ターミナル駅の徒歩圏内にある公園の中には、積み木で作られたみたいな建物が隠れるように立っている。
受付の女性は神宮寺の記憶の姿とまったく変わらない。黒のスーツに合わない視線、頭頂で一つにまとめた髪。料金を支払って建物の中に入った。
すべて記憶の風景と同じだ。壁紙のライムグリーンの色合いも灰色の薄手の絨毯も。
角を曲がると、壁紙は花の模様が浮かぶ黄色になり、床を覆う織物は毛足の長い赤い敷物に変わる。上でステップを踏んでも音が響かないほどに厚みのある絨毯に爪先が沈む。
温度も変わる。突き当たりの部屋からは、ひんやりとした空気が流れてくる。
恐ろしいほどに数ヶ月前と変わっていない。
自分がここを訪れたのも患者である子供の付き添いの帰りであるというきっかけまでも変わらない。
だから、突き当たりの部屋にある展示物も前と同じで、もしかしたら彼女もいるのかもしれない。
ぼんやりと神宮寺は以前の訪問に思いを馳せた。あの日も晴天だった。
その部屋の天井は神宮寺の身長よりも遥かに高かった。
肌寒い室内は存外に広く、順路が曲がりくねっているせいもあって入り口からは全貌が把握できない。
展示されているのは動物の標本だった。
入り口付近の巨大な鳥。見事な毛並みの肉食獣。水槽の中には蛙もいる。
(これは……)
生前の姿を彷彿させる展示に神宮寺は目を伏せた。額縁には薄青の翅のチョウチョが四匹飾られている。
リンネ式の階級分類、学名、西暦……どの標本の隣にも金属のプレートが設置されていた。
花の蜜を吸う鳥と果実を食む鮮やかな鳥の間を抜ける。
頭上で伸びる枝は弧を描いてしなり、夥しい数のリョコウバトが羽を休めていた。
枝の隙間を回遊するのは魚の群れだ。
銀色の腹、何も映さないガラスの目と目。
悪趣味な動物園の中央にあるのは檻だった。檻の正面にはキャスターのついたレザーの椅子がぽつんと置かれていた。
椅子には微動だにせずに、少女が座っていた。
(なぜ)
君がここに、と思ったのと、椅子が回転したのはほとんど同時、「寂雷だ」と彼女の言葉は続き、静寂は破られる。スカートの裾が翻った。
「おっひさー」
「飴村君」
「すっごいグーゼンだねえ。……なんか用事あったの?」
「たまたまです。驚きました」
「すっごいよね、ここっ」
国の施設ってお金持ちなんだね、と飴村は感心している。無邪気な表情に、飴村との遭遇に驚いたとは神宮寺は言いそびれてしまった。
「患者さんの付き添いで来たんです」
「お休みなのに仕事してるんだ? 患者さんはいいの?」
「はい。親御さんがいらっしゃるまでの付き添いです」
「そうなんだ」
椅子をもう一回転させてから飴村は立ち上がる。
「じゃあ今は暇なんだね」
「はい。飴村君はお仕事ですか」
「も、終わったよん」
主が不在の椅子がくるくると回る。
今日の飴村は服装が平素と違う。黒いワンピースに身を包んでいるせいか、ひどく華奢に感じられた。
「見て、寂雷」
飴村が檻を指した。
「オオカミだって」
中型犬ほどの大きさの獣が格子の向こうで低く身を伏せている。
……イヌ科……イヌ属……百年近く前を表す四桁の数字……。
「この部屋は絶滅した生き物を飾っているんですね」
「そうなんだ?」
「この部屋にいる魚も、鳥も、虫も、今はこの世界にはいません」
「寂雷は物知りだねえ」
近くで見ると飴村の服は、様々な種類の黒い布を組み合わせて作られているのがわかった。材質や織り方が少しずつ違っているせいか、同じ黒のはずなのに光沢はどれも異なっていた。
「オオカミもいないんだ」
「この国にはいませんね」
「ふうん」
飴村が甘い息を吐く。
「ね、会いたい?」
「生態に興味はあるけど……会いたいというのとは少し違うね」
「よくわかんないなー。興味あるなら会ってみたいんじゃないの?」
飴村は首を傾げている。
「人間と動物ですからね、接触したところでお互いの幸せに繋がるかはわかりませんよ」
絶滅した生き物が本当に絶滅しているのか真実はわからない。
が、たとえ生きていても人類に発見されてしまったら、格子の奥に閉じ込められて一生を終える可能性だってある。
外敵のいない環境ではあるけれど、それは本当に幸福なのだろうか。
「現に人間のせいで絶滅した生き物もたくさんいますから」
「そっかあ。僕は見てみたいけどなー、生きてるオオカミ」
