(お菓子屋さん、というのはこんな場所なのかな)
訪れたことのない場所を神宮寺は夢想する。
真っ白い清潔な部屋。走り回れそうなくらい広い部屋。
数字を刻むランプが点滅している。甘い匂い。
壁を占拠する機械からは無数の透明な管が伸びている。管を通るのは蜂蜜みたいな黄色、桜の花のピンク色、菫色、ミルク色のカラフルな液体だ。運ぶ管はすべて中央に置かれたベッドに繋がっている。
真っ白いシーツ。
眠る人影。
飴村が毛布を剥がすと甘い香は強まった。
「どう、寂雷」
横たわる小さい身体を、桃色の髪の毛を、神宮寺は見下ろした。
「どう、って……」
匂いの発生源は知らない飴村だ。
「僕はこの人に初めて会った……と思う」
「変なこと言うなあ。毎日ボクと遊んでるじゃない?」
「遊んでるけど、飴村君とこの飴村君は違うよ」
眠っている飴村の腕にはガーゼが貼られている。
(この人も怪我をしてるのか)
「こいつ、ずっと目を覚まさないんだよね。寂雷が生まれる前からずっと」
「ずっと……そうなんだね」
固く瞑られた目蓋はぴくりとも動かない。
「飴村君。どうしてこの人に会いたかったのかな」
「会いたい? 僕が?」
「だってこの部屋に来たかったんだよね?」
ショーケースじみたベッドから、飴村の視線が逸れる。
「そう、だね。そうだ、そうだけど」
「うん」
逸れて、また飴村はベッドを注視する。そこにあるのはケーキではないけれど。
「そうだ、寂雷。こいつにキスしてみなよ。起きるかもしれないよ」
「え」
「おとぎ話にもあるよね? チューしたら魔法が解けるんだ。寂雷だったらできちゃうかも!」
「待って。それはちょっと」
赤い小さな唇を神宮寺は見る。飴村と同じ色、同じ艶、同じ形。
「ほら早く」
飴村の手が、眠る飴村の身体を弄る。管の繋がる身体、包帯、テープ、ガーゼ。
甘い匂いの中には、かすかにどこか懐かしい、爽やかな匂いが混じっている。
神宮寺が寝かされたベッドでも、この匂いは嗅いだ。
「飴村君!」
「しないの?」
神宮寺は腕を伸ばして、開かない目蓋に触れた。この下に隠れている色を確かに自分は知っている。どんな風に涙を流すのかも。
「この人を起こして、君は何がしたいんだ」
「別に。目的なんてないけど?」
「本当に?」
「そうだよ。ただ、ざまあみろって思うだけだよ」
うっすらと浮く手首の血管。
輸血の跡。
目の前で、言葉を吐き出す飴村の血液が流れる血管。
たくさんの飴村を繋ぎ合わせて生きている飴村。
(目も、血も、たぶん内臓も)
枕元の籠には春の若葉色の上着が丁寧に畳まれている。それにプレゼントに飾る赤いリボン。
「この飴村君のお世話をしている人は、飴村君のことが好きなんだね」
ガラスの向こうで、マイクを握って歌っていた飴村。叫ぶように、泣いているようにリズムを刻んでいた飴村。
ガラスに阻まれて声は聞こえなかったけれど、聴きたかったと神宮寺は思った。
「……お前に何がわかるんだ」
乾いた声で飴村が吐き出す。
「何も知らない癖に」
初めて耳にする低い声。ガラス越しではない声。
「飴村く、」
言葉の途中で止める。
(ああ)
足音。
廊下の先から誰かが来る。
世界に二人ぼっちではないことを思い出す。
神宮寺を睨む飴村の心拍数が跳ね上がる。
「ごめん」
その身体を神宮寺は抱え上げた。飴村の抵抗はない。
そのまま部屋を飛び出す。
角を曲がる瞬間に、長身に長い髪の白衣の男が病室に入っていく姿が見えた。それからあの爽やかな優しい匂い。
腕の中の飴村は身を硬らせている。
「意気地なし」
「そうかな」
「弱虫」
「好きに言って下さい」
「その、話し方をするな!」
闇雲に走ったせいで、知らない場所に来てしまった。
カウンセリングルーム同様、この部屋の壁にも絵が描かれている。矢印、記号、シルエット、ペンキの跡の目立つアルファベット。
部屋のスペースの九割は並んだベッドだった。自由奔放な壁画とは対照的に、まったく同じ型のベッドは均等な距離で並べられている。
神宮寺は飴村をベッドに座らせた。座るなり、飴村は感情を爆発させた。
「その喋り方も、髪型も嫌い。嫌い。大、大、大、大、大っ嫌い」
飴村は罵倒する。
「チャンスだったのに。寂雷のせいで全部ダイナシだよ」
「僕が何かしても、あの人は起きなかったと思うよ」
「つまんない言い訳はキライ」
(あの長い髪の人が飴村君のお世話をしてたんだろうか)
病室の飴村を覚醒させることができるのは、それでは彼だけではないかと神宮寺は思う。
「あの人が研究所の王様なのかな」
「知らない。……あいつが一番偉いんじゃないの」
「きっと、あの人しか飴村……さんの目を覚ませないよ」
「あいつが? あいつがキスしろってこと? あいつに手術以外の何ができるっていうんだよ」
あはは面白い、と飴村は足をばたつかせて吐き捨てた。
「あいつが飴村乱数に何してるのか教えてあげようか」
さあ、寝てよ。
飴村は命じてベッドから飛び降りる。
(僕が飴村さんの役なのか)
神宮寺は大人しく従った。ベッドの金具に爪先が当たる。
神宮寺にはこの寝台は窮屈だ。
飴村は隣に立ったまま動かない。
