結婚すっかもしれねえ。
チュウブ遠征時に喫茶店で左馬刻が告げたとき、一郎は混乱した。
「オメデトウゴザイマス……で、左馬刻さんが、すか」
「は?」
アホかお前ボケてんじゃねえと左馬刻は一郎の祝福と疑問を跳ねつける。
「話の流れってもんがあるだろ。俺じゃねえよ」
一郎は頭を振る。時間制の禁煙を採用している喫茶店は、それでも床や壁、椅子からタバコの匂いが漂っている。
しかしこの、独特の煙の匂いが一郎は嫌いではなかった。
タバコは匂いが消えにくい。服にも、髪の間にも粒子はまとわりつき、それは確かな証拠となる。
相手が消えても、しつこくこびりつく跡は枷であり、記憶でもある。
(座ってすぐに、確かそろそろ……乱数が戻ってるかって話になって……)
ランチ終わるくらいに戻るよん、と今朝、ホテルで乱数は告げた。
(たぶん、だけどね)
(先生は午後から知り合いのとこだろ。またナンパかよ。控えろや)
(ええー、だっておねーさん達から声かけてくれるんだもん。断ったらシツレーじゃん)
乱数がメープルシロップを垂らす。パンケーキの表面で液体は広がり、歪な円になった。
(てめえも女だろうが。女こましてどうすんだ)
(サマトキ様ったら遅れてるぅ。今の時代は、恋愛に性別とか関係ないもんね。だいたいご飯食べるだけだもーん)
(飴村君、溢れそうですよ)
寂雷の指摘に、飴村はナイフとフォークを操った。
(はい、あーん)
(人前ですよ)
とはいうものの、寂雷は抵抗なく、シロップが滲み果物の飾られたパンケーキを食んでいる。
(美味しいんだよ、このホテルの)
(予約したの、飴村君でしたよね)
(そうそう。いいよね、ここ。ベッド広いから、寂雷もしっかり寝れたでしょ)
(はい、いいベッドでした)
(またこよーね、今度はバトルじゃなくってさ)
(そうですね)
またかよ、と言いたげに左馬刻が一郎の脇腹を突くので、丹田に力を込める。この二人の間にしばしばむず痒い会話が発生する。チームを組んだときからそうだ。
一郎はすでに耐性がついている。
周りには恋人同士というものが存在しなかったから、二人のいちゃつきを見るたびに、なるほどこれが付き合っているということか、と毎回驚きもあった。
席替わりますか。
尋ねると左馬刻は右手をひらひらと動かした。
(そうだ! サマトキもイチローとデートしてきなよ。せっかくオフなんだからさ)
(はぁ?)
(大丈夫っすよ。俺、行くとこあるんで)
(どこだよ。ダチか?)
(い、や。弟達になんか買いたいんすよ)
(あはは、一緒に買いに行けばいいのにねえ)
こことこのカフェ、あとこのお店もいい場所だよ。
乱数の携帯端末に次々と店が表示される。
(はい、決定)
歳上のおねーさんの言うことは絶対だよ、一郎。乱数は笑った。
その乱数が紹介したエビフライのサンドイッチが有名な喫茶店に、今左馬刻と入っている。
左馬刻の足元に置かれたデパートの袋に一郎は視線を落とす。弟達への土産だ。
「じゃあ、乱数すか」
「他にいねえだろ」
「と寂雷さん、ですよね?」
「……他にいるかよ」
左馬刻が言い淀む。
子供っぽい容貌ではあるが、乱数は同性に非常に人気がある(そして同じチームのせいか、一郎自身にも女性のファンが増えたことは嬉しいが困惑する事態であった)。
本人もそれを良しとしてゲームのように女性と遊び回っている。特定の相手は作らない、と主張する乱数だが、交際相手の中で唯一の異性である寂雷とは、また違った関係のようだ。
「まあ、先生が言ってただけだけどな」
「あー、じゃあ乱数から直接聞いたわけじゃあないんですね」
「先生はフカシはこかねえだろ」
結婚。
一郎の中でその単語は、乱数と結びつき難かった。例えば、結婚式のドレスならば、指輪ならば、降り注ぐ花のシャワーなら、建物じみた非現実的なケーキならば、どれも乱数には似合う。……だが、それらすべてが層をなして形成する儀式の中央に乱数を配置すると何かがおかしかった。
「あの人なら、先生なら決めたらやるだろ」
