湊の膝の上でスプレーの缶がぶつかって音を立てる。石を抱く刑を思い出し、急いで袋を抱え直した。タクシーのシートは柔らかい。座り心地が湊の焦りを加速させる。
(出かけるなんて、どうして言ってしまったんだろう)
「助かりましたよ、テラさん」
後部席の草薙は上機嫌だ。
「もうちょっとで門限に遅れてしまうところでした」
(理解さんは優しいから、自分なんかと出かけてくれる。買い物にも付き合ってくれる)
そんな彼が何よりも遵守するルールを破らせてしまうところだった……と考えるだけで湊の鼓動は速くなる。走る車から飛び降りれば、という考えが泡沫になって浮かび
「よかったね、テラくんと会えて。君達ついてるよ」
それから割れる。
美しい模様の描かれた爪が車内の空気をかき回す。
湊の吐き出した二酸化炭素を希釈する。
草薙の言う「助かった」はおそらくテラの「ついてる」とは意味は違っているけれど。
初めて通る道だ。路肩にはオレンジと黄色のタイルが敷き詰められている。変色した洋服店の看板、錆びたシャッター、たばこ売り場のカウンター……見えるのはそれくらいだ。
「お仕事の帰りですか」
「そ。よかったよ、あそこの会場押さえたかったし」
観にくる? と突然話しかけられる。湊は勢いよく首を振った。頭に被ったビニール袋に髪の毛が張り付くのがわかる。
「私達は画材屋さんに行ってきたんですよ。ね、大瀬くん」
「へえ、どこの」
二駅向こうの画材店の名前を草薙が口にする。
五階建てのビルの全てのフロアで画材を扱う店は、駅のホームからも見える。隣にはホームセンターがあるその店は湊の限られた外出先の一つだった。
「楽しかった?」
「……ごめんなさい、つきあわせてしまって」
「楽しかったですね」
草薙の回答は明快だ。
「そりゃ良かった」
(ううう……)
湊はもぞもぞと尻を動かした。タクシーの運転手はこうした会話にも慣れているのか(それともクソ吉が見えないのかもしれない。それはとても素晴らしいことだけれど、助手席のドアを開けてくれたところを思い出すと、やはり見えているのだ)、静かにハンドルを握っている。
「今は何作ってるの?」
「少し、大きい絵を描いてます……あとは金継ぎを」
「へえ、会社で使ってるカップ、気に入ってるんだけどヒビが入っちゃったんだ。今度お願いしてもいい?」
「自分でよければ……」
空は青と藍の境目の色だ。地平線は脱色された白が滲んでいる。もうすぐ太陽が地に沈み、夜が来る。
「そういえば、ここらへんお化け屋敷があるんだって」
「……出るんですか?」
「知らない。僕も受付の子に聞いただけだし」
昔事件があったみたい、とテラは付け加える。なんだったかな。新聞にも載ったらしいよ。
だが、過去の事件の話はそこで止まってしまう。
「あれ」
エンジンが奇妙な音を立てている。すっと、道の端に寄って車は止まった。
「トラブル?」
「みたいですね」
降車した運転手が戻ってきて、テラに何事かを報告している。
そっか、じゃあしょうがないね。
テラが諦めたように息を吐く。
(自分が乗ったから……あのとき飛び降りておけば)
「ほら、降りて降りて」
促されて湊は外に出た。角ばった黒い車体はどことなく元気がない。
「ひゃ……!」
テラの指先でビニール袋がはためいている。旗みたいだ。
「返してください……」
「もうすぐ家だし、歩いて帰るよ」
「車は大丈夫、なんですか」
「人呼んだよ、大丈夫」
言いながらもテラは車の前から動かない。
始まった。
草薙が笛を吹く。
「車に映るテラくんも美しいよね」
「テラさん、そこにいては危ない。車のトラブルのときは速やかに避難しなくてはいけません」
「テラくんて黒が似合うんだよ」
「門限は六時ですよ、テラさん」
「でも白も似合うんだよ」
「大瀬くん、テラさんを寄せてください」
草薙の指示は的確だ。
「合点承知です」
感心しながら、湊はテラを額で押す。
(ぬぬ、ぬ……)
花のような香水の匂いが湊の顔を包む。
「では、申し訳ありませんが、我々は帰ります」
しきりに頭を下げるドライバーに草薙が高らかに挨拶をする。
頭上では空をキャンバスに、淡いピンクと紫が混ざり始めている。
冷えた、重みのある空気は夜の前触れだ。
「あと十五分」
「何の時間だ、それ」
「門限です」
「早すぎ」
「いえ、六時に帰らないと生活のリズムが狂います。リズムが崩れると大変ですよ。健康に悪い。精神衛生上もよくない。堕落してしまいます。人間失格だ」
ねえ、大瀬くん。と草薙が振り返る。
「すみません……生まれてきて」
「そっち?」
君箱根は知ったことないだろ、と言いながらテラがくるりと回る。残照が髪に宿り、テラの動きに遅れて円を描く。
「おや」
「どうかしましたか、テラさん」
「さっきの、お化け屋敷ってあれじゃない?」
まだぼんやりと、光の輪がテラの周りに漂っているみたいだ。
先が金色の指が、黒々としたシルエットの、屋敷というよりも資材置き場に近い塊を指し示している。
屋根は崩壊しており、溶けたように瓦は雪崩れている。
「危険ですね。通報しましょう」
壁も床板もなく、骨組みだけが浮かんでいる。
「これぞ廃墟! って感じだね。雰囲気すご」
湊は目を凝らす。
「見えません」
「ん?」
「幽霊です」
「見たいの?」
存在するならば、会ってみたい。あわよくば自分を連れて行ってほしい。
「見たことは、ないです」
「僕もない」
(ないんだ)
テラのことばに、なぜか湊は落胆した。感受性の強い彼ならば知らない世界にも近づくことができると、どこかで自分は思っていたのだろうか。
「でもいるんじゃない」
「そう、思うんですか」
「うん」
テラが頷く。
うっすらと夜が、闇が降りてくる。だというのに、テラだけが夜とは無縁だ。髪が、輪郭が、昇り始めた銀色の月よりも光を放っている。
「そっちの方が楽しいじゃない」
テラの発する淡い光の粒が湊の立っている位置まで飲み込み、円状に広がっていく……錯覚に湊は囚われた。たとえば、宇宙船から観測したら、この場所はどんな風に見えるのだろう。もう一つ星が重なっているみたいに見えるのだろうか。
猿川くんは嫌がるかもね、と続ける。
「それに、幽霊だってテラくんに会いたいだろうからね」
あーあ、さくらんぼ食べたくなっちゃった。でも天彦がうるさいだろうね、とテラは言う。
(でも、幽霊がテラさんに会ったら)
湊はことばを探す。
死後の世界はきっと暗い。寒い。何もない。
もう一度、湊は廃屋敷のシルエットに目をやった。
(あれ、あんなのさっきはなかった……ような)
暗がりの中で油が溜まっているみたいに、いくつもの水たまりが凝っている。
(でも、最近雨なんてなかったよね……?)
ここ数週間はずっと晴れていた。画布を貼れないな、と思ったから覚えている。