(逃げないと)
と、思ったときには、走っていた。地面を蹴る。体が前に進む。
白い息が視界を覆う。走る。
(コート、忘れた)
でも逃げないと。追いついてくる。
まるで初めて訪れた場所みたいだ。ハンバーガー屋さんも、雑貨屋さんも入ったことあるのにわからない。
(この前、あの店で見たピアス可愛かったな)
木の花っぽい形してて、赤い。次の曲、和風だから合わせたらいいかも。もうすぐセールになるし、そしたらライブ。
(あ)
追いかけてくる。
両手を伸ばす。アマンダが右手の前で揺れて、ごめんと思って、脇に抱えた。水の中に急に頭を突っ込まれたときと同じで息が苦しい。
(苦しい)
ピアス、どうしよう。赤は綺麗だし、お寺に咲いた花に似てるし、赤の色は
「おい、どうした?」
(くーこーさん)
なんで、ここに? お寺でも獄さんの事務所でもないのに?
「拙僧だってコンビニくらい行くが」
「へ?」
(空却さんて心も読めるんだ?)
すごい、さすがっす、修行……と思ったところで
「修行とは関係ねえよ」
と空却さんは笑った。そうなんだ……。
「手前の顔見りゃわかる」
コンビニから出てきた空却さんは、肉まんに噛み付いて言う。
(顔)
あ、だめだ。急いでマスクをつけると、視界がぼんやり滲んだ。だめだだめだ。泣いたら。約束した。
「なんだ?」
「いや、あの、今メイク薄くて、なんで、えっと」
「あんだけ修行で水被っといて、今更気にすることかよ」
「ビジュアルは、大事っす」
それもそうか、と空却さんは、それ以上何も追及してこない。
「で、獄の事務所かよ」
「うす……」
でも、どうかな。事務所行っても獄さんに会えるかな。相談、わからない。どうしよう。
「あいつ、今日いねえよ」
(またテレパシーだ!)
「出張、っすか」
「そ、出張。あいつ、金のためならどこでも行くからな」
空却さんは笑うけど、あんまり必要以上に仕事でナゴヤから出たがらない獄さんが出張するってことは、わりと一大事ってことで、たぶんそれは空却さんもわかってる。
「つか、寒くねえの」
「さっきまで走ってたんで、あんまり……」
「ふーん」
空却さんは唸ってから、今度は餡まんにかぶりついている。小動物みたいだな……とこっそり思ったけど、これはバレてない。
「財布もねえのかよ、十四」
「忘れてきたっす……」
アマンダだけか、と空却さんはアマンダに挨拶する。手前も大変だな、とか何とか。空却さんはアマンダに優しい。
「で、何かあったのか?」
「ええ?」
野良バトルとか、と空却さんは続ける。ディビジョンバトルに出場するって決まってから、確かにいろんな人に声かけられることは増えた。けど勝負を挑まれたことはないし、バンドの宣伝にもなるし、そのままファンになってくれる子もいて嬉しい。
「空却さんは、野良バトルしてるっすか?」
「たまーにな」
ま、獄のやつが手、回してるからとそんなにはない、と言われて、吃驚する。
「別に、拙僧は構わねえっていったんだけどな。業務に差し支えるとか何とか」
「獄さん、かっこいいっすね……」
あー、あれだ。ツンデレってやつか、あれが、と空却さんは謎の納得をしている。マンガとか読まなさそうなのにな、空却さん。
マンガ……なんだっけ、練習中に入ってきた人、対バンしたバンドのギターの従兄弟の友達の兄の同級生って人……誰かの知り合いぽかったけど……はーちゃん、初対面だけどあいついるなら、ドラム叩きたくないって嫌がってたけど……バンドに興味あるって言ってて、ずっとマンガ読んでたけど、休憩中に突然声かけてきて。
(なんだっけ)
「おい、十四?」
「……はい、っす」
空却さんの声はクリアだ。水の中でもよく聞こえる。いつか歌ってくれないかな、バンドで。でもディビジョンバトルあるから、無理か。いけると思うんだけどな、自分とツインボーカルとか。
「空却さん、バンド興味ないっすか?」
「おい、拙僧をスカウトしてんのか」
根性すげえな、と空却さんは笑う。
「拙僧にゃあ似合わねえよ」
「そんなこと」
ないと思うけどな。空却さんの声、ずっと聴いていられるし、リズムも好きだし、作詞とか。
なんだっけ。
(昔虐められてたんだって、お前?)
妹の友達が同中で、とピンク黄色緑青に分かれた雑誌を片手に、名前も知らない人は言う。じろじろと胸を見てくる。誰だろう、この人。
自分はなんて答えたんだろう。泣かなかったことだけは確かだ。
「ほれ」
目の前に温かい何かが、と思ったら、チーズまんの切れ端だった。
「そろそろ冷える」
「ありがと……ゴザイマス」
名前も知らない人は、なぜか中学時代の自慢話と延々と続けてきた。昔は悪かったとか、同中の先輩がゾクとかなんとか。
(で、俺と付き合わねえ?)
(でって、何?)
手を伸ばされる、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。払ったら睨まれた。
「空却さん、は」
声をかけたら、空却さんはこっちを見た。チーズまんをちょっとずつちぎって食べている。
「好きな子、に告ったりとか、付き合ったりとかするときって、優しくしてますか?」
「はあ?」
拙僧は恋愛相談は不得手だぞ、と空却さんは首を捻る。
「フツー優しくするだろ。嫌われてどうすんだ」
「えへへへへ……はは、フツーはそうですよね。そうだ」
あの名前も知らない人、やっぱりおかしい人だったんだ。はーちゃんは正しかった。急に飛び出したけど、荷物どうしようかな。
携帯もお財布も全部スタジオだ。
(ごめんね)
「下心あるしな」
「し、下心ぉ!!!」
「何、変な声だしてんだ」
「いや、でも、空却さん誰にでも優しいじゃないっすか。全人類に! 下心とか空却さんにあるんだったら、そんなの、そんなの」
「おいおいおいおい、落ち着け」
だいたい何だ、全人類って。空却さんは呆れてるけど、呆れてるけど!
空却さんは、告白を断られた後に、嫌なことなんか言わないし、チーズまんもくれるし、アマンダにも優しいし。
(昔、お前のこと虐めてたやつらってさ)
さよなら、名前も知らない人。
(案外、お前のこと好きだったんじゃないの?)
(つか、今女の方がツエーじゃん、虐めとかないだろ)
言った顔がすごく汚かったことだけは覚えています。さようなら。
「……空却さんの彼女さんて幸せになりそうっすね」
「どうかねえ」
空却さんは空を見上げる。端っこが紫の空には星が一つ、二つ。
「拙僧が理想が高いらしいからな」
「そうなんすか?」
おおよ、と空却さんは笑うし、笑った顔が可愛くて、汚い顔がどこかに行く。
浄化される。
「なんせ、身の丈は一丈六尺、足の裏が平らで、身長と両手を広げた長さが同じ……まあ、まだいろいろあるが」
「この間言ってましたねえ、お釈迦様の話」
一昨日、お寺で聞いた話を思い出して言うと
「よく覚えてたじゃねえか」
と、空却さんはチーズまんをもう一切れくれた。チーズの糸が引いたまま、受け取る。温かい。
空却さんは、いつも、本当に優しい。
(了)
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