この国の夜と朝の境目は曖昧だ。東の空は、地平線の下で火が焚かれているように、一晩中明るい。やがて雲を払い、太陽がすみれ色の空に姿を現す。昇り行く朝陽は日本で見るものと違い、薄い膜に覆われていてまだ眠りの中にいるみたいだった。
父親の出張に連れられてこの国に来てから、ベッドでじっと空を眺めるのが寂雷の習慣だった。中学校の入学式までまだ間があるから、見聞を広めるにはちょうどよい時期だというのが父親の言い分で、海外は初めてではないが寂雷も地図でしか知らない国には興味があった。かつては観光業で栄えていた国、今は観光業で得た資金を元に設立した多くの学園研究都市を抱える国。
遠い国でも、寂雷のスケジュールは日本にいたときとほとんど同じだ。変わったことといえば、朝食が豆と緑の葉の浮かんだスープとパンになったこと、午後は社宅から外に遊びに行くこと……これは父親との交渉が必要だったが決められた場所しか行かないこと、午前に四月から通う学校の課題に取り組むことを条件に許された。
父親に許可された地域は同系列企業の社員の生活圏の一部であり、金網と壁に囲まれた一角だけだ。現地の図書館や博物館はその範囲に含まれない。
比較的安全な国ではあるが言葉も慣習も異なっている、と父親は主張する。現地の人間の言葉は日常のものであれば、すでに寂雷には不自由はない。ただ父親の心配は理にかなっているから、従った。
その日も昼食後に、寂雷は社宅の密集した地域を後にした。生活用水の流れる川に沿い、平らな石の積まれた河原を抜ける。右手に広がる森林が、急に途切れると金属と石で構成された遺跡じみた廃墟が現れた。
土が盛られた石舞台の上に人の気配を確認して、寂雷は足をかける。
「遅れたかな」
「昨日とぴったし、同じだよ」
先客が振り返る。長い髪の毛が動きに遅れて翻った。朝方のすみれ色と夜が訪れるときのばら色の空の間の色をした髪の毛。
「時計もないのに、わかるのかい」
「だって昨日から八万六千四百秒経ったってことだよね?」
敷石はところどころがくり抜かれている。穴の中に座する彼の体は半分埋まっている。
「そうなるけど……」
寂雷の伸ばした手を彼は掴む。寂雷の掌に収まるほど小さい手だ。髪を踏まないように注意して穴から引き上げた。袖から覗く二の腕にはガーゼが貼り付けられている。
「ねえ、今日は何して遊ぶ?」
尋ねてくる、ギリシア文字と同じ音の名前を持つ彼のことを寂雷は、あまり知らない。
廃墟の数十メートル先に聳えるコンクリート製の壁が、午睡の太陽の光を浴びている。あの壁が現在の寂雷の行動圏の限界だ。灰色の壁には黒々と五角形のマークがペイントされていた。
彼はこの国でできた唯一の友人だ。
社宅に置き去りにされていた学習雑誌の付録を、寂雷は取り出した。単純な升目の双六だが鮮やかな配色を彼は気に入ったようだ。折り畳んだ紙を広げると歓声を上げた。
「これは双六という遊び」
「すごろく」
「先にゴールした方が勝つゲームだ」
「ゲーム!」
勝つか負けるか、わからない方が面白い遊びだね、と彼は言う。
「うん」
「ゴールはここ……じゃないんだね。スタートって書いてあるや」
升はとぐろを巻いて配置されている。蛇の尾の部分から始まり、中央の頭を目指す並びだ。
花弁の形の爪が描かれた青い円を撫でる。
一番強いのはやっぱり大きな数なのかなあと彼は聞く。
「もう少し複雑だよ」
サイコロも彼の手の中では金平糖のように輝く。
どうして、外側にあるのがスタートで、内側にあるのがゴールなんだろう。彼は不思議そうだ。
「ゴールしても外には出れないんだ。面白いね」
「面白い、のかな」
「寂雷は外に出たいの?」
君はどうなのかい。問いを返そうとして、なぜかその質問はひどく不適切であるかのように寂雷には感じられた。
最初に遭遇したときに、彼は廃墟の敷石の穴の中で眠っていた。穿たれた穴はまるで誂えたみたいに膝を抱えて側臥する彼の大きさにぴったりだった。
