(8)復讐のように
スーパーマーケットに買い物に行くあめゆめ(TDD時寂乱前提)



スーパーマーケットの買い物かごを下げた夢野は、ただ立っているだけで面白い。飴村は発見する。夢野の着物の色と黄色のプラスチックのかごは絶妙に似合っていない、安っぽくて明るくて落ち着きのない音楽の流れる店内も、だ。
床から三センチくらい夢野は浮かび上がって見える。
飴村は手を伸ばす。レンガみたいに積まれた缶詰が壁を構成している。赤と白のツートンカラー。壁の真ん中にある缶詰を取り出して、ずしりと重たい缶をひっくり返す。
「乱数」
肉売り場の冷気の間から夢野が声をかける。
「はいはーい」
「楽しいですか、スーパー」
「うん! けど前にオネーさんと来たときとはだいぶ違うなあって」
「ふむ」
かごを下げていない側の手を夢野が顎に当てる。
「それは高級なスーパーというやつではないのですか」
「あはは、そうかも。ソーセージがね、ガーランドみたいに天井に飾ってあったよ」
デパートの地下にある店を飴村は思い描く。自分の頭よりも大きいチーズ。宝石に似たチョコレート。パーティー会場みたいなキラキラした空間。
確かあとは。
(ああ)
色鮮やかな食物の記憶は、他の思い出とも連動する。
(寂雷)
あいつも、たまにはスーパーマーケットに行くんだよな、と飴村は思う。飴村の知る限りは本当に稀に、ではあったが。
神宮寺はガラスケースの中の商品よりも、列に並ぶ人間に興味を惹かれてすぐ立ち止まるような男だ。気持ち悪いほど物欲が乏しいくせに。持ち合わせている好奇心の総量が、シンジュクディビジョンに住まう人間全員の好奇心を足したくらいある。
たいがいのことには才能を示す神宮寺ではあるが、少なくとも素早い買い物の才能はない。
今はどうやって……飴村はかぶりを振る。あいかわらず動物園を訪れる気分であの男は店内を回遊しているのだろうか。
「ソーセージ、いいですね」
「僕はタコさんのやつが好きだなっ」
「あれは売ってませんよ」
「そーなの?」
「あれはそれぞれのご家庭で作るものなのです。それゆえに神聖で他人が侵すべきものではないのです」
「ふむふむ。つまりタコさんウインナーを横取りするやつは死刑☆ってことだね」
「話が早い」
夢野が重々しく頷く。ポーズをつけた飴村の人差し指に軽く触れる。
「そういうことです」
買い物かごの中の、赤と黄色、緑の野菜にもやし、牛乳、卵……を覗き込む。
「これで全部?」
(人間の食事だ)
「こんなものでしょうかね」
紙片を取り出し、かごの中身を夢野は検分している。メモはチラシを利用したメモだ。
裏には、新しくオープンするパチンコ店の名前が印刷されている。見覚えがあるアニメのキャラクターの顔と新台、という単語を飴村は黙読する。
(今度のノベルティ、メモ帳も作ろうかなあ)
「明日は卵焼きにしますかね」
夢野の朝食を思い浮かべる。仕事の進捗に余裕がある場合の夢野の朝食は和食だ。
余裕と品数は比例していて、デッドラインが近くなるにつれておかずが減り、味噌汁が消失する。
「お米はいいの?」
「配達してもらう手筈は整ってますよ」
ああ、でも。と夢野は言う。
「小生としたことがうっかりしてました」
「忘れ物? 意外とドジっ子だねえ、ゲンタローは」
「ふふ、麿は少女漫画のヒロインにも匹敵する遅刻遅刻のうっかりドジっ子属性持ちですからね」
夢野の後ろから飴村は歩く。
「ゲンタロー、僕アイス食べたい」
「こらこら、お菓子は二百円までの決まりであるぞ」
「ええー、そしたら何も買えないじゃん」
「そんなことないんですけどね」
夢野が立ち止まる。
朝はこれが欠かせませんよ、と。
(納豆か)
夢野に倣って飴村も納豆を手に取る。賞味期限、会社名、原材料名。大豆。それから
(遺伝子組み換えではない)
隣の製品も同じく。わかっているのに、そのさらに隣も確認する。
(遺伝子組み換えではない)
「乱数?」
「うん」
「何か食べたい納豆でもあったんですか」
「アハハ、まあね」
飴村は首を傾げる。頭と心と体は別々に動く。全部ばらばらだ。変なの。
「好きなの買ってもいいですよ、今日は泊まって行くんでしょう?」
「本当? やったね」
ど・れ・に・し・よ・う・か・な、と飴村は人差し指をふらふらと動かした。灰色の高級そうな納豆が目に止まる。フォントが神宮寺の所属するチームのロゴを思い出させる。そしてこれも
(遺伝子をいじられていない、やつらか)
「僕これが食べたいなっ」
「お高い納豆をあっさり選ぶんですね、あなたは……」
呆れながらも夢野は納豆をかごに収める。
「ゲンタローは優しいなあ」
心の底から飴村はそう言い、神宮寺の家で食べた朝食の味と「おいしーね、毎日食べられたら楽しいだろうなあ」と告げた際の神宮寺の顔を思い出していた。
自分の誉め言葉に、驚いたように神宮寺は静止した。
(くだらない)
記憶の中の、はにかんだような笑顔。
笑顔。
記憶の中の神宮寺に大きく「遺伝子組み換えではない」と飴村は貼り付けた。
「はやく食べたいなあ」
「そんなに好きなんですか、納豆」
「うーん、どっちかというと嫌ーい」
嫌いというと気が晴れる。
遺伝子をいじられていない大豆もまさか俺みたいな存在に食われる想定はしていないだろうな、と飴村は考える。自然と口の端が緩み、歪んだ笑みが漏れた。
(ばいばい、寂雷)




