに収められたセミロングの、優しげな面立ちの女性の写真は見ていない。
見ていないから、返事をする。
(盧笙、お前は動くなよ)
古い写真だった。金属の色の右目は、もう片方の美しい緑の色は、低解像度であっても鮮やかだ。右目下の黒子も白膠木は見ていない。
「ええもん、使うとるなあ」
「妹だよ」
「おっさんのか」
いちゃあ変か、と天谷奴は言う。
妹の写真を持ち歩くような男に、覚えがないわけではない。
「俺だって木の股から生まれたわけじゃあねえよ」
「そか。そやな」
(はよ、拾え)
天谷奴の腕が伸びる。じりじりと、白膠木は革を睨む。
不吉だ。これは、と脳内で警告が点滅する。カラフルな飴の匂いが一瞬だけ鼻孔に蘇った。
(生前の罪が全部書いてある閻魔帳って、こんな形してるんかな)
アルコールで気が緩んだのか、躑躅森がのんびりと口を開く。
「化学の先生も、同じの持っとったな」
「学校のか」
「もうすぐ定年の先生や」
白膠木は耳の軟骨に触れる。
「あんま弄んな」
「ごっついの付けてた癖によう言うわ」
あったな、と笑う躑躅森の耳朶は、生まれてこの方、穴なんてなかったみたいに見える。腹が立つほどに。
「先生は、奥さんの写真入れてたな」
「は!」
「ああいうの、ええよな」
「仲ええのは、いいことやな」
躑躅森の視線が、ふと逸れる。写真の挟まった閻魔帳が天谷奴の胸の前で揺れている。
天谷奴の害も、白膠木の罪もすべてここには記録されている。
どこか乾いた声で天谷奴は
「……実はこれ、女装した俺なんだよな」
「面白うないな。ダサい笑いや」
(カラコン入れて、黒子も描いてか)
「最近か?」
「はは、昔の話だよ、昔の」
湿度の戻らない音で、「電話」と嘘つきの男は部屋を出て行った。部屋の温度が一気に下がる。
「酔ってたな、いつに増してもおっさん、意味不明やし」
躑躅森が冷蔵庫から、新しい缶を取り出す。二つ並ぶ銀色の缶の柱面に、部屋が、白膠木が映って光る。
「あれ覚えてるか、簓」
お互いの衣装交換して、と躑躅森が説明する。
「おぼえとらん。受けなかったネタはすぐ忘れるんが、俺の流儀や」
「どんだけ、真似しても、女装しても耳の形はどうにもならん」
「ケーサツみたいなこと言うなあ」
(そうじゃなかったら指名手配犯みたいな)
躑躅森に最も似合わない職業だ。
「中身、見えたんか」
「俺は教師やぞ」
生徒が隠そうとするもんなんてすぐわかる、と躑躅森は続ける。缶を開ける。
「いや生徒やないし」
躑躅森は騙されやすいが、目敏い。どうせならば鈍いままで、無知のままでいればよいのに。
「まあ、零のやつが言いたくなるまでそっとしとくんが一番か」
「ん。そやね」
罪の糸は長い、鎖が編めるほどに長い。
だから、女性の右手が写真に収まらない誰かと繋がっていたことも、写っていない相手の爪の形が先ほどまでウイスキーと溶けかけた氷の入ったグラスに添えられたものと酷似していたことも、白膠木は見ていない。
罪でできた鎖は触れた者を絡め取り、奈落に引き摺り込む。
見なければ、触れなければ、鎖の先は勝手に落ちて行く。
奈落の底にはスポットライトも、観客の笑い声も届かない。


(了)

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