碧棺左馬刻の唇から長い長い煙草の煙が立ち上っていく。ソファに座るマネキンのような姿の中で、その一点だけが乱調だ。
鼻孔をくすぐる匂いについ、火を貸してくれと言いそうになって飴村乱数はかぶりを振った。
「ねえ」
「ああ?」
そして左馬刻は思い切り不機嫌だった。今トーキョー中で最も機嫌が悪い人間をランク付けしたら十本の指に入るだろう。
「ヤクソク、覚えてくれてるよねっ?」
左馬刻の口端がひん曲がる。
「もしかしてー、忘れちゃった? ひどぉい、僕すっごく頑張ったのにー」
「……てる」
「なになに、聞こえなーい」
乱数は身を乗り出した。
嘘だ。
聞こえている。
左馬刻に明確な発音で言わせることに意味がある。
「覚えてっけど」
「だよねだよね、男に二言はないんだもんね。僕が勝ったらなぁんでも、サマトキ様お願い聞いてくれるんだもんねっ」
また無言。
「ね、僕、いーっぱい準備したんだから」
乱数は腕を広げた。
背後にずらりと並べているのは、スカート、ドレス、ブラウス、サマーニット、手袋、ストッキング、靴、メイクボックスといった、平素であれば事務所に縁がないものばかりだ。
運び込むには苦労した。
これだけあればパーティーやファッションショーにだって飛び入り参加できる。
「ね、ね、どの服がいい?」
モデルはただ一人だけれど。
左馬刻は答えない。
(そんなに女装に抵抗があるのか)
乱数にはよくわからない。
簡単な話だ。
発端は練習も兼ねたバトルだった。
他のメンバーと違い、乱数には全員の力を底上げしなければならない理由がある。
強くなるには実戦が一番だ。とはいえ、近隣のディビジョンにはもう強力なMCはほとんどいない。
では、自分達で戦えばいいではないか……というわけで、最近のTDD内ではしばしばメンバー同士のバトルが勃発していた。
長期戦向きの乱数と左馬刻のスキルは相性が悪い。よって乱数自身の練習相手として左馬刻は最適だった。
今回、乱数はバトル前に一つ提案をしている。
まあ自分へのご褒美……というわけでもないが、刺激が必要だと思ったからだ。
単に戦うだけじゃつまらないよね? という言葉に、左馬刻は今ひとつ納得していないようだったが。
(こいつは戦うのが好きなんだろうな)
目的も理由もない戦闘。
血が沸騰し、思考より先に動く身体。
そんなものがこの男は好きだ。
(別にその格好でラップバトルをしろとか外を歩けって言ってるわけでもないのに)
「この僕が、左馬刻に似合う服選んできたんだよ~。思いっきり可愛くしてあげるって。あ、サマトキだから可愛いっていうより、キレイ系だねぇ」
「……うっせぇな」
「大丈夫だって、僕メイクもできるから! プロのおねーさん直伝なんだ。任せといて」
乱数がにじり寄ると、左馬刻は背を逸らした。
「ちっ」
「約束破るのってオトコの子の沽券に反しちゃうよねえ、サマトキ様だったら、よくわかってるよね」
「クソが」
「もー、せっかくキレイな格好するんだもん。もっと可愛く言って欲しいなあ」
「罵倒に可愛いもクソもあるかよ」
「んー、そうだねぇ」
乱数は荷物を解く。
「服ってさ、好きなものを着て楽しくなるっていうとこもあるけど、変身って意味もあるよね」
「知るか。つか戦隊ものかよ」
「そうそう、それだよ」
腰に手を当てて、乱数は左馬刻を指差した。
「可愛い格好してたら可愛い動きになるし、キレイな服着てたら顔つきだって変わるんだよ」
かっこいいっていうのもそうだよ、と乱数はつけ加えた。
「左馬刻だってかっこいいって思ってるから、今日着てる服着てるんでしょ」
色素の薄い赤い目の中に映る自分の姿。あまりにも飴村乱数でしかない乱数の姿。
「だいたい僕のこの命令も、サマトキ様のこと思ってのことなんだからねっ」
「それと女装は関係ねえだろ」
「あるよー。ありまくりだよ」
「ちわす」
力説の途中に、ドアが開く。
山田一郎だ。
「うわ、なんだこれ」
「イチローじゃん。おはよー」
衣装の山の間を一郎は器用に通り抜ける。左馬刻が煙草を灰皿に押しつける。
「出張でもあんのか、乱数」
「ブッブー、不正解でーす」
(これは、面白くなってきた)
と思ったのは乱数だけのようで、視界の端の左馬刻は苦虫をゆっくり噛んで飲み込んでいる最中みたいな表情をしていた。




