嵐が来る。
強い風は朝と夜の境界を吹き飛ばす。稲光でひび割れた空が一度、二度、出現し、部屋の中は闇に包まれる。雨粒が屋根を叩き、遅れて車輪を転がすような雷鳴が響く。
父親と居間で並んで嵐の音を聞きながら、寂雷の心はあのときの廃墟に戻っていった。
(そんなことでいいんだ?)
髪を編ませて欲しい。
願望を告げると、彼はひどく意外そうだった。
(うん。前から気になっていて)
でも編んだ経験はないから、うまくできるかわからない。
(そんなの教えてあげるよ。得意なんだ。そういうの。そっかー。寂雷は無欲だなあ)
(そうでもないさ)
一度触ってみたいと思っていた。口に出すと、その思いの強さに自分でも驚いた。認めてしまうと、先端まで一色の、彼の髪を直視できなくなった。
(寂雷も伸ばしたらいいのに。きっと似合うよ)
(そうかな)
肩につく己の髪に手を伸ばす。受験勉強を言い訳に、散髪を怠けていた髪。ふと髪が伸びるまでの時間を思い出す。
生まれて一年で、果たして彼ほどに伸びるものだろうか。
(君は……君は何が欲しい)
(そうだねぇ。特にないなあ。だって何でも持ってるもん)
地平線から滲み出した薔薇色の光が、桃色の髪を溶かすように透かす。
(ねえ、寂雷。この場所、昔はお墓だったんだって)
(それは、遊ぶ場所ではないんじゃないかな。さんざん遊んでおいて虫がいい話かもしれないけれど)
(そうなのかなあ。なんでここで遊んじゃいけないんだろう。ここにはもう誰もいないと思うよ。だってずっと同じ場所にいてもきっと楽しくないもん。さっさと復活してどこかもっと楽しくて明るい、毎日が誕生日みたいな場所に行ってるよ)
(お墓は生きてる人のためでもあるんじゃないのかな)
生きている人間を救うための、日常を平穏に送るための装置。曽祖父の墓参りをしたときの記憶から、寂雷は語った。
(ふうん。でも今は誰もこのお墓には来ない……誰のためでもないんだね。そっか。忘れちゃったんだ)
ゆっくりと冷えていく空気を指が掻き回す。目の前の壁がべったりと墨を塗られたように黒くなっていく。影の長さが帰宅の刻限を寂雷に教えてくる。
(明日、また来るよ)
(うん、ばっいばいびー。また明日!)
彼はこの嵐の中でもあの穴にいるのだろうか。時計の秒針を寂雷は確認する。一秒、二秒、三秒……百三十六秒……三万七千二百秒……。
廃墟の穴に彼は眠っておらず、寂雷は安堵した。草が千切れ、砕けた小石で敷石には無数の細かい傷がついている。
彼が不在の穴は、記憶のものより一回り小さい。
「神宮寺、寂雷君ですね」
振り返ると知らない大人が立っている。医者が着るような白衣に身を包み、学年で四番目に背が高かった寂雷よりも頭二つ分以上大きい。
彼の名前を、知らない大人は口にする。会ってあげて欲しいと言う。最後に、君に。
頷くと、左掌で赤いリボンが乾いた音を立てた。
大人に付いて箱のような建物の扉を寂雷は潜る。病院として使用されているのか、白衣の人間が行き交っている。
奥の部屋で、円形の穴に彼は納まっていた。髪はベールのように全身を覆っていた。
(穴じゃない、これは棺だ)
嵐の続きのように薄暗い部屋で、棺の安置された場所だけがほのかに明るい。
膝を曲げて仰臥した体勢は、彼が寂雷を待っているときと同じだ。棺と彼の小さな身体の間にはシロツメクサがいっぱいに詰められていた。部屋を満たす囁き声と自分の心臓の音。……ほら昨日の嵐で……落雷が……失敗した……。囁き声は残酷だ。
ゼンマイが噛み合う瞬間、飴が砕ける瞬間を寂雷は待つ。
来ない。
花を、と誰かが寂雷に言う。渡されたピンク色のばらを寂雷は棺に差し入れた。眠っているようにしか見えない。
意識して初めて触れた彼の髪は柔らかく、指の間をはかなくこぼれていった。生命が入っていない体でも毛髪は伸びる。
血が出てるよ、と指摘されて気がついた。髪の毛で切った……と考えたが、花に棘が残っていたらしい。
可哀想に。手当しないと。
指に痛みはない。
悲しいのは最初だけですよ、と白衣の男は言う。
部屋を出る寂雷は、二人の人間とすれ違った。大人と子供だ。大人の目は片方が緑の虹彩異色、やはり長身。子供は寂雷よりも小さい。黒の喪服に、桃色の短い髪。剥き出しの首と手首に包帯を巻いている。右手のピンクのばらの花。チョコレート缶の中に横たわる顔と同じ顔立ち。青の目。視線は合わない。二人組はレリーフの施された明るい色の棺に向かって歩いていく。
*********
夕方に家に帰ると、珍しく父親が先に帰っていた。祝日だから、と父親は言う。今日は友達はどうしたんだ、と。
(友達……?)
意味がわからず寂雷は繰り返す。
ほら、いつも遊ぶ友達がいると言っていたじゃないか。……今度家にも連れて来たらいい。
(そんな子、いただろうか)
いつも一人で外で遊んでいたはずだ。うまく返事ができなくて寂雷は窓の外に視線を遣る。朝と夜の、昼と夜の区別が曖昧な空は、今日は明確に夜の色を見せている。
「あっちの研究所も流石に稼働していないな」
父親は地平線を指して説明する。普段はあの研究所は二十四時間、動いているから。
(二十四時間は八万六千四百秒)
計算式が頭を過ぎる。当たり前のことだ。なんで今、そんなことを思い出すのだろう。それにポケットの中の赤いリボンも。まるでずっと握っていたみたいに皺の寄った布地を寂雷は撫でる。
近づけた己の指先から、なぜか甘い匂いがする錯覚を覚えたが、漂って来たのは消毒薬の匂いだけだった。
(了)