(二)わたしたちがした蛇のような遊びについて
さっきまで白熱灯付近を撫でるように飛んでいたのに。大きな雨粒みたいに天井から蛾は落下した。脚を二、三回振るわせて動かなくなった。
夢野を見下ろす赤いランプは、あたりの暗闇を吸い取って、煌々と輝いている。ランプを戴く白い扉は溶解寸前の輝きを見せている。どろりと熔ける面に夢野は掌を付く。想像を裏切り、夢野から金属に温度は移動していく。
夢野には信仰はない。信仰はないが、祈りの言葉は知っていた。今執筆しているシリーズの二巻目の中で、登場人物の一人が唱えるからだ。だが、今その言葉を口にすることが正しいのかわからなかった。
何に祈ればいいのか、そして果たしてその祈りは飴村の回復を望むことになるのだろうかと。
担架の上の飴村はひどく華奢で弱々しく見えた。違和感から、自身にとっての飴村のイメージには傲然という形容詞が含まれていたことを夢野は知った。傲慢で合理的で、そして世界を楽しくして見せると豪語する男。それが飴村だった。
近づく夢野に飴村はわずかに目を開けた。人工的な色の髪の毛の下から覗く虹彩は、暗い海に沈んでいる。「げんたろう、か」
「……他に幻太郎がいるんですか」
「あいかわらず面白いね、君は」
「わ」の音階だけが、飛び抜けて高い。飴村は咳き込んだ。「喋らないでください」と付き添いの看護師が注意する。咳に遅れて何かが外れるような、漏れていくような恐ろしい音がした。
「先生」
看護師のすがる声に、夢野はゆっくりと振り返った。人並み外れた長身の男が、白衣を纏って立っている。医療用マイクロホンの権威は、驚くほどに夢野の記憶と変わっていない。穏やかな佇まいに騙されそうになるが、目尻の皺に滲む闇にはディビジョンを束ねる重責が見てとれた。
「こんにちは」
「君たちが、飴村君の友達なんですね」
夢野幻太郎君、と巨人は言う。
「乱数が友達を欲しいようには、僕には見えませんよ」
会話は一瞬で、次に瞬きをしたときには、もう神宮寺はストレッチャーと一緒に部屋に入るところだった。
白衣が中王区のステージの上と同じ形で翻る。
飴村が息をする。少女じみた唇は、怨嗟のように「マイクは使うな」と吐き捨てた。
飴村が手術室に運び込まれてから、三時間が経過していた。その間、医師も看護師も、一人も外には出てこなかった。
夢野は飴村のことを思い出そうとした。かつて飴村と組んで世界になにがしかの化学反応を起こそうとしたときのことを……それからもう少し時間が経って飴村がたまに漂わせるようになった白檀の匂いを……あれはいつの頃だったか、この病院が巨大になり始めた時期だった気がする……だが、いつの間にか考えたくもない考えに行き着いていた。小説のことを考えても同じだった。飛行船に乗って旅立つ主人公は、幽霊の棲む塔から出ることができない。
味気のない無機質な諦念は夢野を離してくれなかった。
「遅いですよ」
と言えたときの声が別人のもののようで、夢野は安堵した。
自分の声で喋りたくはなかった。
有栖川が無言で片手を上げる。長い影が床に落ち、隅の暗がりまで伸びている。
「悪いな、これでも急いで来たんだけどよ」
「また借金取りに追われてたんですか……」
「そうだな」
有栖川が汚れたコートに顔を埋めるように俯く。額が汗で濡れている。
「どうしてる、乱数のやつ」
「手術中です。それ以上のことはわかりません」
「悪いのか。まあ乱数らしいっちゃ、らしいけどよ」
「なら、これも乱数らしいことなのかもしれませんね」
「なんだよ、それ」
有栖川に夢野は携帯端末を差し出した。サイケデリックな色合いの機械は、飴村のものだ。衝撃でところどころ塗装は剥げ、画面には大きな罅が入っている。
電子音を口にして、着信履歴を示す。今朝の日付の下は、数字と記号の羅列だった。
何行遡っても、同じだ。
「なんて書いてあんだ?」
「神宮寺寂雷」
「はあ? 仲悪いんじゃなかったのかよ」
「読めるわけないでしょう。……嘘ですよ」
履歴だけではない、電話帳も、その他の連絡手段も、読解できない状態になっている。履歴に残っているのは、飴村と親しい女性達の誰かの番号のはずだが、かけ直しても繋がらない。夢野と有栖川の連絡先だけが、電話帳の中で唯一読み取れる文字列だった。
「乱数のやつ、まじで何やってんだよ……」
そもそも飴村が、自分の携帯端末を誰にでもアクセスできる状態にしておくのがおかしい話だった。
セキュリティを解除したのが、飴村であるならば簡単だ。夢野と有栖川に見せるためだけにこの端末はある。
(乱数でないのであれば……それは事故が起こることを知っている人間だ)
「わかりかねます。もしかしたら、乱数もわかってなかったのかも」
「そんなわけあるか」
有栖川は断言する。
(そうだろうか)
人間は行動のすべてを自分で制御できるわけではない。それは当然だ。自分を制御し続けると、疲労し磨耗してしまう。
そして、飴村は夢野の知る限り、最も自分をコントロールする人間だった。自分でも自分の綻びに気がつかないくらい、完璧に自身を制御していた。
「最後に乱数と会ったときのこと、覚えてますか」
「覚えてねえなあ。焼鳥食ったときだっけ」
「違いますよ。記念公園です」
夢野は目を瞑る。ようやく瞼の裏で、降る桜の花弁が像を結び始める。薄く曇った日だった。
飴村と、有栖川とは約束していたわけではない。夢野は書店帰りで、有栖川は寝る場所を探してほっつき歩いていた。
飴村は仕事のついでだと言っていた。
(久しぶりだな)
(だって最近、二人とも遊んでくれないんだもん)
桃色の花が飴村の髪の毛に、有栖川の肩に載っている。
(幻太郎、寂しかったでしょ?)
