テールランプの光が道路を滑っていく。それから排気ガスの臭い、エンジン音。繁華街とは離れつつあるこの場所であっても、毎日どこかでパーティーをしているかのようにシブヤの街は賑やかで騒がしい。
「遅くなっちゃったね」
神宮寺にまとわりつくように歩きながら、飴村が言う。通行を邪魔するようでいて、その足捌きは絶妙に神宮寺の進路を避けている。
「衢君に連絡しておきましょう」
「そうだね、もう夜になっちゃった」
飴村がステップを踏む。ロの形の歩道橋の裾隠し板に書かれた落書きの前を横切り、橋台に飛び乗る。
飴村はいつもと変わらない。いや、最初に会ったときからこうだ。
「驚きましたね、今日は」
「そうだねっ。でも、最近の改造マイクってよくできてるよね」
まさか君と僕を拘束できるとはねえ、と緩やかな段を上がりながら飴村は続ける。
「イチローとサマトキにも教えてあげた方がいいかもね~」
「それは彼らが使用していたマイクは正規のものではない、可能性があるということかな」
「じゃないのかなあ。あいつらのスキルと精神力と釣り合いが取れない」
「すみません、乱数君」
謝ると飴村は階段に足をかけたポーズで止まった。
「なんで? なんで寂雷が謝るの?」
「尾行されているのには気がついていたんですが」
ラップバトルに参加するようになってから、人の目が加速度的に増えた。目的がわからない付き纏いも、声かけも。
「なんとかできると思っていたんです。自惚れでした。今日はマイクもないのに」
結果として飴村を危険に晒してしまった。神宮寺の謝罪に
「アハハハハ、謝ることないよ」
真面目だなー寂雷は。と飴村は笑った。
「あいつら、ラップだけじゃなく尾行もへたくそだったし」
「では君も」
「だからおあいこ。帰ったら一緒に衢に怒られようよ」
靴底がコンクリートを蹴る。軽やかに高欄に着地する。
「危ないですよ」
「大丈夫だって。落ちたことないんだ」
単純に、度胸があるというだけではないのだろう。するすると細い道を歩く足取りは地面の上にいるときと同じだ。人工の明かりの作る鮮やかな影が飴村の体にぴったりと沿っている。
飴村の周辺だけが月の世界みたいだ。夜には零度を遥かに下回る世界。生身では息もできない世界。
「そういう問題じゃないと思うよ……一回でも落下したらそもそもそんな行動はできない」
「そうかなあ?」
ほら、と飴村が神宮寺に向けて指を伸ばして動かす。一回、二回、と振ると、空っぽだった掌の中に、手品のようにブランド品のデザインを模倣した携帯端末とバイカラーの飴が現れた。
「じゃーん。これは何でしょう?」
「君の好きなキャンディーとさっきの人達の端末、に見えるけど」
「大正解ー!」
正解者にはご褒美をあげるね。うやうやしい口吻とともに、飴村は大げさに一礼をする。飴を口に放り込む。
「そういうのは感心しません」
「じゃあ僕は悪い子だね……なんてね、ポケットにいつの間にか入ってたんだよん」
「そういうことにしておきましょう」
飴村を支える細い足場は善悪の境界線だ。
「あとで返しておくよ……あ、ロックかかってない」
小さい桃色の爪が動く。
「そっかー、撮影するから解除したんだね」
画面をいくつもの映像が横切っていく。
「写真とか動画撮るの好きだったんだねえ」
そうだよね、記念日は大事だもんねと飴村は不思議な納得を示している。
「あった」
これこれ、と神宮寺に今日の日付の写真が差し出される。撮影時刻は小一時間ほど前で、被写体は自分達二人だ。
過去の光景だというのに、つい現実の、目の前の飴村と比較していた。
写真の自分は薄汚れたマットレスに座っている。足の間に飴村は立っている。
「痛くありませんでしたか」
「別に? たいしたことなかったよ」
飴村を後手に縛る紐は黒い。心臓から伸びる大動脈よりも太い、固まった後の血の色の紐。
(嫌な写真だ)
「……寂雷!」
珍しく焦ったような飴村の声が上から降ってくる。
「強く握りすぎだよ。壊れるって!」
「そうでした……ごめんね」
視線で紐は切れない、まして過去の画像のものなんて。過去は変わらないという事実を失念していた己を神宮寺は自覚した。怒りは冷静さを奪う。自惚れも、傲慢も。
「さ、次行こう、次」
飴村の指が、写真をコマ送りにする。自分の前に腰を落とす飴村、顔をよく写すためか帽子は外されている。ガラス球のような目に睫毛が影を落としている。唇が動くが、音はない。自分の顔。初めて見る他人のような顔。飴村。写真の作るフリップブックと一緒に記憶が動く。
……雑居ビルの一室はひどく荒れていた。スナック菓子の袋、けばけばしいカバーの雑誌。周囲から投げられる言葉と同種の卑猥な落書き。立っている飴村だけが清潔だった。
顔を近づけてくる飴村の声は吐息とほとんど区別がつかない。
(何分欲しい?)
(一分あれば充分です)
(いいね。じゃあ三分)
耳元で飴村の微かな声が滲む。砂糖が染み込んでいる甘さで。
(それは、長くな)
いかな、と言う間はなかった。飴村の舌が侵入してくる。ギャラリーの視線の移動を確認し、神宮寺は己の拘束具に力を込めた。視線の誘導は手品の基本だ。誰かが生唾を飲む音がする。よぎる不快さを意識の外に追いやる。目を閉じる。甘い匂い。獣の息。
普段は絡めているはずの指が、ないのが不自然だな、と思ったことは覚えている。そんなことを考えている場合ではないだろうに。
(十秒で)
下唇を噛む前に囁くと、目を瞑った飴村はわずかに頷いた。子供の抱く人形の表情だった。
(マイクは二本、一本は撮影してるやつの後ろのポケット)
同じ手は二回は喰らわない。飴村の喉が動くのと同時に、立ち上がる。手錠が落下する。