20201016
麻天狼には納豆メーカーとコラボ納豆出してほしい。
(7)有栖川君の誕生日の準備をするあめゆめ(うっすら寂乱要素があります)
※有栖川君に本当の誕生日があります。
※H歴の制度を捏造しています。



飴村が頬を膨らませ、息を吐く。音もなくピンク色の風船は丸くなり、すぐにハートになった。
星の形、月の形、アルファベット……飴村の小さい手に束ねられると、いろんな形の風船は花束みたいに見える。
「ね、ね、まだ帝統来ないよね?」
「おそらく。今日はでかい賭場がどうのとか言ってましたから」
「ふむふむ。それはつまり、いつも通りってことだよね」
「まあ、春夏秋冬、三百六十五日ギャンブル狂いですからねえ」
風船の花束を、本物の花でできたスタンドの隣に飴村は置く。黄色の花の間にも、キラキラ光る風船があり、これは七の数字だった。
「しかし珍しい」
「可愛いでしょ、これ」
「いえ、貴方が当日にこんなに急いで準備するなんて、珍しいなあと思いましてね」
「あはは。こう見えて僕ってば、うっかりさんなとこもあるんだよっ」
「ほお、締め切りですか」
ますます珍しい。
考えながら、夢野は紙の輪を繋げる。
飴村は、夢野の知る限りで最も締め切りを遵守する男だ。
それが三分後であっても一年後であっても、飴村は決められた日程までに仕事を終わらせるのであった。
同業者であれば、さぞや重宝されることであろう。……と夢野は想像する。
飴村が果たしてどんな小説を書くのかまでは思いが及ばないが。
(恋愛小説、ではないだろうな。うまくいきすぎて、共感を呼ばない)
SFでもきっとない。
鋏を手に取る。色紙に当てるとうまく力が入らずに刃が紙を擦った。
(おや、こっちではなかったか)
飴村の事務所には、何種類かの鋏がある。布裁ち鋏、糸切り鋏、手術に使うみたいな手芸用の小さな鋏。事務用の鋏も粘着テープの切断に適した鋏から、飴村の手に合わせたサイズから。
右利き用、左利き用。
左利きの人間のために作られた鋏を夢野は机に置く。
「仕事の連絡もらったのがねぇ、調整日だったから」
夢野の動揺を気に求めずに飴村は言う。
「ああ」
「すっごくあの日は楽しくて、遊ぶのに夢中になっちゃっててさ」
『調整日』という呼び方は正確な名前ではない。
だが、H歴に入ってから唐突に現れたその祝日の正式名称は難しかった。あんなものを覚えていられるのは、政府の連中でも一握りであろう。
よって俗称である『調整日』の方が一般に広まっており、何の日かほとんど誰もわからないままに不透明な祝日は、カレンダーの日付を赤くしていた。
『調整日』が設定されているのは、夏が終わりかけの時期だ。
草が干からび、蝉が最期の声で鳴く日。
色の褪せた花弁と濁り始める空。
終わりを実感させられる物悲しい日。
(乱数には、そんなものは関係ないんだろうけど)
瀕死の哀れな虫に、笑顔で乱数が花火を向ける姿は目に浮かぶようだった。その行動原理は火を突きつけられることの意味がわからないからか、もしくは最期を華やかに送ってやろうという優しさなのか。
「ケーキは期待してほしいな。とびっきりのを用意したよ」
「それで空腹で来いとのリーダー命令だったんですね。さっきから小生、腹ぺこのペコちゃんで眩暈が止まらないのですけれどねえ」
「ケータリングももうすぐだよー」
乱数の掌が縫うように動く。捻られた風船がウサギになる。
「器用ですねえ」
ウサギを風船に添える。
空腹は思考を散漫にする。
そういえば、『調整日』はさる政府高官の親だか恋人だか、子供だか、とにかく大事な人間の誕生日が元だという噂を思い出す。
どれも根拠のない噂だ。
政府の組織機能も『調整日』だけは一部が止まると言われているから、囁かれるようになったのだろう。
「帝統、喜ぶといいよね」
「身も蓋もないですけれど、食べ物があれば大丈夫ですよ。派手なものも好きですからね……パチンコ屋みたいだって情緒のないことも言いそうですけど」
まだ『調整日』が存在しない時分、夏の終わりはあんなに世界が終わるように悲しい日だっただろうか。
夢野の記憶には残っていない。
ハッピーバースデーを鼻歌で歌いながら、風船を準備し終えた飴村が部屋を横切っていく。




20200707
(6)マリオネット~後に逃亡生活をしているシブヤ(寂乱前提)