デパートの製菓売り場に陳列された、美しい缶に入ったチョコレート菓子を、一瞬だけ寂雷は連想した。彼が纏っているミルク色の衣服も、伏せられた睫毛の落とす影も、咥えた飴玉も、異国で遭遇するにはあまりに人工的だった。
長い髪の毛が一筋、穴の外に溢れていた。光に透けて細工途中の飴のようだった。それがなければ気がつかずに通過していたかもしれない。
ガラス越しに観察する気分で、じっと寂雷は待った。待つのは得意だった。日がつかの間陰り、再び晴れる。影がじりじりと伸び始める。
かちり、と固い物がぶつかり合う音がした。そのときは飴を噛む音とはわからなかったから、すぐに彼が目を開けたのには驚いた。もしかしてあの音はゼンマイが噛み合った音なのだろうかと錯覚した。
(君は……)
(僕は)
神宮寺、と名乗ると、彼は首を傾げた。滑らかに寂雷の母国語が唇から飛び出してくる。
(僕、ってなに)
(僕は一人称。俺とか私とかの仲間だよ)
(僕、ボク、俺、私。一人称。君は、僕なんだね)
彼がゆっくりと身を起こす。背中を覆うほどに長い桃色の髪が風を孕む。
「外は楽しいのかなあ」と地面に座った彼は質問する。
「でもでも寂雷は外から来たんだよね?」
頷くと「楽しかった?」と彼は重ねて尋ねてきた。
サイコロを振る、三の目。升目を駒代わりの飴玉が前進していく。
「楽しいだけじゃあ、ないかな……」
「退屈なんだ」
「それ以外にも」
「変なの。楽しい以外のことなんて、あるんだね」
また三の目。一回休み。先を行くコインに焦った様子もない。
「やっぱり寂雷は面白いよ」
「初めて言われた」
面白いと形容された経験はない。日常で投げつけられるのは、真面目、優等生、気味が悪い……という言葉だ。
「それって長く生きてるからかなぁ」
桃色の髪は肩を流れて背に沿い、いくつもの渦を地面に形成している。渦を丁寧に避けて寂雷はコインを進める。この升に止まると六、進む。彼がサイコロを振る。三。
「君と変わらないと思うけど」
「そうなんだ! 背が高いから、もう二歳くらいだと思ってたよ」
「二歳」
意味がわからず、寂雷はおうむ返しをした。冗談を言っている風ではない。いや、いつだって彼の言葉は雲の向こうにいるみたいに捉え所がないのだけれど。
(もしかしてこの国では年齢の数え方が違うんだろうか)
反射的に頭を過ったのは文化の差異だ。
たとえば成人するまでは皆同い年である、とか。数年に一度、歳を取るとか。
「君は、何歳なのかな」
「こう見えても一歳だよ。えっへん。この前、誕生日が来たんだよね」
「誕生日は一年に一回、来るんだね」
「外の世界は違うの?」
「外もそうだよ」
そっか、誕生日って楽しいんだよ。毎日が誕生日ならいいのにね、と彼は笑った。
「でもそうしたら、あっという間におじいちゃんになっちゃうね」
「そう、だね」
サイコロが三の目を示す。ワープ。寂雷のコインに、ピンク色の飴が並ぶ。
「ねぇねぇ、寂雷の誕生日っていつなのかな?」
寂雷の誕生日は、新年を迎えてすぐだ。
説明すると彼は残念そうな顔になった。
「そっか。じゃあケーキはしばらくお預けだね」
「甘いものが好きなんだ」
「うん」と首を動かす彼からは、甘い匂いがする。
「やっぱお祝いしないとだよね。何か欲しいものとか、あるかな?」
「それなら君にも必要なんじゃないのか。君だってもう誕生日が来ている」
ようやくサイコロが他の目を出し始める。一の目。一の目。一の目。
「んー、けど寂雷の方が誕生日が早いよね? だったら、先にお祝いしないとダメなんじゃないのかなあ」
自身を一歳だと語る彼は、瞼と同じ韻を持つ名前の彼は、頑なだ。誕生日とは楽しいものなのだから絶対に祝われるべきだと強弁する。
「じゃあさ、じゃあさ、して欲しいことでもいいよ」
「わかったよ」
最終的に、根負けして寂雷は受け入れた。とはいえ、とっさに欲しいものなんて思いつかない。寂雷の答えを待っている彼の高揚が伝わってくるせいで、断りにくい。
(欲しいもの……して欲しいこと……)
髪の色と同じピンクの色が、虹彩に散っている。
「じゃあ……」