(ええ、寂しかったですとも。貴方のことを忘れてしまいそうなくらい)
(またまた嘘ばっかり)
忘れられるわけないもんね、君が。と飴村は笑う。どこか痛みを堪えているような自然な笑みだった。
すなわち飴村乱数としては、不自然な笑いだ。
(乱数、貴方は)
(なになに、どうしたの?)
言ってから、飴村はうわ、と口を開けた。
(桜、食べちゃった)
尖った舌の先に、薄い花が張りついている。
(食えるのかよ、これ)
(何集めてるんですか)
(んー甘いかな)
あっちの方にいっぱいありますよ、と指差すと犬のように有栖川は駆けて行った。桜の花を今日の夕食にするつもりに違いない。
(ほら、幻太郎も食べてみなよ。おいしいから)
(小生は遠慮しますよ。今甘いもの断ちをしてましてね)
(じゃあ、辛くしてあげるね)
(マイクをこんなところで使わないでください)
きれいは汚い、汚いはきれい。と飴村はマイクを持たずに言う。
(森でも動かすつもりですか)
(だってそんなに違いはないんだよ。きれいも汚いも)
そこを揺らすだけさ、と飴村は低い声で続ける。
(好きも、嫌いも、寂しいも寂しくないも)
息が苦しくなり、夢野は口を開ける。飛び込んできた花は、無味だった。
「覚えてませんか?」
「わりい、さっぱりだ」
あの日、桜は苦いと食用を諦めた有栖川は、肩を竦める。
「結局、あの後は集まりませんでしたね」
「そういえば、そうだな。お前の本は見てたからそんな気しなかった」
「それは」
有栖川は夢野の本を読まない。読むと落ち着かない、と数年前は言っていた。
意図が読めず、黙っていると「いや、まじだって」と有栖川は重ねて言った。続く少年少女の冒険譚も、学園の推理劇のあらすじも確かに夢野が書いた物語だ。
「どういう風の吹きまわしなんですか」
「いや、読んでみたら読めたんだよ」
あれどうなるんだ、と有栖川は質問する。続きがしばらく出ていない、連作の話だ。荒唐無稽な話は好きだが、ファンタジーは難しい、と夢野が痛感した作品だった。
「……正直、迷っていてね」
「そうなのか? ラスボス倒して終わりじゃあ、だめか」
「終わり方が問題なんだ」
英雄が自分の存在とともに悪人を封印して終わり、と当初夢野はするつもりだった。ただし勇者はいつか帰ってくるだろう、と匂わせる形での。
「それもつまらないかなと思い出したんだ」
「確かに、それは笑えねえな」
世界を変えた英雄のつまらさすぎるラストだ。たとえ英雄が悪党といることを望んでも、寝覚めが悪い結末だった。
第一、その終わりを極悪人だって望んでいるのだろうか。
(望んでいても、言うわけがない)
扉の向こうから、獣の咆哮が聞こえる。低い、命に触れているときの声。白檀の匂いのする狼が、内臓を引きずり出し、形成しているときの声。
強い麻酔作用を持つマイクロホンは嘘を吐くことができない。マイクロホンに精神干渉された人間もまた。
死んでも隠し事を暴かれたくない人間にとっては、最悪の武器。
有栖川が賽子を宙に投げる。出た目は、夢野には見えなかった。