(三)悪い夢

実のところ、私は退屈しておりました。当時の私の生活は検査と投薬の予定の他は、ひたすらの休養だけでした。健康面の不安はともかく、私自身は至って平均的な二十代男性でしたから、寝たきりで刺激が少ない生活に大変辟易としていたものです。
話す相手は、医療関係者と家族、それに見舞いに来てくれる友人くらいでした。
「それなら本でも読んだらいい」
高校時代に教室の隅でいつも読書をしていた友人は、私に提案をしてきます。
「ま、現代人らしく携帯ゲームとしゃれ込む手段もあるけどね」
他は……そーしゃるねっとわーく、とわざと不慣れな様子で友人が言うものですから、私は思わず笑ってしまいました。友人はこんな現代に叛逆するような恰好をしていましたが、その実、電子機器を利用した情報の受発信には長けているのですから。彼はとんだ嘘つきでした。
ですが、私はその嘘を好ましいものだと感じていました。彼の嘘は奇妙で愉快で、そして後には何も残らない。そうしたところが好きでした。




私はあまり小説を読む人間ではありません。
学生の頃には、読書感想文が課題である時期だけ慣れぬ図書館に足を運び本を選んだ、私の読書体験などその程度のものです。けしてつまらぬ作品ではなかった。今となってはあらすじも思い出せないのですが。
「君にかかると、世紀の大小説家も形無しだ」
からかうような友人の口ぶりに、「いや面白かったとも」と私は反論しました。ただ、今その作品を読んだとして、当時と同じく面白いと感じられるかどうかはわかりません。今の私にとってはフィクションのほとんどが、遠い遠い病棟の外の話のように感じられるからでした。
私は、少し疲れていたのかもしれません。闘病生活を続けている間に、世間は恐ろしいほどの速度で変わってしまった。私はそのことを実感さえできていませんでした。
世の中から見れば、私の方こそ遠い世界の住人だったのだと思います。
私にとって生きている物語は、病室で彼が話す明るくてどこか寂しくてとんちんかんな、月の光のような話だけでした。




彼の語りの中に、最近現れ始めたAという青年に、私は惹かれていました。Aはひどいギャンブル狂いでした。そしてエネルギーに満ちており、どんな逆境に陥ってもいつの間にか、しぶとく生き延びていました。彼のしなやかな野生の獣のような肉体は、主人の危機にはこの上なく正しく働き、ときに土下座をし、ときに泣き落とし、シブヤ中を騒がしく駆け回っていました。眩しい生命の輝きに私は圧倒され、慰められました。
「実はね……ここだけの話、彼は実在するんだ」
友人は告白し「嘘だけどね」と笑いました。そんな破天荒な人間がいるわけがありませんから、私も笑いました。こんなに笑ったのは久しぶりでした。
――君の話してくれる物語は、どんな小説よりも面白いよ。
そう告げると友人は咳き込みました。




楽しいことの後には、退屈が待っているものです。友人が帰った後、私は中庭におりました。行きかう人々を眺めることで、せめて社会の一員である錯覚に浸りたいという思いがあったのです。静かなはずの中庭は、しかし今日は賑やかでした。
中央のベンチ周りに集まる高校生達の制服は見覚えがありました。私がかつて通っていた学校と同じ沿線にある高校のものです。
耳をそばだてていると、どうやら彼らはサッカー部の部員らしいこと、そして仲間の一人が試合前にけがをしてしまったのだということがわかりました。
気の毒に、と私は思いました。高校生にとって世界は狭く、小さく、その中で部活の試合が占める割合は大きいものです。おそらく怪我をした彼にとって大事な一戦だったのでしょう。友人の励ましにも、覇気のない受け答えです。「この世の終わりって感じ」と彼は嘆いていました。私にはその気持ちがよくわかりました。




