聞き慣れたクラシックの音色で、笠井は目を開けた。食べ終わった食事の皿も、洗面器も片づけられている。三十センチほど開いた襖の隙間から、渋沢の大きい背中が見えた。テレビに映る、不自然に鮮やかな光景。
あれは古い映画だ。
たいして有名とはいえないその映画を、笠井は親戚の家で観たことがあった。金はあるが生まれつきの醜さのせいで誰にも愛されず、人間嫌いになった男が、ある日貧しいが心優しい娘と恋に落ちる。二人は周囲の反対を押し切って結婚し、少しの間、幸せに暮らす。
童話を下敷きにしているらしいその映画のラスト近くで、娘の家から使いの者が来る。父親が病に倒れ、娘に会いたがっているというのだ。
娘以外の他者を厭い、信じない男は使者を追い返す。だが逡巡の末に男は娘を家に帰してやる。
(だけど)
クライマックスはどしゃぶりの嵐だ。家路を走る娘を雨が打ちすえる。空で雷が光る。
娘は結局男のもとに戻らない。父親にも会わない。
馬車に轢かれて、父親に再会する前に娘は死ぬ。男は嵐の中で娘を待ち続ける。曲が再び流れ出す。
陰惨な映画だった。
「……馬鹿なやつだ」
渋沢が低く言う。隣の部屋での笠井の覚醒には気づいていないようだった。
「そんなに大切なものなら、檻に入れて、二度と外に出さなければよかったのに」
まったくもって、同感だった。目を細めて笠井はざらつく画面を眺めた。
映画を見終わった後の渋沢は非常に穏やかだった。珍しくよく喋り、うずくまる笠井の近くに来ては、現在のチームメイトや海外の遠征の話をしてきた。
渋沢先輩はいい加減もう、止めたがっているんだろうなと頷きもせず、笠井は思った。話の合間に挿入される沈黙がたぶん渋沢の罪悪感だ。だとすればもうじき自分は自由の身になれる。
狭い部屋に沈殿する二酸化炭素。渋沢の吐き出すそれを吸って、笠井は何となく渋沢の衝動の構造が理解できる気分になった。渋沢を支配し、突き動かすものの原理が。
「渋沢先輩、あの」
「ああ」
うまく伝えられるかどうかはわからなかった。だが言いたかった。渋沢がじっと、次のことばを待っている。
「俺はですね」
(あ、インターホンが鳴ってる)
甲高い音が割り込んでくる。六畳の空間で、怯えたように渋沢と笠井は顔を見合わせた。
来客は三上だった。モニターごしの三上は、前髪がやや伸びた他は高校時とさほど変わっておらず、笠井はくらくらと目眩を覚えた。
「どうしよう」
自分を監禁している男のものとも思えない声が笠井の上から降ってくる。
「渋沢先輩が呼んだんですか」
「一週間前に連絡した……」
「俺、下、穿いてないです」
「あ、ああ」
「あと手錠を外して下さい」
「わかった」
「犯罪なんですよ、これ。先輩は捕まりたいんですか」
これじゃ犯人がどっちかわかりゃしない……。下着とズボンを身につけながら、笠井は急に笑い出したくなった。
「これで我慢してくれ」
渋沢がすぽりとセーターを被せてくる。
「首の鍵が見つからない」
「わかりました」
セーターはかなり布が余った。これなら首輪も、手首に残る手錠の跡も隠れるだろう。
ごわつくセーターは渋沢のにおいがした。
三上が玄関でぶつぶつ言っている。応対しようとした笠井の肘を、渋沢が軽く掴んだ。
現れた笠井を見て三上は驚いていた。具合悪くて、と笠井は説明した。たまたま渋沢先輩と飲んでるときだったから。すべてが嘘というわけではない。
「お前、風邪じゃねえだろうな。渋沢に伝染すなよ」
「気をつけます」
それ以上は三上は責めてこない。ガラスに映る自分はひどくやつれていたからそれを考慮したのだろう。
「ちゃんと寝てんのか」
「はい」
三上が腕を伸ばして笠井の頬にさわる。昔から三上は妙に距離の近い男だった。
「食事は……まあ、渋沢だからな」
「はい。食べてますよ」
渋沢は台所にいる。こちらを窺う気配がする。
(こっちに来ればいいのに。俺に気を遣ってるんだろうか)
笠井はズボンのポケットに手をつっこんだ。
「三上先輩は大学、どうですか」
「あー学会とかマジで面倒」
指に触れる薬瓶の冷たさはまるで刃物のようだった。玄関に向かおうとする笠井に、渋沢はこの小瓶を渡してきた。
