ブランコの使用申請書を提出すると、机を挟んで相対する職員の眉間にかすかに皺が寄った。皺は白衣の肘部分の皺と相似の形をしている。
「危ないことはしません」
と神宮寺は約束をする。
本当は相手の目を見て言いたいと思った。が、職員の視線が捕らえているのは神宮寺の背後の時計だ。
「体が傷つくような、怪我には気をつけます」
彼女だけではない。
この施設の職員は皆、同じ型の白衣かスーツ、髪を赤の色に染めた揃いの格好をしている。行動も合わせているみたいに全員が神宮寺の目を見ない。
彼女達よりも、神宮寺の目線が低い時分からずっとそうだった。
しばしの沈黙。
部屋の壁には棒と円でデフォルメされた人間の姿が無数に描かれている。青空の下でダンスをしたり、走ったり、輪を作ったり……どの人影も誰かと一緒で、どの人影もとても楽しそうだ。
部屋の扉がノックされる。「お時間です」
ため息。それから申請書に承認印が押される。
「ありがとうございます」
カウンセリングルームから出て行く職員に神宮寺は声をかけるが、相手は振り向かない。
この施設で神宮寺の目を見て話すのは一人だけだ。





研究棟は白い箱を重ねた形をしている。箱の側面にはところどころに指で開けたような丸い窓が並んでいる。色のついたガラス越しに見える風景はいつも歪んでいる。
神宮寺が使用する出入口は磁気カードを読み取って開閉し、毎回カードは回収される。
扉が閉まるのを神宮寺は待った。人の気配も失望も、金属の分厚い扉は遮断する。
出入口にカメラが設置されているのは知っていたが、かまわずに走った。
(また注意されるかもしれないけど)
箱の落とす影から抜け出すと、ようやくドームの天井が視界に入った。
施設は研究棟と運動場を兼ねたドームとで構成されている。研究棟はドームに二辺と一つの角を迫り出し、蜘蛛が獲物を捕食するときみたいに電線を伸ばして円柱を抱き込んでいた。
神宮寺が「生まれる」前に建造されたドームは、今やほとんど残骸だ。屋根を覆うガラスは残っていないし、舗装の石にはびっしりと苔が生えている。ドアは風で悲鳴のように軋む。
草の生い茂るドームの、頭上を走る鉄骨が切り取る空は灰色だ。
研究棟から最も遠い場所、西の端にある壁と同じ色の空。
この空はあの壁の向こうにも繋がっているはずだ。
だが実感はなかった。
小石を蹴飛ばして草の少ない小径を進む。人が踏んでできた道は気まぐれに曲がり、ときにターンして遠回りを強いてくる。
道の先に、ふいに砂利の敷かれた一角とブランコが現れる。
淡い桃色に塗られた遊具には一人乗りの座板が二席、吊られていた。
右の板に神宮寺は腰を下ろす。
伸び始めた髪の毛が頬にかかる。
何もかも色あせて古ぼけた建物の中で比較的このブランコは新しい。
本を開く。
(邪魔だな)
書物の中で見たことのない世界の不思議な物語が展開する。一晩中明かりが灯る眠りのない街、天を突く建物、行き交う人の数はカウンセリングルームの壁の絵の人形よりも多い。地下と地上に伸びている迷路。
(こんな場所は本当にあったんだろうか)
上を歩かなくても進んでいく通路。
知らない世界の知らない物語。
植物に覆われた暗い色の壁が神宮寺の世界の果てだった。
(全部、フィクションの中みたいだ)



思っているよりも没頭していたようだ。
自分の前に待ち人が立っているのを神宮寺は認めた。
「飴村君」
「すっごく集中してたねっ! ねぇねぇ、それって面白い?」
反対側から本を覗き込んでいる。カ、ブ、キ、チョ、ウ、と一文字ずつ区切って飴村は発音した。
「あんまり面白くはない、かな」
「そうなんだ?」
あんなに一生懸命、読んでたのにね、と飴村は言う。
「寂雷は真面目だねぇ。結構、結構」
飴村は何でも知っている。
ブランコの上手な漕ぎ方も、壁のことも。
……かつて手を繋いで飴村は神宮寺を壁の近くまで導いてくれた。ほとんど道のない草木をかき分けてぬかるみを飛び越えた先に壁があった。
ほら、と飴村が前方を指差す。
蔦の這うコンクリートにアルファベットや記号が描かれている。中央が膨らんだ字体や矢印は時間の経過で磨耗し、シャーベットトーンに変色していた。
昔は極彩色だったんだよ、網膜に焼きつくみたいな、と飴村は教えてくれた。
昔の話だ。
神宮寺は頭を振る。
「遠い物語みたいで、ピンとこないんだ」
「寂雷は図鑑は好きなのにね」
「……飴村君は見たことがありますか」
「どうだろうね。……僕はフィルムで見たけど」
飴村の喉をぐるりとチョーカーが囲んでいる。輪郭を神宮寺は視線でなぞった。
飴村は何でも知っている。そう、シャーベットカラーという言葉を教えてくれたのも、飴村だった。
「そうだ、寂雷も見せてもらいなよー。もっと昔の、戦争前のトーキョーの記録もあるみたいだし」
面白そうじゃない? と飴村は言うが。
「僕……私はあまり興味はない、です」
「そうなんだ?」
「うん」
「昔のおねーさん達が着てる服とか、キラキラしたお菓子とか」
飴村は足元の草を踏みながら続ける。
「シブヤには犬の像があったんだ。僕すっごくキョーミあるけどなー。シンジュクにはおっきな目があったんでしょ?」
逆さまから読んだ書物の内容を飴村は口にする。
「僕は」
神宮寺は言い直す。
「私には、たぶんよくわからないよ」
「寂雷は僕なの? それとも私なのかなぁ?」
「僕は僕……だけど」
「うん?」
草の液の匂いがシロップの甘い匂いと混ざる。シロップの満ちたガラス瓶の青い底みたいに飴村の目は光った。
「もしかして、真似っこしてるのかな?」
「真似ではないけれど」
「でも寂雷、そんなに似てないよね」
「似て、はいるんじゃないかな」
「寂雷はラップもやらないしさあ。やっぱりラップにも興味ないの?」
「……はい」
飴村が神宮寺の腕を取り、体を寄せてくる。
糖衣を連想させる衣服の下の肉は神宮寺と同じ生き物とは思えないくらいに薄く、骨は細い。肩口に額が当たるので、自分の首に前髪が触れる。神宮寺は悲しく思った。
絡んだ腕の袖口からはガーゼと医療用テープがのぞいている。






ブランコを漕ぐ飴村の隣で神宮寺は再び本を開いた。巨大な目のオブジェの記述は前の章だ。読み返す。
アクリル製の目は、照明を内蔵していて光る。
鎖が軋む。
飴村の上着が風を孕んで膨らんで萎む。
飴村が上半身を逸らす。神宮寺を見る。笑う。
ドームは音がよく響く。
この時間が神宮寺はとても好きだった。