(四)春の内臓、桜の骨




……脾臓……腎臓……肝臓……心臓……。
天井の眩い明かりは、一瞬夢野に今が昼間であることを忘れさせた。六面体のガラスを組み合わせたシャンデリアは、面ごとに虹の色を放っている。壁の一面はすべてガラスだ。それぞれ宮殿を思わせる鳥籠が下り、緩やかな春の日差しに鳥が囀っている。
テーブルクロスの縞の数を夢野は数えた。それが終わると、縞と縞の交点を。
この店は穴だ。
大戦の前から、そして政情が激変して世界のあり方が変わってしまっても、この店はこの場所にあり続けている。南の楽園に生息する鮮やかな鳥の姿も、細かな傷に磨かれた銀のカトラリーも。
明るい部屋にさっと影が差す。
同時に空気の質量すらも変化したような錯覚があった。
待ち合わせの相手は平均を遥かに超える長身だ。が、それだけが原因ではない。
「すみません、遅くなりました」
「いえ、いいえ。待ってなんかいませんよ。小生もたった今、来たところですから」
コーヒーを飲み干して夢野は答える。
窓際の鳥はすっかり囀りをやめている。当たり前だ。どこにわざわざ泣き喚いて、己の隠れ場所を教える馬鹿がいる?
「お久しぶりです」
「ええ。ご活躍は小生の耳にも届いておりましたけどね。今日もお仕事の途中なのでしょう?」
この男は、捕食者だ。夢野は首を曲げて、相手を見据える。ならば目を逸らした方が負けだ。
今やシンジュクの象徴でもある男は、失礼、と断ってから、夢野の正面に腰を下ろす。長い髪が帳のように彼の顔を遮り、ピンク色の花弁が一枚滑り落ちた。
「今日はいつもと服が」
「あれは願掛けですよ」
夢野は男の黒い衣服を睨め付ける。すべての色を飲み込む喪の色。この男にしかし、この上もなく似つかわしい色。
「本部の……警視庁はさぞ肩が凝ったんじゃないですか」
なぜ、それを。と男の声が低くなる。鳥に倣って夢野は声を潜める。
「おや、カマをかけただけですよ。あのあたりが満開だとニュースで放送していましたからね。家から出ない職業とはいえ、ラジオくらいは聞くのでね」
同じ遺伝子を持つ花。クローンの花。けして発芽することのない花。いつかは絶滅すると噂されている花。
接木で増える花。
台木は穂木の、穂木は台木の記憶を共有するのだろうか。花の記憶はどこにあるのだろう。血液……皮膚……網膜……眼球……。
「貴方は変わりませんね、君は」
「褒め言葉、と受け取っておきましょう。小生も鍛えておりますから」
この男に、神宮寺寂雷に会ったときに、言いたいことはたくさんあった。詰る言葉も、嘲る言葉も、媚の言葉も、感謝の言葉も、労いの言葉も。
だが、心の裡を占めていたのは、懐かしさだった。
かつて大舞台で闘った相手に対して素直にそんな感情を抱いている自分が、夢野は不思議だった。




有栖川帝統と最期に会ったのは、シブヤの中心にある廃ビルの一室だった。彼の一丁羅だという上着と同じ色の袋に入っていた。
五分だけ、という約束で夢野を案内した知り合いの探偵が見守る中、夢野は有栖川の頬を撫でた。うっすら産毛の残る肌は冷たく、かさついていて、原稿用紙の感触に似ていた。