病室に戻ると、私は携帯端末の電源を入れました。通信の制限はされていませんでしたが、家族と一人の友人としか連絡を取り合わない私にとっては、ほとんど不要の機械でした。
単語を検索すると、目当てのものはあっさり見つかりました。こんなに簡単でいいのだろうかと不安になるほどに。
中庭の学生達は、だんだんチームメイトへの励ましを諦めたようで、話の内容は学生生活にシフトしていきました。担任の話、テストの愚痴、クラスメイトのスキャンダル……その中には、見ると呪われるという動画の噂もありました。「だったら一回見てみろよ。この世の終わりなんだろ」と学生達は言い、それには「今夜俺達も見るから」と残酷なのか優しいのかわからない慰めも一緒でした。
呪いの動画は、仰々しい評判を裏切り、穏やかな光景が映っていました。
背後の輝く真っ白な壁は、私が毎日眺めているものによく似ていました。
登場するのは、ただ二人の人間でした。一人は立ち、もう一人は座っておりました。
座した男性は白衣を身にまとっていましたがとても整った顔をしており、俳優なのかもしれません。どこかで見た覚えがありました。
浮世離れした雰囲気も長い髪もそう考えると説明がつきました。それにどうやら身長が並はずれて高いようだと私は当たりをつけました。立っているもう一人と頭の位置がほとんど同じでした。
男性は銀の光沢を帯びた紫の髪を、相手に自由に弄ばせていました。ときおり、その手に己の手を重ねていました。相手よりも一回り近く男性の掌は大きく、対する相手の掌は玩具みたいに見えました。男性の手つきは宝物を扱う手つきでした。
動画には音声は一切入っていませんでしたが、男性が何を言っているのかは容易に読み取れました。恋人の名前を呼ぶときに、人はあのように優しい表情になるからです。
画面の中で、男性の髪は梳かれ、撫でつけられ、結われ、またほどかれていきました。男性の相手は、身体の線がわかりにくい服を身に着け、しかも目深に帽子を被っているため表情もうかがえません。手首や爪の華奢さは少女のようでしたが、白い喉にはかすかに盛り上がりがあるようにも見えました。二人とも白い服を着ているせいで、光の当たり具合によっては、二人の身体の境はわかりにくいときがありました。
動画は、五分足らずの短いものでした。終わりに近づく頃に、毛づくろいは急に終了し、トリマーは男性の膝に自身の身体を預けました。
黒い帽子がゆっくりと画面を横切っていきます。
そのとき私はもう一人の顔を、初めて見ました。浮世離れして、整った容貌は男性と共通していました。
そして自然界ではありえない桃色の髪の毛。
その人は左手で男性の指を絡め取り、もう一方の手で掴んだ帽子で己と男性の半面を覆っている。夢見るような光景でしたが、その目は明らかに「私」を見ていました。目の中に病室に座る「私」が映っているのを認めた瞬間、悲鳴を上げるより先に私は端末の電源を落としていました。
ふしぎなことに、それから何回調べても、再びあの動画に辿り着くことはできませんでした。履歴にも何も残っておりませんでした。




その夜、私は夢を見ました。夢で私を出迎えたのは蛇でした。蛇は口を大きく開けて、音もなく私を呑み込みました。蛇の内部を落下しながら、なるほどこれが呪いか、と私は安心しました。私が知る世界の終わりと、呪いとは異なっていたからです。
私の世界の終わりは学生の時分でした。それはとても晴れた日だったはずですが、記憶の中ではその日の空は、赤や青、黄や紫や灰色の混じった、溶けた飴のような色に変わっていました。
あの日、教室には私と彼の二人だけでした。
彼の存在が、私はとても気になっていました。
いつも一人で、静かに本を読んでいる彼が、新聞配達をしているとも、工事現場でアルバイトをしているとも噂があった彼は、クラスでも大人びていて近寄りがたい雰囲気がありました。無口な男でしたが、教師に指名されて教科書を読むときの声は、よく通っていて美しかった。
私はずっと彼と話してみたかった。ですが、クラスメイトの目や彼から拒絶されることを考えると、どうしても踏み切れませんでした。
ですが、もう世界は終わるのですから何も恐れることはありませんでした。私を取り巻く小さな世界からもうすぐ私はいなくなるからです。
さよならばかりも癪だ、と私は思っておりました。
……蛇の中で目を開けると、そこは記憶で捏造された教室でした。虹色の空、生臭い臭い。空にはあの蛇の目が、動画から私を見据えるあのふしぎな色の目が私を睨んでいます。
本を読んでいる彼に、私は近づきました。世界の終わりなので、やりたいことをやるためです。
「友達にならないか」
私は彼に告げました。私の背後で、蛇の目がきゅっと細くなる。愉快で堪らない、とでも言いたそうな動きでした。