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その日を境に、乱数を見かけることはなくなった。
記憶。
記録。
おそらく乱数の記憶には欠落がある。事故前後の衢の記憶がぽっかり抜けているのとは異なり、時間の経過による摩耗に似た腐食だ。
短い雨季が終わり、乾季に差し掛かるとコロニーは、連合の要人が出席する式典の準備でにわかに忙しくなった。
休暇中に衢は養父の家に戻り、養父の手伝いをする。
衢君は休んでいて下さい、と養父は言ってくれたが。
「衢」
コロニーに戻った衢が乱数と再会したのは、セレモニー会場の近くだった。
「飴村さん」
人の流れを避け、衢は建物の影に移動する。この木は以前はなかった。式典のために植えられた木だ。
「どうしたんですか、こんなところで」
日の光の下で見る乱数は、花壇の花や舞い飛ぶ蝶と並ぶと異物感が目立つ。人工物と自然物の混じった……ただ、それは乱数自身が己をどちら側にも置いていないせいのように衢には感じられた。
「君は変わったな」
「へ?」
「背が伸びた」
確かに最近、関節が痛い。高身長の養父とばかり接していたので自覚はなかったが、この前まで同じほどの背丈だった乱数と向き合うとわかる。
「そうかもしれません」
「そうか……子供は成長するのか」
乱数のつむじを衢は眺める。変わらない乱数。はるか昔の話をしても違和感のない乱数。
「ありがとう。思い出させてくれて」
「あの、飴村さん」
雨季の間に、ついに立体投影機は壊れてしまった。修理を待つ古い機械は、今は布に覆われて隠者のごとき姿を衆目に晒している。
「飴村さんがこの前、探していた本のことなんですが」
羽音。
記憶。
「ずっと前にその……ずっと見つかってないそうです」
戦争で焼けた本。写しも存在していない書物。
養父の客には、書物に詳しい人間が多い。治療のさなかに聞いた情報を衢は続ける。
「ただ収録されている内容についてはいくつか噂がある、みたいです。飴村さんはご存知かもしれないですが」
「君は親切だな。優しいというのか、もう少し君にふさわしい表現があるんだろう」
「そんなことはないです」
乱数はしばらく言葉を探しているようだった。それから
「私はその巻を読んだことはないよ。読みたい、と思っていた。私の頭上よりずっと高い棚にあったから」
(飴村さんの過去の話だ、これは)
「そのときは天に届くみたいな巨大な本棚だと感じていたけれど、あれは私が小さかったからなのか……」
声が掠れると、機械音がひどく目立つ。
「私以外の誰かと一緒にその本の背表紙を見ていたよ。二人ともまだその本には手を伸ばせなかった。身長が足りなかったから。どちらが先に読めるか……そんな話をした気がする」
「昔のお話、なんですよね」
「そうだよ。昔の話だ」
途方もない昔の話を乱数はする。乱数の言葉に混じる波の音、遠雷。戦争の前から変わらない音。
(本当にこの人はそんなに生きてるんだろうか)
「衢」
「はい」
何かを掴もうとするように、乱数は宙を見ている。
「図書館で話した鳥の色の話を覚えている」
「ああ……はい」
「君はどちらが幸福だと思う。鳥にとって」
発声の度に、機械音が希釈されていく。機械の声から人間の声へ。
急に授業で指名された気分で衢は考える。
「……空、でしょうか?」
回答した。
回答してから不充分だな、と感じ
「鳥は飛ぶものなので、長くいる場所に近い方が生きやすいんじゃないでしょうか」
とつけ加えた。
「そうだね。生きていく上で覚える緊張感は少ない方が望ましい」
「飴村さんは、どう思います……」
欠落する記憶。断絶する記憶。連続する記憶。
どうして記憶が抜けているのか、両親の死を覚えていられなかったのか。級友達の記憶は連続しているのに。
人間の記憶は連続していなくてはいけない。
僕は覚えていない。
「鳥の視覚は人間と違う。人間の見ている空も海も、鳥には違う色に見えている可能性がある。人間が鳥の色を変えても、それは鳥にとっては空の色でも海の色でもない」
欠落した記憶を持つ乱数は、鳥類の生態の話をする。
「どちらも鳥にとっては不幸ってことですか?」
「どちらの色も変わらない。だからどっちでもいいんだよ。海でも空でも、鳥を寂しいと思うのも色を変えるのも人間のエゴだよ」
「鳥の色は変えられないですよ……」
「私はエゴが好きだよ、衢」
空の色か、海の色の瞳で乱数は言う。
「エゴがあるから、私は旅をしている」
……養父に贈られた宝石は雨季が終わる頃に、孤児院に寄付されて運営費となった。あんなに大切そうに手袋の指の間から眺めていたのに。新しい孤児院ができた途端に、養父はその石を渡してしまった。
おそらく養父の虹彩の色と、乱数の色は違う。
「そんなに綺麗だったんだな、あの投影機の映像は」
でも、あの機械は壊れてしまいました。直ってもたぶん元と同じには。
告げると
「残念だ」
と乱数は反応した。
「一度見てみたかったよ」
「じゃああのとき、海は見えてなかったんですか」
衢の問いに
「そうだよ。専用のレンズがなければ無理だ。私には幻影は見えない」
答える乱数の瞳の色はきっと養父とは違う。海の青。空の青。
確かめたく思ったが、乱数は瞼を閉じていた。
幻覚は見えない。そう言いながらも空を見上げる姿は、子供の頃に存在したという圧倒的に聳える壁のような本棚を幻視しているようで、それはたぶん。
記憶。
記憶。
記憶。
記録。
記憶。
稀薄。
記憶。記憶。
記憶。記憶。記憶。
鳥が、飛んでいく。
(了)