※独歩さんに元彼(モブ)がいます
※一二三の異性恐怖症について独自設定等があります




段ボール箱を跨ぎ、観音坂独歩はベッドに腰掛けた。足の裏に張り付いたレシートを剥がし、ゴミ箱に放る。
ひらひらと紙は落下し、すでにこんもりとなったゴミの小山の上に引っかかった。
さっぱり片付いた気がしないのは自分が疲れているせいだろうか。
「独歩ぉ、片付いてるー?」
入ってくるなり伊弉冉一二三が「うわ、朝と変わんなくね?」と笑い転げてくるから、どうやら自分の気のせいではないらしい。
「俺は片付けすら満足にできないのか……!」
「いや、片付けってかーなーり、気力使うんだって」
台所は俺っちがやっとくからさ、と一二三の笑顔は眩しい。
「それによーく見たら、本棚の本詰め終わってんじゃん」
「まあな……少しずつでもやっていかないと」
文庫本の入った箱を一二三は優雅に回り込み、避けた。
「全部本だと重いっしょ。半分服にしないとなー」
「そうだな、引っ越しの人の腰に負担がかかっちゃうもんな」
「腰やっちまうとキッツイからな」
弾むような動きで一二三は独歩の隣に座る。大きく開いたニットの胸元から休日に一二三が使うシャンプーとアロマの匂いがほのかに漂った。左腕のガーゼが痛々しい。
「体の方は大丈夫なのか?」
「変な動きしなきゃ大丈夫。跡も残んないってさ」
「そうか、ならよかったよ」
「軽傷で済んだのも独歩のおかげだし」
「お前の行動に慣れてるだけなんだが」
「キャハハ、もーしーかーしーてー照れてる?」
頼むからもうちょっと落ち着いてくれ、と独歩はぼやく。一二三の嬌声を背に再び段ボールの前にしゃがむ。
引っ越しの準備をするのは初めてではない。しばしば独歩は住居を変えている。大学入学時も、一二三と同居を始めたときも、それから一二三に変な男が付き纏ったときと、店の客がエスカレートしたときと……。今回だって女性客の一二三への執着が元だ。
引っ越すきっかけはだいたい一二三だった。
(私用だから引越休暇は取れないけどな)
まあ今回は相手が代金を払ってくれるだけマシなのか、と独歩は考える。それと自分達の住所を不特定多数に晒すような行為をしていない点も。
「うわ、これ実家近くの書店のじゃん」
物持ちいいなーと箱の中身を一二三は検分している。購入時にかけられたクラフト紙のカバーには書店の名前が印刷されている。
「外さないの?」
「痛むだろ」
「懐かしー、海に行く話だろこれ」
「よく覚えてたな」
十年以上前に折られたクラフト紙の袖は白く毛羽立っている。
淡々と、しかし美しい文章で綴られた眩い話。物語の中で主人公は恋人と一緒に人を殺し、埋める。
文庫本の丸くなった角を一二三は撫でる。爪先に施された銀色のラインは夜の海に光る波の綾模様みたいだ。
「でもハッピーエンドなんだよな、これ」
「そうだったか?」
「そ、そ。俺っちびっくりしたんだよ。完全犯罪じゃんって!」
ハッピーエンドは完全犯罪。相変わらず、一二三の言葉はわかるようでわからない。
クローゼットの中身を確認せずに独歩は本の上に積む。
「あー、せめて畳めよお。皺になるだろ」
一二三が足をばたつかせる。このまま部屋にいる気らしいと独歩は察した。昨日のうちにあらかた一二三の部屋は片付いていたから、工数の余裕があるのだろう。
「着る前にアイロンかけたらいいだろ」
「とかなんとか言って、会社の服しかかけねえじゃん。アイロン」
あ、燃えるゴミの日は明後日だかんな、と一二三は付け加える。
「それまでにまとめないとな」
「資源ゴミは水曜日だよん」
「わかってるよ」
会社にも趣味が引越という同僚がある。会社に行きながら、よくそんな気力を使う行為ができるものだと独歩は感心した。もしかしたら自分だって総務部の人間からそう思われている可能性はあるのだが。
「……ごめんな、独歩この家気に入ってたのにな」
「まあ家を変わると荷物の整理にはなるよな。いい機会だから服とかも買い直してもいいかもしれないな」
手持ちの服は学生時代から就職した時期に購入したものが多い。一二三と二人で、と独歩は記憶をひっくり返す。まだ一二三を守る鎧が、成しきっていない時分の話だ。
一二三と精神の柔らかい部分を守るためのパーツとしての衣服を、化粧品を、アクセサリーを、一つ一つ選んで行った。この行為は結局、触れてはいけない部分を剥がし続けているだけだ、余計に一二三を傷つけているのではないかと思いながら。
きらきらと輝くライトに照らされてデパートの鏡に映る一二三はそれでも綺麗だった。最初に会ったときと同じくらいに。
「まじで? 引っ越ししたら買いに行っちゃう?」
「それもいいかもな、今の流行りはよくわからん」
「やっりぃ、久しぶりじゃん。独歩と買い物」
けど、まずは箱詰だな、と一二三は急に真面目な顔になる。