泡立つビールを横目に夢野は窓の外を眺めた。杖をつく老人、携帯端末を見ながら歩く学生、色の違う買い物袋をそれぞれ左右に下げたスーツの男。
(老人は実は日本有数の大富豪だが、身分を隠して生活している。高校生は実は彼のボディーガードで、後ろの男性は大富豪の命を狙っている。それは故郷にいる兄弟のためで)
(兄弟は実は)
どうにも特技の想像の調子が悪い。醤油の焦げる匂い、皿と皿の触れ合う甲高い音、瓶の栓が抜ける能天気極まりない破裂音。
「帝統」
ボウリングのピンのように並べられたビール瓶を確認し、夢野はため息を吐いた。
「飲めるんですか、そんなに」
「いい加減仲直りしろよ。乱数のやつも反省してるって、たぶんだけどな」
「……してるでしょうねえ」
そもそも喧嘩のきっかけが思い出せない。顔を突き合わせる時間が増えたから、お互いに知らない顔が増えたから……衝突する理由はいくらだって列挙できる。
しかたがないことではあった。あった、のだと思う。
「ほまえもふえよ」
エビフライが尻尾ごと有栖川の口の中に消えていく。
「ホテルから出なければいいが」
入り口を夢野は睨む。正面のホテルの入口はこの一つだけだ。見慣れた小柄な人影が出ていけばすぐにわかる。
「出ていく理由はないだろ」
エビフライの尾を噛み砕いた有栖川はフォローするが
「と、いいんですがねえ」
枝豆を夢野はかじる。有栖川が店員に刺身を注文している。勝手なやつだ。あいかわらず。
「乱数の体調のこともありますし」
「じゃあますます、大人しくしてるだろ」
「乱数の大人げに賭けるしかないですね」
「そんなに落ち込むなって」
「小生は落ち込んでなどいませんよ」
「さっきから枝豆ばっか食ってんじゃねえか」
靴の先で床を叩く。靴裏が擦れて嫌な音が出た。






「というより、俺は悪くないと思ってるんですけどね」
貴方もそう思いませんか、と尋ねると、有栖川はほうなああと鳴いた。
「口に物を入れたまま、話さないでください」
「どうだろうな」
「乱数は自由気儘に行動しようとしますし、それでいて小生達の行動は制限しようとする」
ビールを煽る。喉が冷える。
大富豪がコンビニエンスストアに入っていき、ボディガードがバス停に並ぶ。殺し屋はいつの間にか消えている。
「乱数は我儘です」
「今更だろ」
最近笑ったり怒ったり、わかりやすくなったよな、と有栖川は理解しているような理解していないようなことを言う。
「いいんじゃね?」
「悪いとは言ってません」
感情を爆発させた後に気まずそうにしている飴村の態度はけして嫌いではない。むしろあれは可愛らしい部類ではないかと夢野は思う。
「子供なんですよね、我々が思ってるよりも。おそらくですが」
子供じみた外観の飴村は、大人のふりがうまい。自身にもそう思い込ませているのだろう。演技力と自己暗示の相乗効果で、効果は絶大だ。
湯豆腐を夢野は掬う。
「ただそれでも、言っていいことと悪いことがある……!」
「やっぱ気にしてたんだな、幻太郎」
「はは、麻呂は何も気にしてなどいませんが?」
ホテルを出ていく前に飴村から投げつけられた単語を反数しながら夢野は強がった。
ラップバトル以外ではあからさまな攻撃性を見せない飴村の放る、数少ないネガティブな単語。
「だいたい乱数は」
バスが止まり、乗客を吐き出していく。
「乱数は」
学生服、作業服、スーツ、白衣。
白衣。
「……好きな人間にしか嫌いと言いませんから」
(ああ)
言葉にすると、ラムネみたいに何かがすっと溶けていった。
おそらく今の日本で一番有名な白衣の男を、長髪の医者を。
飴村が嫌うのは好きな相手だけだ。


20200619
(5)肉を奢ってもらう有栖川君の話(シブヤ)

