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飴村が泣いている姿を、一度だけ見たことがある。
瞬きをするたびに透明な水が瞳から溢れて滴っていた。飴村は拭いもせずに突っ立っていた。
次の日見かけたときはその頭の上半分には包帯が巻かれていた。
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その日は朝から落ち着きのない空気が施設に漂っていた。
ドームの上をけたたましい音を立ててヘリコプターが飛んでいく。図鑑で見たままの形態だった。
カウンセリングルームの職員は気もそぞろで、普段よりも短時間で面談は終了した。
飴村は変わらない。
「一緒に乗ろうよ」
飴村の提案に神宮寺はためらった。
その日の飴村の提案は、一つのブランコを二人で漕ぐというものだった。
「危なくないですか」
研究棟の人間はあからさまにこの遊具を好ましく思っていない。怪我をするから、古い設備だから、と神宮寺の目の前で大人は何回も口にする。
「変なの、僕一回もそんなの言われたことないよお」
「そう。そうなんだね」
座板に立つと、神宮寺の脚の間に飴村はちょこんと腰を下ろした。
「それに、ここにはいーっぱい、お医者さんがいるんだよ。ちょっとくらい怪我しても大丈夫だって」
見上げてくる瞳には自分のぼんやりした顔が映っている。
飴村の肩の上では髪の毛が一房、柔らかく撓んでいる。
桃色から先端に流れるにつれて青みがかり、最後は朝焼けの紫になる髪。
耳に残る機械の噛み痕。
「ちゃんと、捕まってて下さいね」
「りょーかい」
合図とともに飴村が地面を蹴る。ふらつきながらブランコは揺れたが、加速とともに不安定さは消失した。髪が風に靡く。
周囲の景色が激しく往復する。膝には飴村の体温がある。甘い匂い。一筋混じる消毒薬の匂い。風の音がする。
「飴村君」
「もっと、もっと!」
悲鳴のように飴村はせがむ。じんわりと熱の浸食を感じながら神宮寺は脛に力を込めた。
「飴村君、離さないで」
「なあに? き、こ、え、な、ああ、い!」
最高点に到達する。
引き戻される。
ブランコを厭う研究員達が部屋を出て行くときの口の動きを思い出す。
(とんだ感傷だ)
作用する力が釣り合っているから、鎖は弛まない。
(結局あの男は過去に生きているんだ)
(よさないか、聞こえるぞ)
(構うものか。似ても似つかない。顔以外は別物だ)
(感傷)
ブランコを漕ぐ。
どこまでも行けるような錯覚。
泣いている飴村。同じくらいの身長だった飴村。
包帯を巻いた飴村にはすぐに会えなくなった。
次に遊んだ飴村は壁まで神宮寺を案内してくれて、それきりだった。
(感傷)
壁に描かれた巨大なハートマーク。塗り潰された真っ黒なパテの縫合跡が目立つハート。
(感傷)
さらに飴村。
分厚いガラスの向こうで手を広げて体を揺らし、マイクを握っている飴村。
まるで摩天楼を繋ぐ細い縄の上を歩いているみたいだった。
そこから落下したら終わりだと理解している表情。
あのときの飴村は、今は神宮寺の脚の間に座っている。
(感傷)
鎖が震えて張力と重力のバランスが崩れる。あ、と思ったときには、飴村の体が神宮寺から離れ、宙を跳んだ。
過去への感傷は釣り合いを壊す。
研究員の目の中に失望の色を認めて、だというのに別段悲しくない自分を神宮寺は自覚した。
ブランコの撤去が回避されたことへの安堵が遥かに優っている。
「なーんか、ピリピリしてたね。あのおねーさん」
「うん……」
診察の最中から毛布のように飴村は神宮寺の体の上に被さっていた。その姿勢のままで研究員を評価する。
「自分がブランコに乗れないからヤキモチ焼いてるのかなー」
「大人はブランコで遊ばないよ」
「そうなんだ?」
生温い息が腹に当たる。
「オトナって退屈だねえ」
たぶん自分はブランコで遊ぶのには向いていないのだろう。
飛び降りた飴村を追うように神宮寺は座席を蹴った。手を伸ばし、桃色の髪に触れようとし――そして振り子の動きで戻ってきた座板で後頭部を強打した。
「まだ痛い?」
「痛くないよ」
ベッドの上で神宮寺は足を伸ばす。爪先から端までは余裕がかなりある。使い込まれた寝具は端がほつれているものの、清潔だった。