一二三が男性恐怖症になったのは高校の頃だ。そのときに独歩は、この世界には男性がひどく多いのだと気がついた。
通学途中にも学校にも塾にもコンビニエンスストアにも男性は存在した。
そして一部の男性はあたかも女性がいないかのように振る舞った。不思議だ、と独歩は思った。不思議だと思いながら異性と交際する自分はもっと不思議だった。








(余計なものを見つけてしまった)
クローゼットの奥から出てきた下着を独歩は服の山の下に忍ばせる。例によって一二三と選んだ下着ではあるが、購入時の独歩には交際相手がいた。サークルで知り合った同級生だった。
一二三は祝福してくれた。
男性を恐怖しながらも友人の交際を応援できる人間なのだ、一二三というやつは。
自分が交際相手に恋愛感情があったかどうかはわからない。ただ周囲に恋人同士が増えてきたこと、その同級生の服に清潔感があったこと、ぼんやりといつか自分も誰かと交際するのだろうな、と想像していたこと、それらを総合して交際を決めた記憶がある。
(デートするんだったらブラジャーとパンツは新しいやつがマストっしょ)
と一二三は言った。とびっきり可愛くてセクシーなのつけて気分上げてこうぜ、と。
一二三に連れて行かれた下着売り場で、自身の胸のサイズが意外と大きかったことを独歩は知った。
それは交際相手にとっても、同じであったらしい。
恋人の胸部のサイズを、気にする人間はとことん気にするのだと独歩は苦さと一緒に知った。
交際相手は気にする側だった。
しかも悪い方に。
(そもそも、他人が俺のカップ数について文句言われるのはおかしいだろ)
その疑問は今をもって変わらない。
交際相手は独歩の下着のサイズを信じなかった。どうやら勝手に見積もり、勝手に納得していたようだ。
彼は独歩が見栄を張っていると言い張った。正直になれよ、と。
それで交際は終わりであった。不誠実な交際の始まりは碌でもない終わり方をするのだと独歩は学んだ。
(この下着、気に入ってたのにな)
ケチがついたせいで、あれから身に着けないままだ。一二三にも悪いことをしたな、と振り返ると、一二三は床に積み上げたままのマンガを読んでいた。元不良が会社に入社し、めきめきと頭角を現していく長編マンガだ。
独歩を手伝ってくれるつもりは皆無のようだ。
(まあいいか)
「そういや、先生には新しい住所連絡するんだろ」
「先生……ああ、寂雷先生か。問題、ないよな」
ストーカー事件で世話になった医師の名前を独歩は反芻する。取引先の医師である神宮寺寂雷は、独歩の主治医でもある。
今回の事件では、随分と寂雷に迷惑をかけてしまった。加害者女性の居場所の調査から、治療まで。頭がますます上がらない。
それに寂雷は特別だ。
「ないない、センセーなら安心っしょ」
一二三の表情に嘘はない。
独歩は安堵する。
寂雷は武装していない一二三が恐怖を覚えない唯一の男性だった。
「つか、今度お礼しないとな」
それは彼の全身から発される穏やかさのせいなのか、それとも。
「……平気なんだな、本当に。先生のこと」
一応念を押すと、一二三は首を傾げた。
「なんだよねー。何でだろ?」
あんまり男の人!ってカンジじゃないからかも、と一二三は続ける。いい匂いするし、髪もチョー長いし。
「確かに、先生は性別を超越していらっしゃるよな。あんなに凄い方なのに全然偉ぶってないし」
「だよなー、人格者ってあんな人なのかも」
日頃おちゃらけている癖に一二三の寂雷評は的確だ。
海よりも深く、首が床にめり込む勢いで独歩は頷いた。
「何十年か後にはきっと先生は、伝記に載っていらっしゃると思うんだ」
帯の惹句は「人のために尽くす名医」だろうか。いや、もっと寂雷に相応しいコピーがあるはずだ。日本、いや世界中の人間が手に取るような謳い文句が必要だ。できることならその伝記の販路開拓に関わりたい、と独歩は願った。
「そっか」
妄想する独歩に一二三は何事かを悟ったようだ。だからかもな、と言う。
「俺っちが男性……のセンセーが怖くないのってさ、独歩が心底寂雷先生のことを信頼してるからかも」
「はあ?」
またもや一二三の言葉はよくわからない方向に繋がっている。自分の寂雷に対する信用がなぜ一二三に影響するのだろう。
「あースッキリした。おっし、残りも片しちゃおっと」
「お、おう」
じゃ、独歩ちんも頑張れよ。一二三が立ち上がる。
そういえばブラジャーの寿命の目安ってだいたい一年くらいらしいよ、と言いながら。




(了)


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