「左馬刻さん、夏休みの宿題じゃないんすよ」
「アサガオかカブトムシの観察してりゃいいんだよ、んなもんはよ」
「俺のとこと一緒っすね……まあ、最終的には二人が決めることでしょうけど」
「相手があいつだしな」
苦虫を噛み潰したような顔で左馬刻がコーヒーをすする。一瞬だけ、眉間の皺が和らいだのは口にあったからだろう。
「うまいっすね、コーヒー」
「……だな」
「乱数も、なんだかんだで寂雷さんのこと大事にしてますし、心配ないんじゃないんすか」
口にしてから、そうかな、とも思う。
大事にするとは何なのだろう。それはパンケーキを分け与えることなのか、果物の皮を剥いてやることなのか、人がいないときに手を繋ぐことなのか、海辺で一緒に潮風を浴びることなのか、魂を削り合うようなリリックを吐くことなのか、お互いの体温を確かめ合うことなのか、また明日、と約束をすることなのか。
「女の考えてることはわからねえよ」
「それは……乱数だからじゃないんですかね」
「かもしれねえ。どいつもこいつも、お前くらい単純だったら話が早いけどな」
「なんすか、単純て」
言葉を拾うと、ようやく左馬刻は頬を緩めた。
「そういうとこだろ」
(確かに、単純かも……)
笑顔一つで、ぐるぐると思考を乱す懸念が静かに底に沈んでいく。澄んだ水を一郎は掬う。水に映るのは、左馬刻の瞳の赤だ。
喫茶店の位置する商店街は地下に展開している。階段を上がるとターミナル駅に接続しており、日陰を歩いたままで改札を抜けられた。
デパートの紙袋が左馬刻の右半身にぶつかって乾いた音を立てている。
「持ちますよ」
店に入る前にも言った言葉を一郎は繰り返した。
「ガキの癖に一丁前に気を回してんじゃねえ」
「いや、体が鈍りそうなんですよ……」
「まあ、たいしたことなかったな。チュウブの連中」
「そ、すね。俺もうちょっと骨がある奴が出てくるかと」
昨日ステージに立ったときに、一郎はギャラリーを熱心に、しかし外からは単なる一瞥と取られるように見渡していた。それからステージの上ももう一度。
赤い髪の元チームメイトの姿はどちらにもなかった。
「フカンゼンネンショウってやつです」
闘うチームの情報はあらかじめ与えられていたというのに、どうやら自分はあの独特の、すべてを燃やし尽くすような苛烈な攻撃を、無意識で期待していたようだ。
「買い物、行くぞ」
「や、もう土産は買ったんで」
「てめえの買い物だよ。服とか、化粧品とか……ねえのかよ。欲しいもん」
「ないっすね」
一郎は首を振る。買い物をしたところで、胸の火が鎮まるわけはない。それは左馬刻とて同様のはずだ。
一郎の心臓で燃える炎の温度を左馬刻は知っていて、左馬刻の炎の場所をたぶん自分は探り当てることができる。触れると冷たいと錯覚しそうなほどに高い温度の炎だ。
イケブクロで暴れていたときからずっとそこにある。
「左馬刻さん、このまま、次は」
(オオサカ……で、)
左馬刻の右の拳が少し震えていたので、一郎は質問を打ち切った。
「俺達、どこまで行くんでしょうね」
「トーキョーだろ。合歓のとこに帰るんだよ」
「……そうっすね、あの人形、見せたかったな」
ナゴヤの駅にそびえる巨大な人形を、ほとんど東日本から出た経験のない彼女は知らないかもしれない。
写真を撮っておくべきだったか。いや、それは浮かれすぎか。
「また来りゃいいだろ」
「……そうすね」
その口調が、乱数の、今のチームメイトの口ぶりと似ていて一郎は少しおかしくなった。
部屋のドアを開けると、甘い匂いがした。
乱数の匂いだ。
「か」
帰った、と言いかけて、一郎は言葉を殺す。ベッドの上の乱数は眠っているようだ。
(疲れてんだろうな)
情報収集は衢が担当していたとはいえ、チュウブチームとの交渉や、ホテルの手配、予定の調整……と、乱数の負担は大きい。
(にしても散らかしすぎだろ)
ベッドとその周辺には、荷物が乱雑に広げられている。
模様の入ったストッキングに、不思議な色の香水瓶。子供が好きそうな手鏡に、あからさまにサイズが合わないロングスカート。
