碧棺左馬刻は夏の嵐のような男だ。遭遇すると、目を閉じて、去るのをじっと待つ。それが一番賢いし、後々振り返れば、それ以外の選択肢なんてなかったのがわかる。
そう形容される左馬刻の評価を、しかし山田一郎は実感したことはない。嵐の中で目を閉じて、祈りながらすべてが終わるのを待つ。果たしてそれで何が守れるというのだ?
今この場の、中王区の壁のぎりぎり近くにあるこのホテル、この一室の方が一郎にとってはよっぽど嵐だった。自然の花よりも強い香水の香、重ねられたレースとレースが作る衣ずれの音、会場を流れるピアノと少女のかぼそい声で構成された音楽は来客の話し声でほとんどかき消されている。
黒い艶やかな石の舞台の上を、同じ距離ずつ離れてまったく同じ速度で少女達が歩いてくる。天井のライトが少女達の影を放射状に伸ばした。スカートが広げるとキラキラとビーズが輝いた。三郎の貰ったメダルの方がよっぽどきれいだ、一郎は思う。二郎の試合の動画を見ている方がずっと心が躍る。
つまりはこの部屋は自分がいるべき場所ではないということだ。
「どうだよ?」
いつまでここにいるんですか、そういうつもりで隣を見たのに、左馬刻は問うてくる。
「タッパはお前の方があるな」
「なにがすか」
そもそもこの空間の客の九割九分が女性だ……または女性の格好をしている。部屋の数少ない男性である左馬刻はなんの遠慮もない。投げかけられる非難めいた視線も無視している。
「お前も似合うんじゃねえの、ああいうの」
「……着ないっすよ」
「なんでだよ。ああいうひらひらしてキラキラした服、女は好きだろ」
「人によるっすよ、そういうの」
合歓であれば似合うだろう。あの繊細なレースで覆われた、膝から広がる美しいラインの服は。彼女も嫌いではない、だろう。たぶんその次に登場した、ケーキみたいなドレスの方が気に入るだろうけど。
「俺はそういうの、いいです」
「遠慮するなって」
いや、遠慮じゃないっす、と一郎は言い返すのを止める。壁によりかかって、腕を組む左馬刻はレザーのジャケットにデニム、どう見ても現在中王区の外に大量に発生している不良青年だが、苛立ちを隠そうともしない眉間の皺も、それでいて憂いを帯びたまぶたの形も、どこか他人に侵せない品があった。量販店で買った服を着た一郎が、ホテルの人間にも、ショーの関係者にも咎められなかったのも、そのせいだろう。
「まあ、目的は買い物じゃないですしね」
顔を近づけて確認すると、「わかってるよ」と左馬刻は答えた。第一、この催しの存在を仕入れたのも、侵入する手段を用意したのも、左馬刻なのだ。
「前のバトル、先生には世話になったしな」
つか、何でフケるんだ、あいつ。と左馬刻は続ける。
「あんだけ、絶対来いって俺様じきじきに言ったのによ」
「いや、仕事あるって断ってましたよ」
左馬刻との身長差は十センチ近い。ルールのように、左馬刻はわずかに身を屈め、一郎は背伸びをする。
「一度も顔を見せに来ねえ」
煙草の匂いがする。それはこの会場には、あきらかに似つかわしくなく、だが気つけ薬としては恐ろしく効用がある。
この男は現実だ。
「流石に寂雷さんには連絡くらいしてるんじゃないっすか」
「わけわかんねえ女だが、そこまで薄情じゃあねえ、か」
左馬刻の肩越しに、一郎はもう一人の男、神宮寺寂雷を観察する。長い髪を一つに束ねた寂雷は、白衣姿だ。姿勢がよいせいか、ありふれた白衣はオーダーメイドのコートのようにも見える。身動ぎもせずに穏やかな視線をステージに注いでいるが、目の下には疲労の色が漂っていた。
あいつ、と左馬刻が呼ぶのは、一郎と同じチームに所属する飴村乱数だ。よく笑い、よく喋る。幼い容貌に比して高いスキルを有する彼女は、なぜか異様に同性を惹きつける人間だった。乱数の参加するバトルは、女性のギャラリーの数が一気に跳ね上がる。
玩具屋の人形みたいな顔をしてるからだろうか、と一郎は考える。ガラスケースに入って応接間に飾られる人形。金貸しの回収業で吐き気がするほど見た愛らしい姿。乱数が粗野な男を吹っ飛ばす様は確かに爽快ではあった。
本業はデザイナーだ。
僕一人のってわけじゃないんだけどね、と前回のディビジョンバトルに出れない理由を乱数は説明していた。今の仕事はなかなか大事なお客さん向けだから、失敗はできないんだよ、と。
「そういえばこれって乱数には教えているんですか」
一応な、と左馬刻は頷く。
「留守電聞いたかは知らねえけど」
「二人のことに口出しすんのも、野暮かもしれませんけど」
「言うじゃねえか」
左馬刻が口の端を曲げて笑う。身惚れた瞬間に、ステージの明かりが一度消え、また光る。人工的な甘い香りがさっと吹き、部屋中を支配する。寂雷の喉が動く。部屋中の視線が熱を帯びて集中する先には、淡い色の髪、陶器じみた肌、ベールの間から覗く青みがかった目。子供のような容姿だが、一郎よりも歳上だ。白い泡のようなドレスを纏い、飴村乱数がステージの上に立っていた。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「電話しただろうが」