『効果は知っているだろう。ちなみにだが、この家には二人分くらいのスペースはある』
と前置きした上で
『もし、お前が三上を……』
(馬鹿みたいだ)
笠井は考えた。渋沢の浅慮がおかしかった。自分が今、服を脱いで跡を見せれば、告発はそれで充分なのに。
口止め料のつもりなのか、今まで監禁していた謝礼のつもりなのか、渋沢の真意はわからない。だが今さら、笠井に三上を監禁させて共犯関係を築こうとする渋沢は滑稽だった。笠井が三上に好意を抱いているから、だから閉じこめると信じている。渋沢の思いやりなのかもしれないが余計なお世話だ。
(それに、それは貴方が藤代にしたいことじゃないか)
小瓶を握って、放してを五、六回繰り返したところで笠井はポケットから手を出した。
「先輩は変わってませんね」
「そうか?」
「はい、全然」
感情を込めて言うと、三上は戸惑った顔になった。
「お前、何か悩みでもあるのかよ」
「ないですよ」
「お前の方が変わってねえし」
(でも先輩、俺の服の下には首輪があるんですよ。手錠の跡もまだ残ってる)
「藤代な、あいつ離婚するかもしんねえ」
「え」
笠井は思わず台所を見た。静かだ。三上の声は小さいから聞こえてはいないだろうが。
「昨日、電話で言ってた」
三上がため息を吐いて顔を寄せてくる。首の周りの布を笠井はぎゅっと掴んだ。
「まだ、まだ一ヶ月くらいしか経ってないのに」
「まあ、あいつらしいけどよ。……いや、こんな話をしたいんじゃなくてよ、あのな……」
なぜだか三上が早口になる。
「変わってないっていうのはさ、昔からだけどお前危なっかしいんだよな。何かわかんねえけど、やらかしそうで目が離せないって感じが」
だんだんことばのスピードが上がる。
「いつかとんでもねえことをひょいっとやりそうで怖い。変な話だけど。お前ってしっかりしてんのによ。……だから、悩みとかあんまり思い詰めんなよ」
「先輩」
では三上にとって、自分はそう映っていたのか。
いつからか笠井は自分の心の重さを理解していた。重油に似た感情の質量は、ときに笠井を疲労させ、息苦しくさせた。捨ててしまいたかった。できることなら。
照れたように、三上が視線を背ける。昔から三上のことばは温かかい。だからずるずると残った熱を求めてしまっていたのだろう。
笠井にとって三上はきらきらしたものの象徴だった。サッカーや一軍レギュラーといった輝くものの詰まった箱の中身だった。そこにはあの引きずるような影が落ちていない。渋沢や藤代ほどの他人を傷つける輝きではなく、それでも自らの手には届かない。それでも見ているだけで幸福になれそうな錯覚に陥らせてくれる。
笠井は何と言っていいのかわからなくなった。無意識にセーターの上から首輪を確かめていた。混乱していた。嬉しかったが、自分の目の前にあるきらきらしたものについて考えると今は悲しかった。
俯いて笠井は小さな声で礼を述べた。
それから心の中で三上に別れを告げた。
(さようなら、三上先輩)
呟くと、きらきらした美しい世界はぼやけた。ぼやけたのではない、遠くなった。正常な空気の満ちた軽やかな世界。本当は最初から、自分が入ることのできないものだった三上を乗せた当たり前で綺麗な世界が。
笠井から小瓶を受け取った渋沢は撃たれたような顔をしていた。時折笠井に注がれる視線は柔らかく笠井を責めている。三上が帰ってから数時間が経過していたが、笠井はまだ手錠も鎖もつけられていなかった。
「渋沢先輩、三上先輩や藤代は貴方とは違う」
笠井はことばを選びながら言った。喉がからからに渇いている。
「……貴方の考え方はあの二人にとって辛いばっかりだ」
(だから誰も幸せになれない。渋沢先輩も藤代も)
笠井は咳き込んだ。のろのろと渋沢が水の入ったコップを二つ運んでくる。煽ってから笠井はトイレに駆け込んだ。ひたすらに気持ちが悪かった。
(渋沢先輩、俺あのとき)
しゃがみ込んで笠井は嘔吐した。大切なものは自分の懐で隔離すべきだと考える渋沢を、誰にも害されないように己が庇護しなければならないと信じている渋沢を、あの藤代が受け入れられるはずがない。渋沢を藤代は理解すらもできないだろう。
