神宮寺寂雷は飴村乱数が今まで出会った中で一番、髪が長く、最も背の高い女性だった。
乱数が爪先で立って目一杯、手を伸ばしても寂雷の頭を撫でることはできない。
寂雷の髪の毛はさらさらとしていて、初めて意識して絹糸を触った際には乱数はその髪を思い出した。
寂雷がたくさんいたら蚕はもう殺されず、糸を奪われなくて済むなと乱数は思う。
中王区の命令で外に出る。世界の美しくないものと美しいものに触れる。美しいものはどれも寂雷を構成するパーツと似通っていた。
医療用マイクの開発と飴村の体調管理が中王区での寂雷の仕事だった。乱数の血液を採取し喉の腫れがないかを確認して心拍数と体温を測定し、簡単なヒアリングを行う。ときには乱数は繭のような真っ白な機械に入った。磁気を利用して作成された乱数の断面図を寂雷は静かに見ている。
寂雷を招聘した名目は医療用マイクのプロジェクト、それだけだったはずだが。
(『飴村乱数』の体調管理を寂雷にさせる意味はあるのか?)
乱数の健康診断はわざわざ寂雷が工数を割く業務ではない。
乱数はそう簡単には壊れないようにできている。
人間なんかよりよっぽど頑丈だ。
(中王区のやつらのことだ。意味はあるんだろう)
医療は『乱数』が興味を持たない分野であったが、その乱数の耳にさえも寂雷の名声は届く。それほどの有名人だ。
(広告塔のつもりか)
神宮寺寂雷も中王区の政策に賛同しているというアピールか。グロテスクな想像に乱数は頬を歪めた。
「寂雷さあ、今度買い物行こうよ」
「何か必要なものでもあるのですか」
「うん!」
頷くと「ふむ」と寂雷は首を傾げた。
診察室はピンク色の壁紙が貼られている。濃淡は動物の形をしている。ネコの、オウムの、ユニコーンのピンクのシルエット。
寂雷から診察を受け始めた当初はこの部屋はもっと殺風景だった。
「飴村君は買い物が好きですね」
机の上のウサギのぬいぐるみのつやつやした鼻を寂雷は撫でる。
リボンのついたサイケデリックな色彩のウサギは先月乱数が購入したものだ。
「寂雷は好きじゃないの?」
「興味深くはありますよ。頻繁には行きませんが」
「ええー、もっと出かけなよ。忙しいのはわかるけどさ」
「そうですね。衢君に……家族に任せっぱなしなのはよくないですね」
一緒に暮らしているという養女の話をするとき寂雷の表情は柔らかくなる。写真で見た限りは、地味な服装の女だった。
(うなじと鎖骨は綺麗だったな)
「衢のおねーさん、だっけ。一緒に中王区に連れてきたらいいのに。僕一回も会ったことないもん」
中王区の外での寂雷との接触は推奨されていない。
高名な人徳者と、軽薄に遊びまわる自分が知己であるのは中王区にとって都合が悪いのかもしれない。
(とはいえ、壁の中なら自由だ)
「ダメ?」
とびきり己が愛らしく見える角度と声音で乱数は尋ねる。
自分の魅せ方は遺伝子に刻まれている。日頃の鍛錬もあって完璧だ。
「少し難しいかもしれません」
「そうなの? 僕会いたいのにー」
(まあ正解だな。やはりこいつは頭がいい)
寂雷に腕を絡めながらも、乱数は思う。
寂雷からはうっすらと白檀の匂いがする(サンダルウッドの匂い、とシブヤにあるデパートの三階で一夜限りの時間を過ごした女性に教えられた)。
「まあ、衢おねーさんには衢おねーさんの予定もあるよね。じゃあ買い物は二人で行こっか。付き合ってくれたお礼はするからさ」
衢を利用しろ、との命令は出ていない。今後、何らかの形で接点の機会は設けられるかもしれない。
「ところで必要なものとは、何なんですか?」
「えー、聞いちゃう?」
「言いにくいものなら、いいですよ」
追求しすぎたかな、と寂雷はつけ加えた。
「そうじゃないけどー、当日までヒミツにしときたかったなー」
指を自分の唇に当てる。つ、と乱数の唇と爪に寂雷の視点の焦点が移動する。