飴村の鎖骨を覆うレースに神宮寺は視線を落とした。白い肌を透かすレースは、丸が連なっている。まるで目玉だ。レースと布地の間には真っ黒いバラの花が安全ピンで止められていた。
「寒くないですか、飴村君」
「んー、確かにちょっと冷房強いかも」
上着を渡すと飴村は不思議そうに見上げてきた。
「寂雷は寒くないの?」
「私は大丈夫です」
「じゃあお言葉に甘えちゃおっと」
神宮寺の上着の裾が飴村の足首ではためいた。
「あったかーい。ありがと、寂雷」
「風邪を引かないようにして下さい」
「ねえ、寂雷」
飴村はオオカミの檻を見ている。
「このまま僕達ここに住んじゃっても面白いよね」
「見つかって、しまいますよ」
「でもねでもね、この建物にはいーっぱい部屋があるんだよ。誰か来たら隠れちゃえばバレないよ。この部屋だって隠れる場所たくさんあるし」
「飴村君」
「それともさ、いっそ展示品のふりをするって手もあるよね。じっとしてれば誰にも見つからないよ」
「飴村君?」
意図がわからず神宮寺は飴村の名前を呼ぶ。彼女が不可思議なことを言い出すのには、慣れっこだったけれど。
戸惑っていると飴村は吹き出した。
「なんてね」
「冗談ですか」
「あはは、トーゼン」
絡まる飴村の腕を神宮寺は引き寄せる。
「ここにずっといたら退屈でたまらないよ。僕三日で飽きちゃいそう」
「飴村君は賑やかな場所が似合っていますよ」
心の底から神宮寺は言った。キラキラと光る場所で楽しそうにはしゃぐ飴村が、神宮寺は好きだった。他の女性と寄り添っている姿であっても。
「帰りましょうか、そろそろ」
「そうだね……」
飴村が頭を振ると胸元のバラから花弁が落ちた。
「あーあ落ちちゃった。せっかく、おねーさんから貰ったのになー」
「染めてるんですね、この花」
「寂雷は花にも詳しいんだ」
「そうでもないですよ。ただ黒い花は自然には存在しないので……」
「しないの?」
「はい。しません」
花弁を拾う飴村と視線を合わせて神宮寺は頷いた。
かつて不可能の別名でもあった青いバラは、とうにこの世界に顕現している。遺伝子をいじった結果、不可能は克服された。
青の花と黒の花は違う。黒の花は昆虫に視認されない。自然界では生きていけない花だ。
「寂雷、寂雷はさ、外に咲いてるお花の方がキレイだって思うかな?」
「そうですね」
黒い目玉のレースと飴村の視線を神宮寺は受ける。できるだけ自然に次のことばを紡いだ。
「私は、自然に咲いている花が好きですよ。ありのままの姿の方が生き生きとしていると思います」
「そう」
大人げない回答だ、と後悔したが飴村は笑顔のままだった。
「帰ろう、寂雷」
カフェとか寄って行こうよ、と飴村の声のトーンは変わらない。魔法を使うときみたいに踵と踵を打ち鳴らす。指の間では花弁が潰れていた。
部屋に近づくにつれて漂ってくる騒がしい空気を神宮寺は感知した。どうやら数ヶ月前とは状況が異なっているようだ。
展示室には先客がいた。
子供の集団だ。全員ベレー帽を被り、お揃いの制服を着ている。押さえ切れていない高い声が空気をかき回していた。
子供達の後ろには引率役と思しき女性が仁王立ちしていた。
邪魔にならないように神宮寺は静かに部屋の隅に寄った。カエル、ハト……それから前回よりも展示品が少なくなっているのに気がついた。
(おや)
鳥が齧っていた果物はそのままの形で残っている。まるで鳥が動き出して、どこかに飛んでいってしまったみたいにそこだけがぽっかりと空いている。
インコだけではなく、魚の数種類とチョウ、それに肉食の獣も数体が消え失せていた。
それにどのプレートにも以前にはなかった数字がある。分類と学名、絶滅した年の記載の下に追加されているのは、赤文字で記された今年の暦だ。
子供達が女性と一緒に入り口に向かっている。
ねえ、と一人が尋ねる。いつあのお魚さんには会えるの?
少し待て、と女性が答える。
楽しみだね、別の子供が言う。
いつか恐竜にも会えるよね。
全員が出ていくのを神宮寺は待った。
部屋の中央にある椅子には、やはり飴村はいなかった。革張りの椅子は、彼女の事務所にある椅子と同じ形だ。左手で背もたれに触れて、神宮寺は椅子の後ろに設置されたプレートに目を止めた。そこには分類も学名もない。ただ、二年後を表す数字だけが黒々と印字されていた。
(了)
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