「さっきの人達、写真の方が才能あったんじゃないかなあ」
写真の中で夢見るときの顔をしていた飴村は、今は神宮寺の頭上で笑っている。
「ラップは全然だけど、こっちはセンスあるよ。……まあ、モデルが良いから、当然か」
「何か意味があるのかな、こういう写真は」
「どうだろうねえ。僕達があいつらの言いなりでしたって証明したいのかもね」
僕達を支配したって、見せびらかしたいんじゃないのかなと飴村は言うが、ぴんとこない説だった。
「私にはよくわからないけど、そういうものなのかな」
「……そうか。そうなんだ。やっぱり寂雷は面白いよ」
飴村の右足先が高欄を掠める。上着が空気をはらみ、膨らむ。神宮寺の目の前で反転する。リバースターン。飴村の体は滑るように高欄の上を進んでいく。
「乱数君、そろそろ降りないと危ないよ」
空気を抱いて踊る飴村の右手の中で他人の携帯端末が点滅する。かちり、と満月の形の飴を奥歯で砕き、もしもし、と通話ボタンを押す飴村は片足立ちだ。
「もしもしハチ公だよ~。元気かなっ。今ね、僕はご主人様を……あれあれ?」
「やりすぎですよ」
「切れちゃった」
「私達のスケジュールに詳しかったですね、彼ら」
「んー、僕ら有名人だからね。ま、寂雷は自覚してないだろうけど」
(どうして彼らが今日の私達がマイクを持っていないのを知っていたのか、行く場所まで把握していたのか……もしかして君はわかっているんじゃないのかな)
あわいでステップを踏む飴村に投げる言葉を神宮寺は吟味する。
「今日寂雷の家、泊まっていい?」
「……それは構わないけど」
「やった! 寂雷は元気だよね?」
「乱数君!」
跳ねてバランスを崩す飴村の体を神宮寺は受け止める。飴村の体の遥か下をトラックが通過する。ぐにゃりと力が抜けた小さな体から、黒い帽子がゆっくりと落下する。
「危なかったねえ」
「君の体のことですよ」
「それも、そうだね……」
壊れ物を扱う手つきで神宮寺は飴村を着地させる。
「着陸成功~」
宣言して、飴村は踵を持ち上げる。
ざらついたマットレスに座らされたときの記憶よりも、体温が近い。
熱源の接近を今度は目を伏せて神宮寺は感知した。視界の片隅で飴村の華奢な、骨のような指がミシン目をなぞるように正確に、先程のビルでの記録を消去していくのを確認して、腕に力を込めた。



(了)

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