※藤代君の結婚式の描写があります。
※アニバーサリーブックの設定に準拠していません

窓の外を飛んでいく、あれはカラスだろうかと笠井は考えた。目が痛くなるほど晴れた屋外。
正しく、この部屋は牢獄だ。
今頃大学では三限目が始まっているに違いない。外のことに思いを馳せると、例外なく笠井は憂鬱になったが、出席状況については、想像すると憂鬱を通り越して死にたくなった。
「どうしよう」
口に出してみる。弱くはあったが、ちゃんと声が出せて安心した。ここ数日、ほとんど発声していない。渋沢はあまり饒舌な人間ではなかったので。特に最近はことばを惜しんでいるようでもあった。
笠井も平生は話すのは得意ではなかった。だが話す相手も今は渋沢しかいない。
「どうしよう」
もう一度、声にしてみる。現実感が薄くなっている。カラスの数を数えてからうつむいた。きつく手首を拘束する手錠が、むきだしの両足を繋ぐ枷がようやく、これは現実だと笠井に知らしめた。首の動きに連動して革の首輪が乾いた音をたてた。
(なんでこうなっちゃったんだろう)
笠井はぼんやり考えた。思い出すのは三週間前の友人の結婚式だった。


藤代の結婚式は豪勢だった。藤代自身がJリーガーであり、結婚する相手が人気女優であることもあって、式場には普段ならブラウン管の向こう側でしか見ない人間が多く列席していた。
最初こそ笠井は間近で見る選手や芸能人に興奮を覚えていたが、式が半ばに差しかかる頃には、派手なものが会わない性も手伝って、さっさと自宅に帰りたくなっていた。
「久しぶりだな」
渋沢に再会したのは男子トイレだった。
「あ、はい」
笠井の方はテレビで渋沢の活躍を知っていたから、あまりそんな気分はしなかった。
ことば少なにそう伝えると渋沢は歯を見せて笑った。渋沢が元気そうなので笠井は安心した。藤代の結婚の報せを聞いたときからずっと、渋沢は大丈夫だろうかと心に引っかかっていたのだ。
「じゃあ、笠井はサッカーはもうやってないのか」
「はい。サークルが忙しくて」
「そうか。みんな止めていくんだな」
渋沢は高校時代よりも日に焼けており、もともと色素の薄い髪は赤に近くなっていた。
「三上も、辰巳も」
(三上先輩)
思いがけず聞かされた名前に胸が痛くなる。三上は今日の式に出席しておらず、そのため笠井の記憶の中では三上はいつまでも高校の姿のままだった。
目の前の鏡を笠井は直視しなかった。それでも渋沢の表情から自分が堪えるみたいな顔をしていたのを悟った。
「笠井は変わらないな……」
渋沢がもう一度、歯を見せて笑う。それは確かに笠井が同じチームにいたときは目にした覚えのない笑顔で、だが一方で十代の頃も渋沢はこんな笑い方をしていたのだろうと思わせるものだった。近しい人間の前では渋沢はこんな風だったのかもしれない。
「式が終わったら、飲まないか」
「え」
ああいう華やかな場所はちょっとな。提案する渋沢に笠井は頷いた。

「ただいま」
考えているうちに、いつのまにか眠っていたらしい。目の前に渋沢が立っている。
「……お帰りなさい」
挨拶してから、俺は順応しつつあるようだと笠井は悲しくなる。
「いい加減、こんなの止めましょうよ」
「トイレは」
「結構です」
近づいてこられて笠井はびくりとなった。渋沢はめったに乱暴なことはしてこないが、一、二回の前例は笠井を怯えさせるのには充分だった。
後退したところで逃げ場はない。
「何もしないよ」
屈み込んだ渋沢が、笠井の足から枷を外す。
「俺、誰にも言いませんから。先輩、今度の代表にも選ばれてますよね」
「この後、すぐに寮に戻らなくちゃならない」
説得を渋沢は無視する。渋沢は基本的に寮で生活している。笠井の閉じこめられているこの部屋は、出張中の親戚のものを預かっているだけらしい。
「藤代が結婚したからって自暴自棄にならないで下さいよ」
「飯はここに置いておく。明後日また来る」
必要最低限のことを言って、渋沢は出て行った。
「話、聞けよ……」
呆然と笠井は呟き、自分の首輪を繋ぐ鎖の届くぎりぎりの場所に置かれた食事と真新しい洗面器を見て、顔を顰めた。

笠井は今まで泥酔したことがなかった。自分がアルコールに強いらしい事実は、薄々高校から気がついていたが、はっきり実感したのはサークルの飲み会でだ。
結婚式の後に、渋沢の部屋(ではないとそのときは知らなかったのだが)で目を覚まして、笠井はびっくりした。日本酒を三本空けたところで記憶が途切れている。
(疲れてたのかな、俺……)
頭がひどく痛い。おまけに視界が真っ暗だ。
(違う。これ布だ)
状況の異常さを察知するのにしばらくかかった。ニュース番組の音声が聞こえてくる。今が結婚式の二日後であることを笠井は聞き取った。では少なくとも丸一日、自分は眠っていたのだ。
(あたま、がんがんする……)
これが二日酔いだとは、シチュエーション的にとても考えられなかった。
足音が移動してくる。視覚を遮断されて鋭敏になった笠井の耳は、それが堂々として自信に溢れた男のそれであると判別した。
「大丈夫か」
低い、落ち着いた声。聞き間違えようのない声。試合でこの声を聞いて、何回安心したことだろう。
だが続く内容は恐ろしかった。
「悪かったな、手荒な真似をして」
「渋沢先輩……」

目隠しが外されたのは、目を覚ましてから二日後だった。もっとも笠井にはそれ以上の長さだった。すぐに猿轡がはめられたが、それがなければ二日の間に舌を噛み切っていただろうと思う。
(逃げ損なった)
外界を認識した笠井が真っ先に感じたのはそれだった。笠井には死に憧れた経験がない。死というものが選択として遠かった。タイミングを逃せば、もう自殺など自分にはできるわけがなかった。
「体の調子はどうだ」
話しかけてくる渋沢の態度が、一瞬笠井に錯覚を起こさせた。まるでここが高等部の保健室であるみたいだ。
「いいわけないでしょう……」
二日間、ほとんど食事は与えられていない。ふらふらしながら笠井は返した。
「どうしてこんな」
「新婚旅行はヨーロッパだったな」
誰の、と渋沢は言わない。
「明日、帰ってくる」
「終わったら、俺を解放してくれますか」
当初は見知った人間の犯行だということが恐ろしかった。渋沢を目視すると恐怖がわずかにだが、融解した。
藤代の思い出の中の眩しい笑顔。真っ白いビルのようなケーキ。ちくしょう。お前のせいで今俺、こんなことになってんだけど。
いない藤代を笠井は呪った。
「ああ、全部終わったらな……」
本当にすまない。渋沢が謝った。

渋沢は藤代を昔から、それこそ中学生のときから好きだった。笠井は他人の感情に鈍感な人間だったが渋沢の藤代に対する気持ちだけはなぜか手に取るように理解できた。少し離れて、何かを畏れているかのごとくに渋沢が藤代を見つめている。すべては対岸のできごとだ。