「実を言うと貴方には感謝しているんですよ」
「私は、貴方に感謝されるようなことはしていませんよ」
「余が貴方を恨んでいるとでも?」
夢野は神宮寺を見返した。
怯むな、と夢野は己に暗示をかける。自分よりも一回り小さい背中を、砂糖菓子の弾丸のように神宮寺に向かって行った背中を思い出す。
「どうしてですか?」
夢野と同時に頼んだ紅茶には、口をつけもしない。薄く、色の乏しい口の間からときおり赤い舌が覗く。
青みがかった目に宿るのは穏やかな光だ。相手を捉えて絞める直前もおそらくこの男はこういう目をしているに違いない。
死ぬ前に見るにはちょうどいい、と感じる人間もいるかもしれないが。
(それを彼が望んだかどうかは、俺にはわからないけれど)
「この国の医療の発展はめざましい。……医療技術分野は大きな市場を形成している。それも全部、貴方の勝利のおかげだ」
「私は自分がやるべきことをやっただけです」
「ご謙遜を。死亡率の減少に、難病の克服」
夢野は腕を広げる。袖は蝙蝠のように広がるはずだったのに。そうだ、私はもう。
「薄倖な病弱の美少年や美少女との恋が夢物語になる日も近い。商売あがったりですよ」
砕ける前の弾丸の輝き。噛み砕かれる前のキャンディーの発光。ルミネッセンス反応。
「いずれ死んだ、死んだ人間が生き返る日だってくるかもしれませんね」
「死んだ人間は生き返りませんよ」
それは医療の分野ではない。
神宮寺は断言する。医療は奇跡ではない。
「……小生は小説を書いておりましてね。最近は子供向けの本も執筆しているんですよ。謎謎やクイズですね、子供はそういう話が好きだ」
「そうですね。子供は、喜びますね」
「その中にこういう話があるんですよ。ある旅人が歩いている。彼はとある土地を目指している。そこには正直者だけが住んでいるんです。でも問題がありましてね、途中の道は二つに分かれている」
聞いたことはありますよ、と神宮寺は頷く。
「そうですか、それならば話は早い。道の片方には目的地の村が、もう一方は嘘つきしか住んでいない村があるんでしたよね。そして三叉路にはどちらかの村の住人が立っている」
どうすれば目的地に辿り着けるのか、それが課題になる。
一度知ってしまえば簡単だ。夢野は窓の外を見る。
晴天だった。
飴細工のようなガラスごしにも青い空はよく見える。
「――神宮寺寂雷、貴方はどちらからいらしたんですか?」
(嘘つきは嘘しかつかない。自分の住居を答えることができない。正直者は嘘をつくことができない。自分の住所を答えるしかない)
冷える。
違う。
自分の血が沸騰しているのだと夢野は気がついた。言葉を放った瞬間に、恐ろしいほど店内は静まり返っていた。それから一斉に、鳥達が沈黙を破って喚き出した。驚いたように店員が窓に走っている。
(アハハハハ!)
(キャハハハハハハハ!)
(くだらない、くだらないくだらないくだらない)
(つまらない)
(世界はもっと……)
(きっと面白くなるんじゃないかな!!!!!!!)
(アーハハハハハッ!)
喧しい歌声の彼方に、夢野は確かに彼の声を聞いた。
「……安心しました」
(気高い魂にはどうやって)
撃たれた後の表情の神宮寺に、夢野は声をかけた。優しい音が出た。最後にこんな声を出したのはいつだっただろう。
「貴方が彼のことを忘れていないことがわかって」
「忘れたことなんてありませんよ、一日も」
神宮寺が髪をかきあげる。一筋の白髪に目を止めて、夢野は引き金から指を下ろす。
(乱数、気高い魂にはどうやったら傷がつくんですか)
あの日、手術台の上で何かがあった。
確実に、神宮寺の魂を損なう何かが。
「ならば小生もこれをお渡しできるというものです」
もう貴方は似たようなものを持っているかもしれませんけどね。
匂い袋を夢野は差し出した。うっすらと香る甘い匂いは夢野の好みではない。好みではないが、懐かしさから買い求めた。
「これは……」
「とある賭けの戦利品です。ああ、袋は小生が購入しましたが。中身ごと差し上げます。ここでは開けない方がよいですよ」
なぜ有栖川があんな賭場を知っていたのか、どうして自分があらゆるものを有栖川の無謀な勝負に賭けたのか、夢野にはわからない。有栖川のぎらぎらした無邪気な目の光のせいか、それとも墓の場所すらわからない相手への自分なりの弔いのつもりだったのか。ただ、人為的に染められた骨を見たときに目の前が真っ暗になって、血の気が引いた。本当にそれだけが理由だったのかもしれない。
目の前のこの男ならわかるかもしれないが。
「真偽は確かではありませんが、骨ですよ。椎骨です。猿のものか、しがないギャンブラーのものか、三流小説家のものか、はたまた他の人間のものかは知りませんがね。貴方なら大切にしてくれそうだ」
神宮寺は黙っている。
「もし骨の持ち主が、心底嫌ならきっと化けてでてきますね。小生の家に現れてくれると話が早い。彼には聞きたいことがあるんだ」
「……」
「貴方には感謝しています。これは嘘ではありませんよ。貴方のおかげで俺の友人は救われた。貴方の、医療用マイクのおかげです」
夢野はティーカップを持ち上げる。おそらく成人男性の心臓より軽い重さ。
桜色の骨を賭けたギャンブルで組んでから、有栖川とは長いこと会わなかった。また、ボロ勝ちしたくなったら連絡する、と有栖川は別れ際に言った。彼らしいさよならだった。
肝臓……肺……腎臓……膵臓……小腸……血液……心臓……。
臓器のない有栖川の死体は、それでも自分より重い。その事実に夢野は静かに打ちのめされていた。




