先客に声をかけられたのは、コロニーの式典の影響で学校が休講となった日だった。図書館の入り口で、衢は先客の姿を見かけた。
「こんにちは」
「こんにちは……」
まるで今まで観察していたことを見咎められているようで、衢の心拍数は上がる。
「君を待っていた」
「僕を、ですか?」
「頼みたいことがある」
「僕にできること、なら……」
答えると、「ありがとう」と先客は頭を下げた。羽音と一緒に、薄く花の匂いがした。木の花の匂いだった。意外だ、と衢は思い、いつの間にか先客がいつも機械に囲まれて生活しているように考えていた自分を認識した。
「図書館に入りたい」
「え」
「私一人では入れない。機械は、人間と同伴でなければ」
「でもそんな制限聞いたことないですよ」
図書館は自動人形であっても、利用できたはずだ。
「説明すると長くなる」
先客が瞬きをすると、髪と同じ桃色の睫毛が一瞬だけ影を落とした。
「私のこのコロニーでの区分は家電になる。料理用の……自動調理機のカテゴリで登録されているんだ」
「料理、ですか?」
「そうだ。入管時の制限との兼ね合いでそうなった」
「そんなことって……」
「驚くことではないよ。部品が旧式だと、そういう扱いになる、こともある。いつもは幻太郎につき合ってもらっていたけれど」
そろそろ嫌がられる頃合いだと思っていた。と先客が続けるので、衢はあのソファーを根城にしていた美しい男の名前が幻太郎であると知った。
「お友達なんですよね?」
「彼は私の仲間だ。一緒に旅をしている。もう一人いる」
「三人で」
「ああ」
先客は頷く。衢の答えを待っている。
(もしかして司書に話しかけないのって、話しかけないんじゃなくて話しかけられない……家電扱いだから……なのか?)
家電は本を読まない。家電は書物を求めない。家電に応対するのは業務内容には含まれない。
目の前の先客は息をしているし、自分の意思がある。活字を読むし、本を求めている。
衢は唾を飲み込んだ。
(落ち込むな。父さんなら……あの人ならどうするか考えるんだ)
「あの、貴方のお名前は……すみません、僕は衢って言います」
右手を差し出すと、「アメムラ」と超銀河団の端の住民に多い、甘い菓子の名前の入った苗字を先客は答えた。右手が両手で包まれる。「乱数」と。左手は温かく、右手は冷たかった。



ゲートを通過した乱数の足取りは迷いがない。長い白衣をなびかせ、ガラスのドームに覆われたホールを横断し、禁帯出の書物の部屋に向かっていく。
「飴村さん、待ってください」
「衢もあの部屋に用事があるのかい」
「いや、そうじゃなくてですね」
入館前の注意事項を衢は反芻する。機械は常に管理者の身近に携帯すること、音を立てないこと、退出する際には同伴すること。
「僕は飴村さんの近くにいないとまずいんです」
「まずい」
「その……規則なので」
言葉を探しながら、けど幻太郎さんは全然いなかったなと衢は思い出した。
「それは私の側にいないと、衢が罰則を受けることがある、という意味かな」
「いえ、そういうことでは……」
たとえば持ち込んだ機械が館内で問題を起こしたとする。そのときに管理者が決められた範囲にいなければ罰はある。
説明すると、そうかと乱数は頷いた。
「衢が罰されるのは私も本意ではないよ」
「その、飴村さんを信用してないわけじゃ、ないんです」
「いや、君の主張も最もだ」
気分を害した様子もなく乱数は続ける。
「私には倫理観がない。倫理に基づく規定を破る可能性がある」
「ないんですか」
「ない」
乱数の回答は簡潔だ。美術館に飾られていそうな顔をしているが、小さな唇から出てくる内容は恐ろしかった。
「捨てたんだ。必要がなかったんだろうな、きっと」
ぶう……んと、羽音がする。羽化した後の虫の立てる音。
「それはどうして……思ったんですか」
乱数は目を伏せた。初めて見る表情だった。床のタイルの並びに答えが書いてあるかのように、白と黒の模様を見つめた後に
「わからない」
とだけ、返事をした。
記憶。
乱数と衢の頭上を、白い鳥が飛んでいく。
記憶。