どうやら午前中で運を使ってしまったようだと有栖川は考える。ホールで飴村からの呼び出しを受信したのは十一時過ぎ、あと三時間くらいか、という思考はそのまま、一瞬無音で回転を始めるリールに持っていかれた。それから、ホールを飛び出して、券売機に向かう途中で絡まれた。相手は大人数のマイク持ち、厄介さよりスリルが勝った。
「それで?」
と地べたに寝転がる有栖川を見下ろすのは、チームメイトの夢野だ。
「最初だけだったな、ワクワクしたのは」
「貴方に絡む相手がお気の毒ですよ。ぼっこぼっこにされておいて、その感想とは」
帝統はんはほんにつれないお人……とふざけた口調だが、夢野の衣服も有栖川と同じく汚れている。
「コケたのかよ、幻太郎?」
「ええ、ハチ公前でバナナの皮を踏みましてね。D坂から滑ってまいりました。嘘ですけど」
「まあ、あそこにはバナナの皮は落ちてねえからな」
「そこですか。……まあ、貴方と一緒ですよ。遺憾にも暴漢に遭遇しました」
「で、ぼっこぼっこにしたわけか。いかしてんな」
「褒めても何もでませんよ」
と言いながらも、夢野は遊歩道に設置された自動販売機に歩いて行く。頬に泥ついてんな、と起き上がってポケットを探ったが、発見できたティッシュはくしゃくしゃでいっそ渡さないほうがマシな状態だった。
「おおい、手帳落としてんぞ」
「はい?」
黒い薄い冊子を有栖川は拾う。キラキラと光って盛り上がったシールが貼られており、らしくないなという思いが、脳裏をよぎる。が、裏表紙に「ゆめのげんだろう」と書かれたシールも貼られているから、ふざけが過ぎるあの小説家の私物なのだろう。
「おや」
飲み物の選択ボタンの前を夢野の指が往復している。
「緑茶ねえのか」
「帝統、すみませんがその手帳、最初から七枚目の頁に、電話番号が書いてあると思うんですが、読んでもらってもいいですか?」
「何の番号だよ。サラ金か?」
「違いますよ。さっきまで打ち合わせをしていた担当氏の番号です……初めて仕事したものでね」
夢野の後頭部を見ながら有栖川はぱらぱらと手帳をめくる。月日の印刷されたカレンダー、季節ごとのイラスト、カレンダーにまばらに書き込まれたドクロマークとハートマーク。
「これか?」
七枚目の頁に記された十一桁の数字を読み上げる。夢野が携帯端末を操作して、何事かを喋っている。
電話の先は無音だ。
(ふうん)
ほうじ茶、コーラ、水、スポーツドリンク。
何か大事なことを忘れている。何か。
さっき一発目で食らった、頭がくらくらするリリックのせいかもしれない。有栖川の苦手なタイプだ。
続く攻撃は期待外れだったが。
(そういや、あいつら幻惑系ってやつだったのか?)
脳神経に直接電気を流してくるような、重力を感じさせない攻勢。
幻惑には初手が大事、と言われたのを思い出す。惑わされないのが最善手。かけられたときには
(ま、何も考えずにやっちまったけどな)
ただ幻惑が得意、ということがわかった時点で、こちらに利がある。
(聴牌直前と同じらしいしな)
対策がとれますからね、と夢野は言っていた。むしろ隠していない方が厄介かもしれない、と。
(外せるもんなら外してみろってことだよな)
たとえば乱数。
(……あれ?)
「おい、幻太郎」
「はい」
「何時だ、今」
有栖川の質問に、公園の時計を夢野は指差した。長針は十二、短針は四の数字を示している。
(レース終わっちまった……)
「乱数の呼び出しですか、それなら……」
「いやそうじゃねえ、いやそうだけど、それだけじゃねえ」
レースの結果が見たいと頼むと、あっさり夢野は端末を渡してきた。
「忙しない、せからしい、世話が焼ける」
震える手で有栖川は結果を確認する。一着、二着、三着……何度も頭の中で描いた名前が並んでいる。
「おや万馬券でしたか」
「……買ってねえよ」
買うつもりだった、が券売機に並ぶ前に絡まれた。
仕掛けなければ、大勝ちも大損もない。一番つまらない賭けだった。
「それはお気の毒に」
乱数に話してごらんなさい。たぶん慰めてくれますよ、と夢野は言う。
「寿司でも鰻でも奢ってくれるんじゃないですかねえ」
「何でだよ、遅刻してんだぞ。絶対罰ゲームとかいって、変なことやらされるって」
「そこはそれです。泥舟にでも乗った気持ちで小生を信じてみてくださいよ」
「沈んでんじゃねえか」
返すと、大きくなりましたねえパパは嬉しいぞよと夢野は笑い、手帳の今日の日付のハートマークに丸をつけた。


*********


「賭ければよかったのにな」
言うと、夢野は「どうですかねえ」と言った。肉を焼く匂いとバターの匂い。ビールを有栖川は飲み干す。
「いい飲みっぷりだね、帝統」
「おお。久しぶりだからな、肉は」
飴村が手を挙げて次の注文をしている。
「残念だったね、お馬さん」
「ま、またレースはあるからな。次も的中させるぜ」
今日は残念だったが、目の前の肉で有栖川はだいぶ気分が回復していた。しかも何でも注文していいとパトロンである飴村が言うのだ。ついている。
「本当に不運でしたよ。わざわざ呼び出しの日に野良バトルを吹っかけられるだなんて」
「だよねぇ。有名税ってやつなのかなあ」
昼過ぎに絡んできた相手より、はるかに小さい飴村の横顔を有栖川は横目で見る。子供のような丸みのある滑らかな頬。
「なあ、乱数」
「どしたの、お肉頼む?」
「いや、頼むけど。今度、モギセン? ていうのか、それやらねえか」
提案すると、飴村だけでなく、夢野も沈黙した。
(何だよ、その反応)
「いやだから、今日チンピラとバトルしたけど、あんまり燃えなかったっつうか、あいつらちょっとお前に似た攻撃してくるけど、つまらなかったし」
飴村のバトルは苦手だ。
だが、飴村がいるバトルが一番脳が焼き切れそうな程に興奮する。
伝える言葉がうまくでてこない。有栖川は口ごもる。
「模擬戦かあ。あれ、感想言わなきゃいけないから、僕好きじゃないんだよね」
「模擬戦はそういうものですけどね……しかし、感想戦でまたダメージ与えそうですからねえ、乱数は」
「あははは、それそれ」
帝統は模擬戦より実戦が似合ってるよ、と乱数は笑う。
「それに僕が誰かに物を教えるの、向いてるように見えるかなあ?」
相手に合わせてメニュー考えたりとか見守ったりとか我慢したりとか、僕らしくないよと乱数は続ける。
「そうだな、確かに想像もできねえや」
「でしょでしょ! 帝統はわかってるなあ」
飴村が頭を撫でてくる。向かいの夢野が拳を二つ寄せてメニューを熟読している。ピンクのハート。夢野の手帳に記されていたその記号がなぜか頭の片隅をよぎっていった。