胃の中のものをあらかた吐き出して、ふらふらと笠井は渋沢の近くに戻った。
「ほら、渋沢先輩も。水飲んで落ち着いて下さい」
渋沢の喉仏がゆっくりと上下する。つけっぱなしのテレビを笠井は横目で眺めた。今は料理番組が流れているが、自分が行方不明になったというニュースは一度も聞こえてこない。人が一人いなくなるのなんて簡単なんだなあと改めて思った。
『次はワイドショーの時間です』
奇妙な色の服を着たアナウンサーが宣告する。
(だめだ)
反射的に笠井はリモコンを掴もうとした。
(今はだめ)
画面に藤代の不機嫌そうな顔が大写しになる。初めて見る表情だった。
藤代の離婚を、アナウンサーはにこやかに宣言した。
渋沢の行動は素速かった。
「どこに行くんですか」
「藤代」
「今行ったって会えませんよ」
渋沢はニュースを聞くなり身支度をととのえて外出しようとした。きちんとした格好をすると、さっきまでの巨大な廃墟じみた雰囲気は渋沢から拭い去られてしまい、一人の立派な大人の男にしか見えなかった。
両腕を広げて渋沢を阻む自分はきっととても貧相だ。
「そんなこともわかんないんですか」
「藤代のところに行く」
「人の話を聞けよ!」
笠井はどなった。引くわけにはいかなかった。
渋沢の瞳に剣呑な色が混ざり出す。
「通してくれ」
「嫌です」
「藤代の近くに行かなくちゃならない」
「わざわざ傷つきに行くんですか」
「そうかもしれない」
「行かせられるわけないでしょう。そんなことのために」
笠井は部屋の中に視線をやった。空の二つのコップ。テレビは既に藤代の離婚から別の話題に移っている。
「笠井」
「嫌だ」
渋沢が手を挙げる。怯えたくないのに体が勝手にすくむ。
祈るような気分で笠井は渋沢を見上げた。首に熱が集まってくる。渋沢の左手が風を切る。
到達する直前に、ようやくそのとき渋沢の巨体がよろめいた。
何が起こったのか、渋沢はわかっていないようだった。体全体に力が入らないのだろう。俯せになったまま、薄茶の目が笠井を不思議そうに見ている。
「よかった……」
失敗するかもしれないと焦っていたため、笠井自身も安心からくる脱力感に襲われかけていた。
「間に合わないかと思った……」
「ど、いう」
自分を拘束していた手錠や足枷は台所だ。ふらつきながら笠井はそれで渋沢を固定しようと努めた。何週間ものつき合いなのだ。使い方は熟知していた。サイズが合わないのでやむをえず、ガムテープを代替にする。
「本当にあの薬、よく効くんですね」
小瓶に入った錠剤を、返す前に数粒、笠井は拝借していた。トイレで砕いた薬をどうやって渋沢に飲ませるかが問題だったが、実際に直面してしまうと涙が出そうにそれは容易かった。
「しばらくこうしてて下さいね」
「なん、で」
「だから、わざわざ不幸になりに行くことないですよ。藤代なんかのために」
藤代は一生渋沢を理解しない。理解できない。
渋沢が苦しそうに息をする。
「さっきからずっとそう言ってるのに。渋沢先輩ってきっとマゾなんですね」
「かさ」
「でも俺はそれが嫌なんです。大切なものは檻に閉じこめておかなきゃだめなんでしょう?」
けばけばしい画面から得られた教訓を笠井は唱えた。まったくもってそのとおりだった。
「お休みって三日間なんですよね。それくらいあれば充分だ。俺が二度と傷つかないくらいに幸せにしてあげますよ」
この部屋は、牢獄だ。
(だけど俺を閉じこめたのが渋沢先輩。渋沢先輩を閉じこめるのが俺。じゃあ檻に入ってるのはどっちなんだろう)
つかの間よぎった考えを笠井は振り払った。窓の外を黒い鳥が飛んでいく。
(了)
渋沢先輩と笠井君てどういう関係なんだろう……と思って書いた記憶があります。
超頼れる先輩なのか、友達の好きな人(渋藤前提)なのか、それとも好きな人(三上先輩)の友達なのか……。
もしかしたら人間の性質的には似たところもあるかもしれないなあと思い、こういう話になりました。
渋沢先輩の狙い通りになったら、爛れた三笠が始まっていそうなので、それはそれで面白かったかもしれません。でも学校にはなるだけ行ったほうがいい。