********




記憶。
幸せな生活だった。優しい両親と過ごす穏やかな日々は。
ある日、空から爆弾が落ちてきて乗り物もろともすべてが爆破されるまでは。
衢の記憶はそこでしばらく途切れる。真っ白い病室で、誰かにしきりに話しかけられる記憶。人が首を振る記憶。
乗り物は燃えて爆ぜ、衢と数人を残して形もなくなっていた。記憶なんてないのに。
(君も危なかったんだよ)
手首に残る母親の指の跡を見たときに、なぜ自分が生きているのか不思議だった。
記憶。
(君もあの人が助けてくれなければ。危なかったんだ)
示された長い髪の男が養父だった。父親も母親も身寄りがなかったから、衢も身寄りがない。一緒に住みませんか、と養父は言う。
記憶。




********




正午になると、中庭に設置された円盤と球を組み合わせた立体投影機が一度だけその姿を現した。
「古い機械だね」
「はい。コロニーができたときに、別の星から持ってきたんだそうです」
投影機の本当の姿を眺めることができるのは、この時間の中央ロビーだけだ。
「すみません、僕の用事を先に済ませてしまって」
「気にしなくていい。私には時間がたくさんある」
乱数の物言いは、冗談と本気の判別が難しい。
「閉館になっちゃいますよ」
衢が課題を済ませる間に、乱数は殺虫剤のラベルの歴史の本を読んでいた。薬剤の力で絶滅した虫の名前の羅列は夢の中の呪文みたいだった。
投影機が作動し始め、中庭が青く輝き始める。今日の幻覚は海だ。
淡い色は晴れた空と同じ色。乱数の目の色だ。
(そうか、あの石の)
衢の養父は、物に執着しない。有名人ではあったから、おそらく高額と推測される物品の贈答は頻繁にあった。そのいずれも養父は断るか、すぐに寄付に回していた。
一度だけ養父が関心を示した贈り物が、その石だ。世話になった医師から送られた青い宝石は、あまり高価な石ではないが、ほぼ完璧な球体に細工されており、珍しく雨季の間、養父の手元にあった。球を満たす青の色は養父の虹彩の色であり乱数の瞳の色でもある。
乱数と養父の相似を衢は認めた。身長の違いはあるが、白衣と目の色、書物に対する関心。
(だから僕はこの人が気になったのかもしれない)
「飴村さんが探してる本は、何なんですか」
「植物誌だ。たぶんかなり昔の」
「たぶん、ですか?」
「そう、推測している」
曖昧な言葉に反して、書物そのものに対する乱数の情報は的確だ。衢が生まれるよりも前、投影機が製造されるよりも、戦争よりも前に出版された目録だった。膨大な地域を網羅し、分類している書物群は禁帯出の部屋のさらに奥の小部屋に収められている。
入ることができるのは図書館で働く人間だけだ。
「申し訳ありません。当図書館はその巻は所蔵しておりません」
「え」
乱数の指定した巻の閲覧を申請した衢は、受付ですげなく断られた。
「でも」
隣の乱数を見る。
「他の場所にあるか、聞いてほしい。ここのコロニー以外でも構わない」
「あ……はい」
けして乱数の側を見ない受付の人間に、衢は再度質問する。「この一帯には所蔵する館はありません」と。答えには何の色もなかった。




中庭にはまだ、海原が広がっていた。漣の模様が広がってすぐに消える。鳥が飛んでいる。
「すみません、お役に立てなくて」
「いや、役に立ったよ。ありがとう」
少なくともこの星域に存在しない本だということがわかった、と乱数は続ける。
「でも、アーカイブも残ってないなんて」
「古い本にはそういうこともある」
記憶。
己の体を構成する部品を説明するときと同様に、乱数は淡々と述べる。
空と海の間には鳥が浮かんでいる。
青い風景の中で、鳥だけが白い。
衢がそのような感想を話すと、乱数は首を傾げた。
「衢は詩人だな」
肩にかかる一房の髪の先端はわずかに色が違う。
「そういうことを言っていた詩があった。空も海も青いのに、その中にいる白い鳥は青くなれず寂しくないのか、という……ような詩だった。もうない星の詩人の話だ」
「きれいな詩ですね」
乱数の口吻では伝わりにくいが、青い海をどこまでも静かに進む白鳥の姿が、ひどく美しく寂しい風景であることは想像できた。
「そうだね。でも海が青いことと、空が青いことは事象が違うよ」
「それは、そうですけど……」
(あ、飴村さんらしい感想だな……)
中庭の空は現実だが、海は機械による幻惑だ。では鳥は……鳥は現実なのか、仮想なのか。
「鳥はどっちになりたいんでしょうね」
空なのか、海なのか。
乱数の体の奥から聞こえる羽音は、波音のようでも、遠雷のようでもある。