20200411
(4)TDD時代のつきあってる寂乱

白い室内は、明るくて清潔だ。苺とミルクと珈琲の匂い、それに向かい合った飴村の姿が、この部屋が病室ではないと神宮寺に告げてくる。
「寂雷、ここ初めてなんだ?」
「はい」
「勿体ないなあ。せっかくシンジュクにあるのに」
僕ここ好きだな、と飴村は笑う。満面の笑みではないから、嘘ではないのだろう。
「お土産、買っていかないとねえ。ケーキかなあ、チョコがいいかなあ」
「紅茶はどうでしょう」
「そんなの寂雷の家にいっぱいあるよ」
神宮寺の提案はあっさりと却下される。
「ホールのケーキは予約しないと難しいかなあ」
「そんなに入るかな」
「イチローもサマトキもケーキ一台見たら、テンション上がるよ?」
あの二人だったらショートケーキだろうけど。飴村は言う。
「衢がいるから、アップルパイっていうのもいいよね」
「一郎君の弟さん達も食べられる物がいいかもしれませんね」
「じゃあ飴も買っちゃおう」
室内の鏡に自分と飴村が映っている。にこやかな飴村とは対照的に、自分の表情はぎこちない。つ、と鏡の飴村と目が合う。鏡像と現実から同時に飴村が質問する。
「もしかしてだけど、寂雷、緊張してるの?」
「どうでしょう。本当にこうした場所は初めてなので」
駅の中に、この果物専門店があるのは知っていた。自分が入るという発想はなかったのだけれど。
「自分には似合わないって思ってるんだ? 寂雷、果物好きなのに」
食べたい物を食べるのが一番だと思うよ、と飴村は首を傾げる。耳の隣の長い、一房の髪が揺れる。医者としては推奨できないが、甘い物ばかり口にする飴村が言うと妙な説得力があった。
「そっちの方が絶対楽しいもん。人にどう思われようと関係ないじゃないか。果物が好きなおにーさんって、恥ずかしいことじゃないと思うけどなあ」
「そういうわけでもないんですが」
説明が難しい。神宮寺の過去を知っている男は、しかし神宮寺の思考を知っているわけではない。当然ながら。ただ不思議な距離間で神宮寺の周りを惑星のように添ってくる。
「ま、ギャップでメロメロにするってやり方もあるからね」
「先入観を逆手に取る、感じかな」
「そうそう」
流石飲み込みが早いよ、と飴村は嬉しそうだ。
「たとえば寂雷は普段しっかりしてるけど」
運ばれてきたコーヒーを一口、飴村は啜る。
「けど、迷子の子供に泣かれて落ち込むこともある、とか」
「君がブラックコーヒーを飲める、とか」
「うんうん」
「そして落ち込む私のことを心配する……というのは、ギャップに該当しませんね」
「あはは、正解。それはここに来たかっただけだよ。寂雷と」
銀の細長いスプーンを握る。赤い果実をアイスクリームと一緒に掬う。
「溶けちゃうから食べよ」





「ケーキも頼んじゃう?」
器のパフェが半分減った状態で、飴村は尋ねてくる。
「特別だよ。奢ってあげる」
「いえ」
「まだ考えてるんだ」
さっきの子供のこと、と指摘されて、神宮寺は頷いた。
話しかけた途端に、親とはぐれていたらしい子供は火がついたように泣き出した。不安を感じているだけではない泣き方だった。泣き声の底にはうっすらと差し出される手への拒否があった。
人間同士が常に友好的な関係を築けるとは思っていない。話せばわかる、というのも。そこまでは楽天的ではないつもりだ。己が人に好かれるとは自惚れていない。
ただ、向けられる敵意や悪意の原因は気になった。同じような出来事は、過去にもたびたびあったから。突然の害意は、誘因が判明しないだけに興味深い反面、厄介だった。
「へえ」
説明すると飴村は少し驚いた顔になった。
「さっきの子供の反応は、自分の中に生まれた感情に戸惑っているように思えてね」
「で、それは寂雷のせいだってこと?」
「はい。おそらく」
「ふうん」
ガラスの器に沈む枇杷の実を神宮寺は口に含む。甘い。
「敵意や害意はいずれ自分を傷つけます」
「そんなに悩む話でもないと思うけどなあ」
飲みかけのコーヒーに二つ、砂糖の塊を飴村が投入する。みるみるうちに黒に染まる砂糖の粒をスプーンで壊す。無意識めいた動きで指が首元のチョーカーに触れた。
「あの子供も、今まで寂雷にキライって言った人も、怖いんだよ。君のことが」
ああ、身長の話とかじゃない、と付け加える。
「寂雷に絶対勝てないって思うのが怖いんだ。君は別に勝ち負けなんて気にならない。歯牙にもかけてない。だから余計に怖い。勝てないって認めたらずーっと死ぬまで、そのままだからね」
あまり得心できない答えだ。飴村らしくない、明確さを欠いた回答。
神宮寺の沈黙をどう捉えたのか。飴村は捕捉のようにフォローをしてくる。
「別に僕は怖くないよ、寂雷が面白いってこと知ってるからね」
「乱数君は勇敢な人だと思いますよ」
「まあ……負けると思ってないもん。もっちろん簡単に勝てるとも思わないけどねー」
舌が、果物の汁で血のように赤い。整った容姿のせいか飴村にはたまに生命力が希薄な瞬間がある。ぞっとする程、赤の色は目を惹いた。
「そうですね、私もそのつもりです」
返すと、そのまま飴村は口を開けて笑った。
「寂雷は、自分を嫌いな相手だってキライになんてならないもんね。寂雷を嫌いになる人はカワイソーだよね。嫌いの片思いだ」
寂雷が心の底から嫌いになる人、いたら見てみたいなぁと飴村は言う。
「君は誰にでも好きと言いますね」
「皆に言ってるわけじゃあないもんねえ」
おねーさんは好き、面白い人間も好き。飴村の声は容器はガラス容器に詰められた生クリームのように甘く崩れる。溶ける。
「やっぱりケーキも食べちゃおっか……あははは。寂雷もヤキモチ焼くんだね」
「私は、それほどできた人間ではないですよ」
「そう思ってるの、世界で君だけだったりして!」
今朝リビングで確認したときよりも、おそらく低い温度の舌がもう一度覗く。またすぐに見えなくなった。