店を出ると、あたりにはぼんやりとした陽気が蔓延していた。空との境の桜の花枝は夢と現実を、嘘と本当を、曖昧にする。
「また……お会いすることはないでしょうね」
神宮寺の言葉に夢野は頭を振る。
「そちらの方が、お互いのためでしょうね。残念ではありますが」
これは嘘ですよ。続けると神宮寺は少しだけ笑い、踵を返した。骨の袋を、心臓に留まったピンクの弾丸と一緒に抱え、天までそびえるビルの間の嘘の世界に戻っていく姿をしばらく夢野は眺めていた。
それから、インバネスコートを脱ぎ、春の空気を肺に吸い込んだ。神宮寺と反対側に進む。外側が剥がれるように、周囲に埋没していった。





「……」
呼ばれて振り向くと、懐かしい顔があった。
「外出許可は出たのかい」
ああ、と彼は頷いた。
「無茶は禁物だ」
そうだね、と彼は。せっかく提供者が見つかって、有名な先生に手術してもらえたんだから、大事にしないとね。
「そうだね」
(気高い魂にはどうやって、傷をつければいいんだい)
けして出現しないだろう幽霊には尋ねることができない。
「君が入院している間に、本当に世界にはいろいろなことがあったんだよ」
そういえば僕を診てくれた先生、ラップでも有名なんだって。穏やかで優しくて、そんな風には見えないけどね。
「人は見かけによらないんだよ、君もよく知ってるだろう」
君も闘ったんだろう。
君のチームメイトの話を聞くのが、とても楽しかったよ、と青年は笑う。有栖川君、元気にしてるかい。
「どうだろうね、彼はギャンブラーだから」
また会いたいなあと青年は続ける。
「僕もそう思うよ。愉快な男だから」
体の行方も、臓器の行方も、本当の名前も知らない男。
(私は彼の魂に一片の傷も、つけることができなかった)
青年は楽しそうに桜を眺めている。
回復したら、アルバイトでもしたいなあ。だいぶ親には負担をかけてしまったしね。きれいだね、病院で見るのとは、やっぱり全然違うものだね……あ。
「どうしたんだい」
口に入ってきたんだ。
「食べるものじゃないよ。まだ君は病み上がりだ」
苦いな、と青年は顔を顰める。美味しかったら、退院後の食事にしようかと思ったんだけどな。
花の記憶。
桜は苦い。桜は甘い。
寂しいも寂しくないも等価。
無味の花弁の味を思い出す。
泣いてるのかい、と青年が心配そうに覗き込んでくる。
「泣いてなんかいないさ」
神宮寺の白髪がうっすら桃色に見えたことも、儚い弾丸の末路も、記念公園の花弁の味も、賭けの間に握っていた有栖川の掌の熱も、すべて嘘の世界の出来事だ。嘘ばかりの世界に自分たちは生きていた。
(そしてその嘘の世界で、私達三人は友達だった)
そう信じていたかった。
願っていた。
地獄で再会しても、きっともうお互いに判別はできないだろうけれど。



(了)
20200216





『砂糖菓子の弾丸』は「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)」のオマージュです。
ここまで読んでくださった方、眉粉さん、ありがとうございました!