「寂雷の洋服買いに行きたいんだよね」
「私の、ですか」
「そうそう、いっつも同じ服じゃん。似合ってるけどね、今の服も」
「それは、飴村君に必要なものなんですか」
「すっごーく必要だよ」
乱数はことばに力を込めた。
「だって僕が見たいんだもん」
「それが理由、と」
「そ、大事なことでしょ」
壁の内側にはファッション関係の店が充実している。……乱数のブランドの服はないけれど。
「飴村君は服が好きですね」
「うん」
乱数は肯定する。己の好きなもので自由に寂雷を飾る、それは楽しいことのように思われた。
「そーいえば、寂雷は好きなものあるの?」
「私ですか」
少し困ったように寂雷は笑う。
「釣り、ですかね」
「お魚を釣るってこと?」
(ふむふむ)
寂雷がライフジャケットを着て、港に座る様を乱数は思い描く。
中王区には海はない。かつてあったという河川は大半が埋め立てられている。
「飴村君もどうですか、今度」
「楽しそうだね。……でも日焼けしちゃうなあ」
やんわりと断ると「残念です」と寂雷は本心からみたいに言った。
(俺が釣りに行くように見えるのか、寂雷には。変なの)
「ごめんね」
「いえ」
(変なやつ)
神宮寺寂雷は中王区が管理する施設で出会った中で唯一、乱数とためらわずに接触してくる女だ。
(変なやつだ、本当に)
ウサギのぬいぐるみの両耳を片手で乱数は掴む。
「お礼、何がいいかなー? スイーツバイキング? 遊園地?」
「そうですね……」
買った後に目だけ気に入らなくて、手持ちのボタンと付け替えた目。部屋の中が逆さまに映る。
「じゃあ、ラップを。私に教えて下さい」
「ラップを?」
「はい」
ウサギが尻餅をつく。
「寂雷ってラップしたことない……よね」
「ないですね」
そうだ、神宮寺寂雷はただ一人、この施設内でラップをしない女だった。
中王区の組織で働いているとは思えないが、
「んんー、中王区の偉いおねーさん達には勧められなかったのかな?」
乱数は疑問を口にする。
「誘ってはもらいましたよ。義務ではないと言われましたが」
「それだけでもだいぶ信じられないんだけどねー」
(だから寂雷が中王区の中心から微妙に外されている)
乱数は思考する。クローンのことも寂雷は知らない。
乱数のことは定期診断が必要な状態、くらいの情報しか与えられていない。
「医療用マイクの開発が進めばいずれ……とは考えていましたが」
「あのおねーさん達、超ゴーインなのにね。寂雷、怖いことされなかった?」
「……大丈夫ですよ」
「そっか。ならよかったよ」
倒れたぬいぐるみを寂雷の手が起こす。珊瑚のボタンよりも艶やかな爪、細く長い指。
(あれ)
左の指にささくれがある。
意外だった。
(寂雷の体にも美しくないものがあるのか)
髪も、瞳も、肌も、爪も、あれ程に美しいというのに。
左薬指の、その一点から目が離せない。
「ねえ、なんで今更ラップに興味持ったの? 中王区で本格的に働くぞ、おーって感じ?」
「いえ」
乱数にとってはラップは当たり前だ。理由なんて考えることもなかったけれど。
(こいつはラップしなくても死なない)
寂雷の答えは簡潔だ。
「君が楽しそうだったからです」
「僕が」
「ええ」
(何を言ってるんだ、こいつは)
楽しそう?
自分が?
だからラップを始めようと思った?
(理解不能だ)
「それじゃあ、僕に教わりたいってことなんだね?」
念を押すと寂雷は頷いた。
「はい。是非」
頷く寂雷は美しくないささくれを持っているとは思えなくて、人間は本当に意味がわからない。やっぱり人間は嫌いだと思いながら、寂雷に合うハンドクリームの匂いはなんだろうかとぼんやり乱数は考えていた。
(了)
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