20200408
(3)空寂ポッセ時代のつきあう直前くらいの寂乱と衢君

「なんですか、これ」
神奈備の質問に、答える声は二つだ。
「うちわ、ですね」
「うちわだよ~」
「いや、それは見たらわかります」
フローリングの床を神奈備は見下ろす。黒地のうちわだ。蛍光色でメッセージが掲示されている。学生の頃に、クラスメイトが作るのを手伝ったことがあるから、作り方は知っている。
(大好き)
(指差して)
(こっち見て)
(大漁)
「大漁」
「これ、鯛かなあ?」
「それは寂雷さんが釣りに興味あるとか言うから……」
神奈備はため息を吐く。たまにこうした物をラップバトルに持ち込んでくる観客はいる。許可されていない場合が多いから、大概は注意、か最悪没収だ。
欲望を抽出された文字は、静謐な雰囲気の神宮寺の家に並ぶと、異様な違和感があった。
「けどよくできてるよね」
持ってきたおねーさん達から、貰ったんだよ。と飴村が言う。
「ラインストーンを使ったうちわもあって綺麗だったんだけどね、それは見せてもらっただけだよ」
キラキラしてるんだ、と語る飴村は、職業柄、ターゲット層の流行が気になるのだろう。今度こういうの作ろうかなあ、とも言う。
「そだ、衢用のもあったよ」
「や、やめて下さいよ」
『よつつじくん、ピースして』と書かれたうちわを飴村が見せる。
「恥ずかしい……」
「ええ~やらないの?」
「すみません、ところで」と神宮寺が口を開いた。
「……これはどういう意味があるのかな」
(そうか、寂雷さんは知らないんだ)
「これはねえ、お客さんからの愛の言葉だよ」
一つ一つの要求を飴村は指差しながら、声に出す。
「手を振って、ウインクして、キスして」
バトル中にはあっさりと相手を沈める言葉を放つ口は、今日は柔らかく他者の欲望を読み上げる。
「あははおねーさん、大胆」
「少し過激のような気もしますが」
「んー、こういうのってだんだんエスカレートしていくものだからね。いつか孔雀みたいになってくのかなあ」
孔雀で色鮮やかな羽を持つのは雄の方だ。知っているのか知らないのか、飴村は笑う。
「こういうことをステージでして欲しいっていう夢……とか願望だね」
飴村の言葉に神宮寺は考え込んでいる。
「ふむ……投書、というわけではないんだね」
「そうだねえ……」
芸能人に興味が乏しい神宮寺への説明はさしもの飴村も難しいらしい。
「投書、でいいのかもね。これを僕らがステージですることでおねーさんにとっての世界はハッピーなものになるってことだし」
(勝って)
(奪って)
物騒な単語も今の飴村が掲げると童話の一節みたいだ。静寂を見出すピンク色の旋風。
「そうだ、今度寂雷もバトルのときにサービスしてあげなよ。うんうん、次の課題はそれにしよっ」
衢もね、と飴村は笑顔で恐ろしい宿題を出してくる。
「ぼ、僕もですか」
「トーゼンだよ」
「頑張りましょう、衢君」
「無理ですって」
そんなに難しいことじゃないって、と飴村は言う。
「衢だって好きな子に優しくされたら嬉しいよね? それと同じだよ」
「そういうものですか……?」
「うん。一緒」
飴村の携帯電話が鳴る。
「あ、おねーさんからだ」
飴村の語る「お姉さん」が何人いるのか、神奈備は知らない。
飴村が立ち上がる。
「ちょっと外すねー」
「モテますね、飴村さん」
「そうですね。乱数君は面白い人ですから」
うちわを拾い上げ、真面目な表情で神宮寺は観察している。
「やるんですか、これ」
「挑戦する意味はあると思いますか、衢君」
「どうでしょう……」
(あ、あるのかなあ)
廊下をスキップしながら進む飴村の後ろ姿を恨めしく神奈備は眺めた。
(何てこと提案してくるんだ)
と、まるで伝わったみたいに飴村が振り向いた。
(うわ)
神奈備と、神宮寺をちらりと眺め、それからぱちんと片目を瞑って、バスルームに消えた。
音がしそうなパフォーマンスだ。
すべてが完璧なタイミングだった。
「なるほど」
神宮寺が感得したときの声を出す。
「確かに……」
元気になった患者から手紙をもらったときみたいに、神宮寺の頬がわずかに緩む。
「これは、嬉しいものですね」
「なんか凄かったですね……」
まだ廊下に飴村の存在が残っている気がする。神宮寺の手の中にある「ウインクして」と書かれたうちわを神奈備は視認する。
(そういえば昔、飴村さんに似たアイドルいたなあ)
神奈備が子供の頃の話だ。そこそこ有名になって……それからどうなったんだっけ、あの人。
(覚えてないなあ)
寂雷さんはどうだろう……考えて隣を見る。
神宮寺は床に並べられたままの、「笑って」というメッセージに、じっと視線を注いでいた。怖いくらいだった。
それを見て思い出す。
(そうだ、確か熱愛発覚みたいな噂があって)
それからテレビに映らなくなった。楽曲も、聴いたはずなのに、もう神奈備は歌えない。
アイドルの恋愛は忌避される。なぜか、昔からそうだ。
……検索で確認した姿は、あまり飴村に似ていなかった。


20200314
(2)夢野先生の家で不謹慎な遊びをしているあめゆめ(CPではない)


