(一)逃げない水
病院の中は外界の灼熱と隔絶されて、冷えていた。漂う消毒薬の匂いと、幾度も殺菌された白い壁と天井は、体感温度をさらに下げ続ける。
受付で名前と部屋番号を告げる。前回は見知った顔だったので、患者を興奮させないように注意されたものだが、今日の受付は新顔だ。少し頬を歪められたのは、体臭のせいか。
最後に風呂に入ったのは昨日の昼だった。
知人の家で風呂を借りる選択肢の優先順位は有栖川にとっては、限りなく低い。他人の部屋の風呂は温かく、慣れない匂いがする。湯船に顎まで浸かって掌をひらひらとさせているとだんだんと体の芯までふやけていきそうな錯覚に陥る。
病人は、今日はおとなしくベッドに収まっていた。白のシーツ、黄成りのカーテン、切り揃えられた清潔な爪はしかし、牌を掴み、混ぜるためのものだ。
「よお」
歯がほとんど残っていない口が動く。
「元気そうだな」
今日は賭けるものがない、とは言わない。
皺に囲まれてすぼまった口の中は穴のように暗い。かつて日傘の下で子守唄を吐いていた唇だ。
子守唄には徐々に役の宣言が混じるようになり、親も夫も子供も捨て、仕事も失い、それでも老女の指先では象牙色の牌が輝いていた。すがりつく指の力を吸い付くすように、牌は色とりどりの並びを見せた。
一週間前の逃亡劇を、公園で捕まえた蜥蜴の味を、昨日の新規の台を有栖川は話す。麻雀牌よりも白い床、壁。
「また来るぜ」
坊っちゃん、という単語には煙草くささがいささかも混じっておらず、その響きは有栖川の頭をぴしゃりと打った。わざと遠回りをして、有栖川は病院を出た。
「くさいですよ」
と夢野は表情も変えずに言う。足は水に浸したままだ。
「それも嘘だろ?」
「いえ、本当に臭うんです」
小生が犬でなくてよかったですね、と夢野は続け、たらいの中で水を跳ねあげた。驚くほど白い足には、不揃いな爪がついている。牌ならば、使い物になりはしない。
「乱数にあったら香水かけられますよ」
「勘弁してくれ、鼻がむず痒くなる」
飴村の所有する香水は、彼が愛好する飴玉に似た甘い香がする。マーキングのような、アリバイ工作のような香だ。
着物の裾を捲る夢野の右手の中指のたこを確認して、有栖川は扇風機の前に移動した。
「風上!」
風が前髪を巻き上げる。ブウウウ……ンと、うなる羽根と有栖川は声を合わせる。
やはりあれは気のせいだったのだ。結論づける。寄り道をして病院を出る最中に、中庭に夢野を見たのは、錯覚だ。歳もおそらく同じ頃で、どこか浮世離れした雰囲気も夢野に似ていたが、あの青年の中指にはペンだこはなかった。
思えば、あの青みがかって奇妙に伸びた髪も、目の色も、夢野のものとは全然違う。
皮膚の白さくらいだ、夢野を思わせるのは。
漁村近くには、たまにああいう肌の人間がいる。
夢野の著作を有栖川は読んだことはない。夢野の本はページを開くと恐ろしいほど美しいことばが、切られたばかりのトランプよろしく並んでいるからだ。眺めるだけで、尻がむずむずして賭場に駆け込みたくなった。
それを知っていながら、サイン会に代理出席せよと夢野は言う。
「代打ちか」
「一昨日の五万円と相討ちです」
ならば悪い条件ではない。
夢野を担当する編集者も、愛読者も、夢野がサイン会に出てくるとは信じていない……というようなことを、有栖川は飴村から教えられた。
「なら、気は楽だな」
ビスクドールを期待する人間を、ハイエナが裏切るのはフェアではない。
だが了解があるのであれば別だ。
当日まで夢野が現れるかわからない。それは一種のギャンブルだ。
「そうそう、サイン考えてあげたよ」
これ、と曲線とハートでデザインされた名前を飴村は見せてくる。
「なんだよ、これ……」
「可愛いでしょ」
オネーサンにも好評だと思うよ、と飴村は無邪気だ。飴村や夢野であれば、まだこのサインは似合うだろうが。
「どうやって書くのか検討もつかねえよ」
こうだって、と示される手本は煩雑だ。
この文字を借用書に書いたら、相手は激怒するに違いない。
サイン会は盛況だった。
夢野の著作を渡され、夢野の名前を書いて、短い会話をする。学生らしき年齢層が最も多く、確かにこの歳ならば入れてもらえる賭場もあるまいと有栖川は考えた。
会話の内容は、夢野の現状を尋ねるものが大半で、「原稿中」の一言で片がついた。残りは夢野と有栖川や飴村の繋がりを知っている人間からの疑問だ。
どいつもこいつも同じことを言う。同じ声、同じことば……だんだん人の顔に数字が見えてくる。九、二、一……五、五、三、五、三、……。
(こいつは五)
フルハウスだ。それからツーペア。スペードもダイヤもないから、ストレートフラッシュとはいかないが。
八に受験頑張れよと言い、四に気をつけて帰れよと声をかける。アラシになって、ピンゾロにもなる。滅茶苦茶だ。
次は
(鏡)
鏡だ。
有栖川が右手をあげると、当たり前だが鏡像は左手をあげた。
鏡からは消毒薬と石鹸の匂いがかすかにする。
「誰だ、お前」
ファンです、と鏡は。雪みたいに白い。穏やかな口調は、知り合いの嘘吐きに似ているが、嘘吐きよりも朴訥だ。
差し出されたのは本ではなく、手帳だった。どこにでもあるビニールカバーのついた黒い手帳。採血、検査、外出、新刊発売……捲れるページの情報を有栖川は何とはなしに目で追った。左上がりの文字は癖が強い。
「カジノの大逆転、とても面白かった」
一月前の話だ。有栖川の一攫千金の体験談を、まるで一週間前に聞いたように彼は話した。
「俺もあれは楽しかったぜ」
半月前に金を返す際、夢野に語った話だ。
頷いて、有栖川は白いページに曲線を引いた。飴村のペンの動きを思い出す。一回くらい練習しておけばよかったなと思いながら。