級友達には馬鹿にされるが、衢はコロニーの図書館が好きだった。埃の匂いの肌寒い空気に満たされている室内。災害の際は書物を守るために酸素の供給が絶たれ、内部の人の生存は保証されない。夥しい量の途方もない価値のある書物の前では人間の命が軽くなる。
それでも閲覧室の、空に向かって大きく開かれた窓から射す光を浴び、薄暗い本棚に陳列されて微睡む分厚い背表紙達を眺めていると、衢の心は凪いだ。
ただ、その感情には多分にホームシックが混じっている。自覚があったから友人には説明できなかった。
衢の両親は本が好きだった。書斎にも食事のスペースにも本があった。比べ物にならないが、コロニーの図書館は子供のときに通っていた図書館と雰囲気が似ている。
幸せな生活だった。優しい両親と過ごす穏やかな日々は。
衢の養父も、また本が好きだった。医者である彼が好むのは図鑑や論文雑誌が主だ。私はあんまり電子データは得意じゃないんです、と彼は言う。いつか消えてしまいそうな気がする。
養父の仕事を眺めているうちに衢の将来も自然と決まっていた。衢が養父と暮らす星には医学の学校がない。医者になるには家を離れて近隣のコロニーに設立された学校に入らなくてもいけなかった。学校は試験に受かりさえすれば、幼い衢であっても入学できた。
(私に気を使う必要はないですよ)
歳下に対しても丁寧語で話す養父を、自分は何といって説得したのだったか。
記憶。
その日、許可証を首から下げ、威圧感を放つ黒い本棚の群れに近づいたとき、衢は先客がいるのに気がついた。この、禁帯出の本のある部屋は、ほとんど衢しか利用していない。
(きれいな人だな)
すぐに察知できたのは、最初は展示物かと思ったからだ。
先客の背は衢とあまり変わらない。薄桃色の髪に、ミルク色の肌。白衣の袖からは、花弁のような爪がのぞいている。
衢の学校は年齢や種族を問わず、門戸を開いているから、同じ大学の生徒かもしれない。
「あの」
首を伸ばして部屋で一番大きな本棚の最上段を確認している先客に思わず、衢は声をかけていた。
「私に、話しかけているのかい」
「何か本を」
「君は司書なのかな。……許可証があるから違うのか」
「学生です、あのあっちの学校の」
指差したわけでもないのに、先客は正確に壁越しに医学科の棟の方角に首を曲げる。
部屋の一角には虫の羽音に似た機械音が微かに響いている。
(この人、もしかして)
自動人形、あるいは身体の機械化は珍しくはない。戦争と同時に、戦争が終わってからも、本来の目的を超えて求められる技術だ。怪我人の治療から、寿命の延長、環境への適合、美容、ちょっとした暇つぶし。
「……を探している」
とある地学雑誌の名前を先客は口にする。
「入り口近くの棚にあると思いますよ」
「そうか、ありがとう」
先客が方向を転換すると、羽音の高さが変わった。彼……または彼女は許可証を体のどこにもつけていない。
それからも衢は、図書館に来る度に先客の姿を見かけた。先客はたいがい禁帯出の書物の並ぶ部屋にいたが、稀に部屋の外の古代文明の記録の間や、最新の経済情報が開示された紙を眺めていた。言語や分野は先客には関係なかった。本を読むときは、衢の養父と同じくらいにすさまじく速く、静かだった。
司書や他の利用者と話さない先客が、話しかける人間は一人だけだった。物陰のソファに寝転がる男。暗がりに潜んで、こちらを窺っているしなやかな動物のような男。淡い色の髪と、美しい翠玉の色の目を持つ男は、しかしその繊細な外観を裏切り、粗雑だった。音こそ立てないものの、図書館で本を開いていることは一度もなかった。先客と並んでいるときは、中庭に映し出される立体映像機のような美麗さではあったが。
先客の問いかけに肩を竦め、首を振る。彼が口を開けて笑うときも顔を顰めているときも、先客は表情を変えずに頷いていた。
(友達……なんだろうか)
人と人との関係は他所から見るだけではわからない。
幼くはあったが、養父の周囲に広がる混線した人間関係に接していた衢もそれはよくわかっていた。
(少し、あの人は怖い)