銀色の腹を閃かせて魚が湾曲した巨大な水槽を泳ぐ。
紙を折ったみたいな四角形の魚が飴村の目の前でターンする。
訪れたことは何度もあるが、その度に不思議な気分に包まれる。
「すごいねえ」
感嘆すると「はい」と隣の神宮寺は頷いた。
「お魚、釣りに行きたくなっちゃった?」
「少しだけ」
「ここで釣ったらダメだよ~」
「そうですね、ここはそういう場ではありませんね」
平日のせいか、室内の人影はまばらだ。
水槽の底には花束のような珊瑚と海藻が活けられている。岩のオブジェの隙間から金色の魚が顔を出す。
海の底ってこんな感じなんだろうか、と飴村は考える。まだ自分が行ったことがない場所。静けさに支配された音の届かない場所。
(そんな場所では、俺は生き延びられないだろうな)
飴村には身を守る爪も牙もない。音がない空間では戦う術がない。
「寂雷はこーいうとこでも住めそうだねぇ」
「そうでしょうか? でもここには酸素はないからね」
「そっかー、寂雷でも無理なんだ」
水中で生活できないという神宮寺の言葉に、なぜか神宮寺の目の前で水が二つに割れる様を飴村は想像した。なんだっけ、これは。
「ファッションショーって、こんな感じなんでしょうか」
珊瑚や鮮やかな色を誇示する魚を神宮寺の視線は追いかけている。
私は写真でしか見たことがないけれど、とことばを重ねる。
「あはは、今度招待してあげる。全然違うよぉ」
袖を引きながら、飴村はU字の水槽から離れる。
「もっとピカッピカでキラキラで香水やお化粧の匂いもして、賑やかだよ」
壁に並ぶシャーレ型の水槽を泡が立ち上っていく。
この水族館は繁華街の高層ビルの上にある。
家族連れや恋人同士の集客を見込めるせいか、定期的に改装が行われている。以前訪れたときも。
薄暗い室内では誰も他人を見ない。
「あ、こっちのエリアは新しいね」
「飴村君、前も来たのですね」
「うん。こういうロマンチックなとこはおねーさん達好きだもん」
「そうですか」
「でもでも、このエリアは寂雷とが初めてだよー。何があるんだろうねっ、楽しみだねえ」
乏しい明りが神宮寺の横顔の輪郭を浮かび上がらせる。引き結ばれた薄い唇を飴村は下から覗き込んだ。
「誰と来たのか気になるの?」
「はい、気になります」
「ふふ、ヒミツだよん。そ、れ、は、僕とおねーさん達とのトップシークレットだもんね」
新しい一角は、一際照明が少ない。
展示された生き物を見て飴村は納得した。
(クラゲか)
円柱の水槽が林立している。
定期的に明滅する照明が水槽の内部と漂う刺胞動物の色を変化させていた。
「見てみて、このクラゲ。ハートマークがあるよ」
「どこですか。……本当だ」
「へー、いろんな模様ができるんだねえ。クラゲって面白ーい」
飴村達の視線を無視して、クラゲは浮遊する。収縮する透明な傘が青に、黄色に、緑に変わる。水槽に押し当てた自身の掌も。
「こちらのクラゲはピンク色ですね」
「本当だ、可愛いねっ」
「飴村君に似てますね」
「ええー、そう?」
携帯端末を飴村は取り出した。
着信がないことを無意識に確認していた。
「写真撮ろ、寂雷」
クラゲと神宮寺と自分のスリーショットだ。
水と試験管に満たされた試験管みたいな円柱の中を、ゆっくりとクラゲは循環している。
「このクラゲは僕に似てるのかー、じゃあさじゃあさ寂雷に似てるクラゲも泳いでいるかもだねっ」
白と黒の傘が水を受けて広がり、閉じる。
横目で眺めて神宮寺から身を離した。
「どっちが先に見つけられるか競争だね」
立ち並ぶほとんど音がない世界。
管理されて監視されている生き物。
(……いつ稼動できる)
(おいおい、そんなに急かすなって。無花果ちゃん)
(早くしろ)
蘇る記憶に飴村は頭を振る。これは知らない。知らない記憶だ。ことばを交わす男女の声は、今でも嫌なくらい耳にしているけれど。
(今、思い出したい声じゃあないな)
かすかな光。温かな水。肺を満たす水。
心臓の音。
生まれる前の出来事。
「飴村君、このクラゲは毒があるみたいですよ」
「そう、なの?」
神宮寺の声に飴村は振り返った。
息を飲む。
水槽を挟んで神宮寺が立っている。
長身の神宮寺よりも、透明な円柱はさらに大きい。
神宮寺を収められるくらいに大きい。
サーキュレーターの起こす風が、神宮寺の髪の毛を膨らませた。
まるで水の中で髪が靡いているみたいに。
槽に入った神宮寺が瞬きをする。覚醒直前を想起させる瞬き。睫毛の震え。培養液にさざ波が立つ。
(クラゲは、どこだ)
飴村は視線を巡らせる。
あれは違う。
あれは培養槽ではない。
(違う違う、違う)
視界が暗くなり、血の気が引いていく。
「じゃくら、」
「飴村君!」
肘が温かくなる。
「じゃくらい」
「大丈夫ですか」
人間の親から生まれた神宮寺を飴村は見返した。
「う、うん。立ち眩みかなー」
「最近忙しかったから……」
「も、ヘイキだよ。ごめんね、驚いたよねぇ?」
「私のことはいいんです」
飴村は身体を凭せかけた。神宮寺には体温がある。
「あったかいね」
「君の身体が冷えてるんです」
「そっか」
クラゲの拍動よりも神宮寺の脈動が速い。
いつも遠慮がちな指は、今もためらいがちに飴村の頭を撫でている。
正面にある水槽の天井からは何本もの絹糸が伸びていた。
クラゲの触手だ。長い手を引きずり、優雅に触手の持ち主は浮かんでいる。
飴村は息を吐き出した。空気中では泡なんて発生しない。
安心する。
「絡まったりしないのかなあ」
「泳いでいる間に、自然と解けるみたいですよ」
水槽横のプレートを神宮寺が指差す。
学名と生態の情報を飴村は読む。
「でもこのクラゲにも毒があるんだねぇ」
「そうですね。このクラゲではないですけど、海水浴の時期は刺される子供も多い」
一息で飴村に駆け寄ったせいか、神宮寺の髪の毛は乱れている。珍しい。この男がこんな風になるのは。
「寂雷、あっち行こう。髪の毛、整えてあげる」
「はい」
休憩用の椅子に神宮寺を座らせる。
さらさらした髪に指を通す。ひんやりした感触は飴村の心を落ち着かせた。
「なんで毒があるのに触っちゃうんだろうねぇ」
「珍しいから、でしょうか」
「それだけかなあ」
飴村は首を捻る。好奇心だけで人間は危険を冒すものだろうか。人間の気持ちなんてわかりもしない。わかりたくもないし、わかるわけはないが。
(人間は愚かだからっていうのも、つまらないなあ)
できるだけ楽しそうな理由を探す。生命を危険に晒してもいい理由を、投げ出させるような衝動を引き起こす理由を。
(そっか)
「わかった、キレイだからだねっ」
キレイなものってつい触りたくなるもんね。
つけ加えると神宮寺は危ないですよ、と少しだけ笑った。
神宮寺の髪を整えて、結い直す。指の腹を溢れていく髪の束。
(……絡まったときは自然に解けますが……飼育員が解くこともあります)
プレートの説明を飴村は思い出していた。



(了)
待ち人来ません。


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