切腹。
切断。切手。
一切合切。
文字を追う夢野の視界の端で、飴村の足の裏が揺れる。秒針と同じ、正確なリズムだった。
「見つかりませんねえ」
「んー、次行っちゃう?」
「そうですね。後から探しましょう」
ブランケット判から飴村が体を持ち上げる。印刷されてから三日以上経った紙からはインクの匂いがほとんどしない。
「一面か、二面にあった気がしますね」
「そんなバカな」と書かれた見出しを夢野は指差した。「二つもありました」
「どっちにしよっか」
「そうですね……バカな、の方にしましょうかね」
「おい、今こっち見ただろ」
有栖川の抗議を夢野は無視する。
「もともと帝統の今夜の布団ですからね、敬意を払いましょう」
「へー、あったかいんだ。新聞って」
「んなわけあるかよ」
飴村の掌の中で小さな鋏が鈍く光る。繊細な切り絵を作るように、紙を切り開き「な」の文字を救出する。
「も」
「の」
「は、」
の、は多いねえと飴村は感心している。レポート用紙に切り抜いた文字をぱらぱらとこぼす。
(大□なものはア)
大小も色も字体もバラバラの文字が作る文章を夢野は黙読する。
「濁点は別の文字から拝借しましょう」
「まじで何やってんだよ、お前ら」
「これはこれは、帝統ともあろう人がご存知ないとは嘆かわしいことでございますねえ。これは今シブヤで最も流行っているナウな遊びではないですか」
「はあ?」
(大□なものはアすかった。カ)
「ま、嘘ですけどね」
「そうそう、実行はしないよ~」
人の新聞で下らねえ遊びしてんじゃねえよ、と有栖川は呆れている。いつものことだ。
「あなたの物ねえ」
馬の名前の羅列された紙面を夢野は目を細めて眺める。自分達のチーム名が白々しく混ざっていても不思議はないカタカナばかりの名前の群。
「買ったのはあなたじゃないでしょう。この日は一銭もないと仰ってましたよね?」
「だから、くれたやつに迷惑かかるだろ」
「迷惑」
有栖川の語彙は不思議だ。夢野の家に押しかけて(そしていつの間にか飴村が現れて)、食事をし、風呂に入って寝る。そういうことはどうやら有栖川の迷惑の範囲ではないらしい。
「新聞の切り抜きなんて、とっつかまるに決まってんだろ」
「……ずいぶんと、詳しいですね」
「え、帝統って誘拐犯なんだ?」
「俺のことどういう目で見てんだよ……そっちじゃねえ」
「すると、困りましたねえ。手袋をすればよかった。証拠がたんまり残ってしまいますね、この手紙」
「あははは、幻太郎は触ってないじゃん。さっきだって紙の上からしか触ってなかったし」
いつも靴の裏をすり減らさない飴村が笑う。いつも新品の靴。どこに行っているのか、悟らせない靴。
「エ、死、て、ホ、し」
飴村の工作は続く。
「く、は野球のとこの使おうかなあ。このフォント、可愛いよね」
「覚えてるんですか」
「? 見たら覚えない?」
興味をなくしたらしい有栖川はもう夢野達に顔を向けた状態で、寝転がっている。目を瞑ると存外、有栖川の顔は幼い。
(大切なものはあずかった。かえしてほしくば)
レポート用紙上の文面に、十年前に頻発した大物政治家の家族誘拐事件を思い出す。政治家の甥や姪、子供や孫、ペットの犬までもターゲットにされた事件だった。
あのときは、自分はどう思ったのだか。うっすらだが当人ではなく弱者を狙う陰湿さに理不尽を感じたのは覚えている。
「ねえ、幻太郎」
「はい?」
「返してほしかったら、何をしたらいいのかなあ」
ほとんど完成した脅迫状を飴村は示してくる。
(かえしてほしくば、……をよこせ)
「そうですねえ。営利目的でしたら金額を入れるのが一般的でしょうけれど」
「へーえ、どのくらいがいいのかなあ? 一億円くらい?」
ちょっと安いかもね、と小学生のような容姿の男は金額を評価する。
「安いですか?」
「もう少し貰ってもいいんじゃないの。だって大切なものなんだよね?」
でも兆の文字の見出しはないよ、と言う。飴村が断言するからにはそうなのだろう。
「ならば、金銭以外のものがよいでしょうね」
「じゃあ歯とかどうかな」
ちょうどあるんだよね、と飴村が見せてくるのは、有名なスポーツ選手の写真だ。勝利を讃えられながら、彼はカメラに向かって万面の笑みを見せている。
「爪と違って、歯は抜いたら生えてこないもんね」
大きく開けられた口で光る門歯を、丁寧に飴村は切り抜く。
人間商売などとうに止めていそうな男と作る不毛なメッセージ。
「……乱数にとって、歯の方が一億より高いんですね」
「本物の歯って一億で作れるのかなあ」
無駄が多いよね、と続ける飴村は紙面と有栖川の口の中を交互に眺めている。
「帝統の歯にそこまでの価値はないと思いますよ。まだ残ってますので」
飴村が紙をめくる。
「あは」
「おい……て何見てんだよ!」
有栖川が弾かれるように飛び起きる。そのまま飴村の顔を掌で覆った。
「これはこれは」
新聞の切り抜きが桜の花弁のように空を舞う。花ほどに美しいものではない不穏な言葉の残骸ばかりが。
有栖川の狼狽に、礼儀として夢野も一応袖で顔を隠す。
「あんまりではないですか、妾というものがありながら。乱数のところに行くなんて」
「じゃねえ!」
「では、家事でもしたくなりましたか」
「ちげえよ。子供が見るもんじゃねえだろ」
「皿くらい洗ってくれると助かるんだが」
(自分で持ち込んでおいて、何を言ってるんだ)
肌色の画像と擬音が乱舞する見開き面を夢野は指の間から横目で確認する。
こうした刊行物では、しばし性的な記事が前触れなく挿入されている。政権が変わり、だいぶ扱いが小さくなったようには感じているが。性の絡む大胆な告白文は、駆け出しの時分、夢野も捏造して金子を得たものだ。
「僕、成人してるから、大丈夫だって」
有栖川の右手の下から、飴村が柔らかく抵抗している。
「え、ああ?」
「それに写真じゃん。本物のおねーさんじゃないもーん」
「乱数はモテますからねえ……」
遊びが終わる頃合いだ。
夢野は新聞をたたむ。
ふと、虫食いの紙面に掲載された連載小説が目に入った。舞台は前年号の時代だ。登場した大学生が電車に乗って、神話の時代の刀が祀られた神社に向かっている。オオサカ在住の彼が通過するオオツ、イシヤマ、モリヤマ……旧地名で書かれた目的地は
(□知県)
(ナゴヤか)
おや、最初はどこに……と考えたところで、夢野の体のどこかに引っかかっていたらしい。はらはらと文字がレポート用紙の上に舞い落ちた。