(おっと)
ハイヒールとスニーカーの間を一郎は避けて、窓際のベッド周辺の己の陣地に戻った。
模造パールとリボンとビーズでできた髪飾り、弾丸みたいな口紅、豆電球のついた指輪、麦わら帽子にベレー帽。ハートの形のポーチ。
まるでおもちゃ箱をひっくり返したみたいな様相だ。
(明日のチェックアウト、大丈夫なのか)
白いトレーナーの下で乱数の心臓は規則正しく上下している。帽子で覆われて顔の半分しか見えないが、色素の薄い肌に睫毛が作る影は青く、深い。
デニムと化粧パレットの隙間に投げ出された指は細くて小さく、三郎の指より心許ない。
とても先日プロポーズされた人間のものとは思えなかった。
(左馬刻さんは部屋で寂雷さんから聞いたんだろうけど)
一郎が乱数と同室であるのと同様、左馬刻は寂雷と同じ部屋に宿泊している。
しかたがないこととはいえ、どんなに同じステージで闘っていても休む場所は違う。夜に左馬刻がどんな話をしているのかも知らない。
(一度聞いたことあっけど、オトコ同士の話だってはぐらかされたしな)
恋とか、愛とか、結婚とか、そんなものも男同士の話には含まれている。一郎は左馬刻の妹とは、そんな話をしたことがない。
(いや、恋愛の話とか左馬刻さんにバレたらぶっ殺されそうだけど)
イケブクロに血の雨が降るな……と苦笑したときに、乱数と目が合った。
「一郎、左馬刻のこと考えてる」
瞬きもせずに、笑いを含んだ声で指摘される。
「起きたのか」
帽子で左半面は隠れたままだ。
「どうだった、デート」
「うまかった」
「でしょでしょ」
美味しいもの食べると元気でるもんね、と乱数は続ける。
「僕がお昼に食べたケーキも美味しかったなー、今度教えてあげるね」
窓の外ではゆっくりと太陽がビルの間に隠れていく。
「乱数」
「なにかなぁ?」
「寂雷さんと、その……マジなのか」
「んんん?」
「だから、その」
口にするのは妙に恥ずかしく、一郎は喫茶店で話したときの左馬刻を改めて尊敬した。
(やっぱ、あの人すげーわ)
「ああ! なんだ。……その話かあ。そうだねえ」
乱数がびっくり箱の人形みたいに起き上がる。
「いつかできたらいいですね、って寂雷が言っただけだよ。まだお互いやることがあるしね」
「そう、なのか」
「そだよ。だいたいそれって、空を好きなだけ飛べたらなあとか、世界中を旅行したいなあとか、そんな話と一緒のカテゴリなんだけどねぇ」
乱数がベッドから飛び降りるとスプリングが軋み、シーツに巻き散らかされていた内臓のような荷物が跳ねた。
「寂雷はマジメだよね。一郎、寂しいの?」
「そうじゃねえ、けど。けど、ちょっとびっくりした」
「あはは、本当に本当に未来の物語だよ」
麦わら帽子を乱数は被ってみせる、それから花束の乗った帽子、探偵みたいな帽子。投げ捨てて一郎の側にスキップをしながら歩いてくる。
薄手のレースのカーテンと、一郎の間に乱数は収まった。
喉元のチョーカーが動く。
「ボクのね、髪の毛が」
「うん」
「もうちょっと伸びたらね、って言ったけど。ほら、そっちの方がドレスに合いそうだし」
カーテンに乱数は後頭部を押し付ける。
「なんでも似合うんじゃねえか」
「嬉しいこと言ってくれるなあ、一郎は」
乱数を包むレースの目玉の模様と視線が噛み合う。一郎を見返す無数の瞳。
……急に、乱数が三郎に紹介した美容室を思い出していた。髪を無闇に触られるのを嫌う三郎のために、と教えてくれた店。
(ここの美容室はめちゃくちゃセンスがいいおねーさんがいて、こっちは喋らないけど優しいおねーさんがいるんだよ。あ、あと少し距離あるけど、ゲーム好きなおねーさんはここで働いてるよ)
乱数は客としての感想は言わない。
(乱数って髪を切ったことあるのか?)
そんな馬鹿げたことを考えて、一郎はすぐにその考えをやめる。
それこそ、本当に未来みたいな物語だった。
息苦しくなって窓を開ける。
レースのカーテンが風を孕み、花嫁のベールみたいに乱数と一郎を包み込んだ。
(了)