「ピンとこねえんだけど」
乱数の話を聞いた一郎は言う。
「そうだなあ。さっき左馬刻にも説明してたんだよね」
メイク道具を机に並べて乱数は言葉を探した。
「変身ヒーローってさ、かっこいいよね? でも最初からかっこいい人がヒーローになるケースが全部じゃないと思うんだよ」
「まあ、確かにな。なんの変哲もない奴がヒーローになったり魔法少女になったり、転生することって多いけど」
一郎が話しているのは、おそらく漫画や小説の設定だろう。しかし苛立ちのあまり思考を放棄している左馬刻よりは、よっぽど理解が早い。
「ヒーローや魔法使いの格好をしてるうちにさ、どんどんかっこよくなってくことって、あるんじゃないかな?」
「自己暗示か」
「言い方は悪いけど、そうだね。ヒーローの服を着ているうちにヒーローの気持ちがわかっていくって感じだよー」
街を守らなきゃー、とか悪いやつと戦うぞ、とかさ。
「そんなもんか?」
「そういうものだよー」
(たとえば自由を奪う悪の組織と戦うとか、悪の組織の手先を倒すとか)
ヒーロー気質の一郎にはおそらくこの感覚は理解できまい。
緑色の大ぶりの石が嵌ったイヤリングとブレスレットを、ストールの近くに乱数は静かに置いた。
「ともかく左馬刻もおねーさんの格好したら、おねーさん達の気持ちがわかるようになるんじゃないかなって思うんだよ」
「荒療治すぎんだろ」
「そうかなあ、僕心配してるんだよー。サマトキ様は声かけてくれたおねーさん達追い払っちゃうし、そういうのよくないと思うなっ」
「放っとけ」
ようやく左馬刻が口を開く。
「ほっとけないよお。だって、サマトキ様このままじゃ、妹のおねーさん……ねむおねーさんだっけ、にも嫌われちゃうかもだよ?」
「あいつが俺のこと嫌うわけねえだろ……」
反論の語尾は弱い。
(あと一押しか)
女性の格好をすれば女性の気持ちに、男性の格好をすれば男性の気持ちに、権威を示す服を着れば権威ある人間の気持ちに。
そうやってふさわしい振る舞いを人間はするようになる。
周囲の扱いだって変わる、のかもしれない。
「……わかりました」
左馬刻の眉根の皺に何かを感じたのか、思い詰めたような声で一郎が言う。
「左馬刻さんが抵抗あるっていうなら、だったら俺がします。女子の格好」
「は?」
「ええ?」
予想外の提案だ。左馬刻が半分立ち上がる。乱数は手を止めた。
「一郎、おねーさんの格好するんだ?」
「いや、だから左馬刻さんの代わりに……俺もこの前乱数に負けたわけだし……」
「ちょっと待ってよ。一郎と左馬刻じゃ似合う色も服も全然違うんだよー早く言ってよお」
「何言ってんだ、おい」
「あ、そうだ。オフィスに連絡するっ! 確かあれとあれはぴったりなのがあるから、持ってきてもらえばいいよね。ストッキングとかは途中で買ってきてもらうから!」
「勝手に決めてんじゃねえ、おい一郎」
「電話してくるから、待ってて」
携帯端末を握って乱数は席を立つ。別に場を外す必要はないが、左馬刻がうるさい。
悲愴な表情の一郎と、迫る左馬刻の様子は音声がなければとんだ愁嘆場にしか見えなかった。
(あの雰囲気だと長引く)
電話を終えて戻ってくると、まだ二人は自分が異性装をするという主張で揉めている。
(似たもの同士だな、こいつら)
子供の洋服を着れば子供の気持ちに、大人の衣服を着れば大人の気持ちに。
庇護者らしい服装をすれば庇護者に、道化の格好をすれば道化に、怪獣の服を身に纏えば怪獣に、人形の服を着用すれば人形に。
(すべては演技だ)
茶番だ。
そう振る舞えば、模倣していれば、いつか本物になれるのか?
じゃあ人間の衣服を着て、人間の演技をしていればいつか人間になれるとでも?
(けど、人間らしい演技って何なんだ)
考えてから、この景色に今いない存在、乱数の知るかぎりでもっとも人間らしくない生き物を乱数は思い出した。
(誰にでも優しく、誰の命も助け、困っている人に手を差し伸べて、誰かのために生きる)
それが人間なら、なんてくだらない。
(俺は人間になんかなりたくない)
人間と過ごす空間はたまに、息が詰まるから。
「……寂雷に会いたいなあ」
思わず言葉が漏れる。左馬刻と一郎と目が合う。
「夕方には来るって、寂雷さん」
「知ってるよぉ」
「乱数てめえ、まさか先生にもさせる気か」
「あはは、それも面白いかもね」
人間はつまらないことで庇いあって寄り添って争って憎みあって泣いて喚いて悲しむ。
人間は異物をけして受け入れない。
徹底的に排除する。
(だから俺と同じで、お前は人間になんて絶対なれないんだよ、寂雷)
一郎の変身用のスペースを作りながら乱数は心内で呟いた。
会いたいという気分だけは、なかなか消えそうになかった。



(了)

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