「ショーの直前に電話するのって、遅すぎ。左馬刻ってデートのときもそうなのかなあ」
手袋に包まれた人差し指を乱数は突きつけてくる。
「ね、一郎」
「いや、あの、それは」
「あはは、照れてるんだ。可愛い」
可愛い、可愛いね、と乱数は重ねて言う。マイクも持っていない癖に。ショーは終わったが、乱数はドレス姿のままだ。ボリュームのあるスカートと背後の四角いアーチが相まって、白い花の詰まった箱の中にいるみたいだ。
「一郎は、こういうの興味ないのかなあ」
「ねえよ」
「ま、着たい服を着るのが一番だよん」
似合ってるよ、その服も。と乱数はことばを紡ぐ。
「けど別の自分になってみたかったら、僕のとこに来なよ。僕のお人形としてとびきり可愛くしてあげるから。左馬刻が一郎から離れらなくなるくらいに」
一郎の衣服のチャックを乱数は撫でる。ホテルの中庭には、嵐はない。
刈り込まれた茂みに、調和を意識しすぎた植物が配置されている。
「お前、デザイナーじゃなかったのかよ」
「そだよ。このドレスも僕がデザインした特注品。世界に一着しかない。クライアントがどうしても僕にお願いしたいって、一回会ったたけなのに、わざわざ指名してくれてね。……ただ直前でモデルのお姉さんが体調悪くなっちゃってね。サイズが合うのが僕だけだったんだよねー」
乱数が芝生の上でくるりと回ると、地面に絹の泡が立つ。草木を模したレースに覆われた背中が、鎖骨が、現れては消える。裾がふわりと浮かぶと透明な靴の先端で桃色の爪が光った。
「おい、さっきからなんで先生、一言も喋らねえんだよ」
旋回の途中に左馬刻が声を潜めて聞いてくる。
(あんたも気を遣うことがあるんだな)
おかしくなって、一郎は下を向く。
「大丈夫っすよ、寂雷さん、ずっと乱数のこと嬉しそうに見てますから」
「なら、いい」
(やっぱり好きな相手の……こういう姿って見たいもんなのか)
寂雷の表情が一郎の胸中に疑問を発生させる。
一郎の身近には、互いに思いやり、永遠を誓い、家庭を持った人間がいない。永遠を誓えると思う相手は、血の繋がった弟達だけだ。モデルケースがないから、一郎には幸せな家庭がわからない。
(寂雷さんと乱数、いつか結婚するんだろうか)
そうであればいいと思う。二人が幸せな生活を送れば、一郎は幸せな家庭というものを、一般的な家族の存在を信じられる気がした。
「あーあ、目が回っちゃった」
「勝手に回ったんだろうが」
「花嫁さんて大変だよね、僕尊敬しちゃうなあ」
でもさ、でもさ。と乱数は続ける。
「結婚してないのに着ちゃうと、自分のは遅れるって言うよね」
「んなもん、先生に聞けよ」と左馬刻は今度は大きい声で言う。
「え、そうなんだ?」
「……責任は、とります」
「あはは、責任。やっぱり寂雷って面白いよ」
「とても綺麗だと思います。綺麗です。似合ってますよ、乱数君」
珍しく早口で寂雷は続ける。
「もー褒めるの遅いよ。左馬刻といい、寂雷といい、遅いのがブームなの?」
詰る口調だが、乱数は笑っている。
「そうだ、せっかくだから写真撮ろうよ。この服、もうすぐ脱がなきゃいけないからね」
「俺らはいいわ」
な、と念を押す左馬刻に一郎は頷いた。
「左馬刻、気が利くじゃん。馬の癖に」
「ああ?」
「お姉さーん、写真撮ってほしいな!」
カメラを持つ女性に乱数は手を振る。
「そうだ、一郎。そこの花束取って」
噴水の側に置かれた花束を一郎は拾う。白い生花を染料で染めて作られた薄桃色の薔薇だ。茎には、痛くないようにか金色の柔な棘が本物の代わりに嵌め込まれている。
白衣の寂雷と、ウェディングドレスの乱数に一郎は近づく。
二人の話し声は静かだ。自分と左馬刻とは真反対に。
「乱数君、このドレス、もしかして子供の」
「ああ……寂雷らしい心配だね。君らしいや、本当に。そういうことする親もいるってのは僕も知ってるよ」
「それだけ我が子が、大事だったと、愛していたということなのでしょう」
寂雷の声には悲しみが混じっている。未婚で死んだ子供にドレスを着せる話は一郎も耳にした覚えがあった。式の真似事を行うことさえある、と。
「安心して、注文したのは確かに母親だけどね」
寂雷の髪を手袋の指が滑っていく。
「このドレスを着る予定の子はピンピンしてるし、生きてるよ」
「そうですか、それを聞いて安心しました。余計な心配でしたね」
写真に写り込まないように一郎は二人から距離を取る。参列客の位置の左馬刻と並ぶ。左馬刻は、噴水にかかる虹を気にしている。花婿が花嫁を抱き上げる。いつかこの二人の、本物の式に出席することもあるかもしれない。そのとき隣にこの左馬刻はいるのだろうか。
夏の嵐は、いずれ去る。
乱数が大きく腕を振った。ベールがさあっと割れて、毒を隠す果実の色をした唇が出現する。
皆が宙を舞う花束に目を奪われているときに、唇の動きを一郎は視認した。
己の口の動きが乱数の口の形をなぞる。
(なんだ?)
音がことばになり、意味を結ぶ。
(女の方は元気さ……今のところはな)
考える間もなく、投げられた花の死体は一郎の腕の中に、運命で決まっていたみたいに収まった。
(了)
index