20200311
愛はいつも夢野先生の中で光っているし、たら(鱈)もれば(肝臓)もございます。
(1)夢野先生と有栖川君が同衾する話(CPではない)


気がつけば師走も過ぎ、年も改まり、一月は行く二月は逃げると朝礼のたびに繰り返す教師の声が学生時代に嫌いであったというのに、年月はするすると両手の間をすり抜け、晴耕雨読、臥薪嘗胆、いや
(今日は何日だ)
暗い部屋の中で考える。思わずミミズの這った後に現れるような文と呼べないものを綴るほどに自分は疲れ果てている。かろうじて正月に雑煮を食った思い出はある。友人の誕生日も祝った。あとはひたすらに原稿を書いていた。それだけだ。
「なんと情緒がない生活なんだ」
四つ這いになり、台所に向かう。
(あれを……あれをやらねば……)


「そういうわけで節分をしました」
説明すると、有栖川は首を捻った。
「すげえ前じゃねえか」
乱数の誕生日、終わってるし、と有栖川は続ける。
「もったいねえなあ」
「ふふ、とはいえ落花生ですからね」
思い立ったのは夜も遅く、近所のスーパーの閉店時間を十五分ほど超過していた。
「そしてこれは、小生が頼んだワット数ではないですね」
これでは残念ながら宝箱の鍵は開きません、電球を夢野は振る。
「だいすくんの初めてのお買い物、失敗ですにゃあ」
「買ってねえよ」
「おやおや」
(節分も失敗、電球替えも失敗。まあそんな日もあるさ)
有栖川は石鹸の匂いがするから、昨日は屋根のある場所に泊まったのだろう。この電球、どこで調達してきたのやら……と夢野は考えながら、畳の部屋に入る。のそのそと有栖川はついてきた。
「つか布団どこだよ」
「おやおや、帝統殿は奇妙なことを言いますね。そこにあるではないですか」
「そういうことじゃねえ!」
「実は正直者にしか見えない布団を購入しましてね。せっかくの布団です。帝統はそちらで寝て下さい」
電球を新調できなかった薄暗い空間を指すと、有栖川はため息をついて壁に近寄って行った。
(素直な男だ)
「嘘ですよ」
この素直さは疎ましいが、好ましい。
「落花生があるから布団を重ねたんです。風邪を引かれては乱数に怒られてしまいますから」
「拾えよ、全部」
「明日の朝でいいじゃないですか。あと蹴らないでくださいね。君は寝相がよくない」
有栖川の体温は高い。頭皮は草と汗の匂いがする。一緒の布団に入れたことをつかの間後悔し、後悔の次の瞬間には夢野は眠りの世界に落ちていた。





朝に放送されるパステル色の子供番組は夢野にチームのリーダーを思い出させた。彼のチョコレートの風呂に浸かったような誕生日パーティーのことも。
(乱数は子供、好きじゃなさそうですけどね)
納豆にネギを入れて、かき混ぜる。
(一、二、三……)
「おや、こんなところにも」
どうやら昨日の自分はだいぶ錯乱していたらしい。ちゃぶ台の下にも落花生が落ちている。
「これはお風呂場にも撒いてますね」
これは、今日は落穂拾いならず落花生拾い……と考えたところで、畳まではみ出したままで有栖川が伸びをした。
「いつまで寝てる気ですか。人の家で」
「もう朝かよ……」
「いえ、夜ですよ。今日は朝から夜なんです」
「意味がわかんねえよ……」
名作アニメのエンディングテーマを知らないらしい有栖川は布団から這い出てくる。
「幻太郎、昨日どれだけ落花生投げたんだよ」
「家にある分はすべて」
「なんでそんなにあるんだよ、この家」
「たまたまですよ」
「布団の下にもあったぞ」
「え」
ほら、と有栖川は三枚重ねた敷布団を剥ぐ。ころんと畳の上に落花生が転がっていた。
「よくわかりましたね」
「おお。ちょうど凝ってるとこに当たって気持ち良かったけどな」
有栖川は肩を回す。それから「もらうぜ」と言って、足の指で落花生を掴んで空に投げ――口に放り込んだ。


20200308