研究棟のこの階を訪れるのは初めてだ。
神宮寺の生活する二階よりも天に近いフロア。
ヘリコプターは窓の外にいるが、モーター音は建物には届かない。
「寂雷の包帯姿、僕見たの初めてかも」
レアだね、とようやく顔を上げて飴村は笑う。
(君は、いつもどこか怪我をしている)
今日は耳と脚、その前は手首……飴村の体からガーゼと包帯が消える日はない。メスと針の痕、上昇し急激に降下していく数値、目が眩むような頭上のライト。
「飴村君は大丈夫かい」
「僕はヘーキ。楽しかったよ。あんなに高く飛んだの、初めてだもん」
寂雷のおかげだね、と飴村は続けた。
「でも危ないよ」
(僕……私が、もっとしっかり掴んでいれば)
「寂雷、怖かった?」
「少しだけですが」
怖かったのがブランコの速度なのか、飴村をまた失うことだったのかは、自分でもあやふやだ。
部屋の明かりが、点滅する。一回、二回。飴村の表情も変わる。笑う、無表情、どこか寂しそうになり、また笑顔になる。
「飴村君」
「調子悪いみたいだね。この部屋」
表情がない飴村が天井を見る。
ベッドに這い上がってくる。
「古い建物だもんね」
もう一度だけ部屋の中は明るくなり、それから薄暗くなった。
「消えちゃった」
しばらく待ったが、施設の人間は誰も来ない。膝立ちの飴村の掌を神宮寺は己の手で包み込んだ。ぞっとする程に小さい指と爪だった。
「ねえねえ、寂雷。出ちゃおっか」
「駄目ですよ。今度こそ本当に」
「つまんない。僕は出る」
飴村の鼓動を神宮寺はカウントする。規則正しい脈拍。生きている心臓。
「……私も行きます」
「そう来なくっちゃ! いつもは怖いおねーさん達がいるから冒険できないもんね」
「ちょっとだけですよ。すぐ戻らないと」
飴村が飛び降りる。
「待って下さい」
今にも走り出しそうな腕を神宮寺は強く引いた。
光の乏しい廊下は埃と錆の匂いがする。
飴村は、ある角は曲がり、別の角は無視した。階段を上がって施錠されていない部屋に入る。気まぐれに棚を開け、引き出しの中身を引っ掻き回す。かと思うと今来た道を引き返す。
(人がどこにもいない)
どの場所にも人の気配はない。まるでさっきの停電で、皆消えてしまったみたいだ。
(それに飴村君には、目的地があるのかもしれない)
桃色の液体がフラスコの中で微睡む冷蔵庫の部屋を後にして神宮寺は考える。
飴村の行動にはいつでも意味がある。
(それに……きっと飴村君が……僕達がここにいることにも意味がある)
「飴村君」
「何かな?」
飴村は振り向かない。
「君は、もしかして人がいない場所がわかってるのかい」
「おねーさん達、誰もいないねぇ」
「うん」
「皆死んじゃってたりして! そしたら世界に僕と寂雷の二人だけだ」
ガラスの向こうで歌っていたときみたいに細い手首と指が動く。
「だったら面白いのにね」
言ってから「あはは、何てね」と付け加えた。
「飴村君、そんなことだめだよ」
「寂雷は僕と二人っきりはイヤなんだ?」
「……そっちじゃないよ」
言葉にしてからカメラも監視もない場所で飴村と二人であるという事実を、神宮寺は強く意識した。
「例えば皆休暇をとっているとか」
「うんうん、他には」
「別の仕事で忙しい、とか」
「そうだねー」
四方が水槽の部屋を飴村と横切る。水の満ちた水槽の光の反射率は飴村の瞳と同じだ。
透明な板に無数の自分と飴村が映る。
薄氷の上を歩く飴村。手を引かれている自分。
「お客さん、とか」
「きっとすっごいスペシャルゲストだね」
「王様、とか」
「王様かあ、暇な王様なんだろうね」
「研究所の偉い人、とか」
「……」
階段を上がる。
空気の匂いと温度が変わる。埃と錆、消毒薬の混じった匂いから、消毒薬と甘い砂糖菓子の匂いに。
飴村が目指しているのは、おそらくこの先にある砂糖菓子の匂いが強い一点だ。
「じゃあ、研究所の王様かなっ?」
飴村が振り向いた。耳横の長い一房が遅れて弧を描く。
「そんな人、いるのかな」
「いたら面白いよねー」
(ここに王様がいる、とする。その人だったら知ってるんだろうか、僕と飴村君がここにいる理由を)
そびえるのは白く、分厚い扉。その厚みでも遮断できていない甘い匂いが漂ってくる。
(頭がくらくら……する)
飴村が服の下から「何か」を取り出した。唸るようにそれは鳴き、リボンのついたマイクに変化した。