薄目を開ける。
ひどく真剣な顔で飴村は見下ろしている。悲しそうな、寂しそうな表情だった。
それから飴村の手がおそるおそる神宮寺の頬に触れた。甘い痺れが走り、神宮寺は固く目を瞑った。
一瞬は永遠だ。
死ぬまで忘れない。
「……これだけだよ」
「うん」
「寂雷の意気地なしはあいつ譲りなんだね」
(やっぱりあの人は飴村さんが好きなんだ)
「あの飴村乱数のために、他の飴村乱数を切り刻むのは平気のに」
「本当に平気なのかな」
神宮寺は疑問を口にする。自分と似た顔の彼が、飴村に非道な行為を働く姿は、想像さえしたくなかったが。
「何か言いたいことでもあるの?」
「わからない、けど、でもあの人は」
「あいつは?」
神宮寺は左頬に指を当てた。痺れはまだ柔らかく残っており、ほのぼのと神宮寺の身体を温めた。
「そういうことは起きてる飴村さんとしたい、って思ったんじゃないのかな……」
「は」
ふざけてる、と飴村が口を歪ませる。
「遺伝子が一緒だからわかるって言いたいのかよ?」
「そうじゃないよ。けど……僕も同じ気持ちだから」
告げると飴村は黙った。
飴村の気持ちも、彼の気持ちも神宮寺にはわからない。
ただ胸にあるのは、怒っている飴村はどうしてこんなに綺麗なんだろうという考えだった。
ベッドのサイズは飴村に丁度いい。
飴村の口の中が甘いことを神宮寺は今日初めて知った。
規則正しく並んだ歯列を舌でなぞる。ぞくぞくした感覚が背筋を駆けた。
接触した指の腹から伝わる飴村の鼓動に集中する。
「離せよ」
「ごめん」
「謝るな!」
病院に侵入したときに見せたマイクを飴村は取り出す。あのときの華やかな意匠はなぜか消失していた。
マイクを枕の下に飴村は置く。
それから乱暴に服を脱ぎ捨てた。丸めて三台隣のベッド目掛けて投げる。
最後に靴を放ると、裏に張り付いたハートの形の小葉ごと靴は部屋の隅まで飛んでいった。
「寂雷も脱いで」
「あ、うん……」
ボタンを外していると飴村のあばら骨が目に入る。骨と骨の間には四桁の数字が刻印されている。
「前のボクは0213だったよ」
会ってないけど。飴村が説明する。いつか綿菓子を食べてみたいと語っていた飴村。笑顔を作るのが下手だった飴村。
舌でさくらんぼのへたを結んでみせたのはもう一人、前の飴村だ。
「飴村さん……あの人は」
病室の飴村には刻印はなかった。
「あいつは01」
「最初の飴村君なんだね」
「どうだろうね。ボクもお前も作られてない時代のことだもん」
飴村の指が神宮寺の脇を撫でる。
「……ぅっ」
「寂雷の数字はどっこかなー」
(僕も飴村君も同じ目的でこの場所にいる)
飴村のあばらにおずおずと神宮寺は触れた。包帯とガーゼ、傷痕の残る華奢な身体に触れるのは恐ろしい。
「あ」
「僕の数字、何番なんだろう」
問いに飴村は目を伏せた。
「知らない。興味ないよ。どうでもいい」
どこか傷ついたような声だった。
「そうだね」
「寂雷って本当につまらない話しかしないね……ねえ、なんで笑ってるのさ」
「笑ってる?」
「嬉しそうだよ、なんか」
身体の下で飴村は呆れている。
何でも知っている飴村が指摘するなら、そうなのだろう。
「いろんな飴村君が知れて嬉しいんだと思うよ、たぶん」
悪態も怒った表情も呆れ顔も初めて見た。
「変なの」
「……飴村君も、ちょっと変だと思うけど」
「変じゃないとこういうこと、できなくない?」
飴村の指が蠢く。
「う、うん……」
飴村の指が触れる場所から熱が増殖する。
(溶けそうだ)
熱に浮かされたまま、神宮寺は身体を動かした。
「じゃくらい」
自身の熱源よりも飴村の内部はもっと熱い。
飴村は目を瞑っている。小刻みに太腿の筋は動き、絡めた指の爪が白くなる。
二回目の唇もやはり甘い。
唾液の糸が繋がる唇が開く。掠れた音。甘く、耳にこびりつく音。
「……ごめん、じゃくらい」
「謝らないで」
「わかってる」
でもごめん、と飴村は続ける。
「ごめんね」
声の音階が上がっていく。甘い声が、甘い匂いが部屋を満たす。
(この部屋はもしかしたら、昔はたくさんの飴村君達が生活していて)
カウンセリングルームのピンクの主線で描かれたシルエットを思い出す。
(皆で絵を描いたり鬼ごっこをしたりラップをしたりして)
無数の飴村が遊んでいる様を神宮寺は想像する。ブランコに乗って、本を読んで、甘いものを食べる。
(飴村君)
飴村の言葉が途切れる。唇から漏れるのは、ばらばらになって意味の消えた音だけだ。
震える睫毛は濡れている。
飴村君は助けて欲しいと言わないんだなと思った途端に、頭の中が白く点滅し始めた。
(どうして僕は一人しかいないんだろう)
壁まで案内してくれた飴村、泣いていた飴村……まだ身長が自分より高いときの飴村、抱き上げてくれた飴村……神宮寺は思い浮かべる。
意識が果てる直前に、無数の飴村はベットに腰掛けている様を神宮寺は幻視した。無数の自分と向き合い、頬に掌を当て、指を絡めて、キスをする。涙を拭う。
そしてどの飴村も助けを求めない。
神宮寺は無力で、してあげられることなんて、何もなかった。
(了)