乱数は甘いものが好きだ。
乱数はズボンを履いている。
乱数のスカートは短い。
乱数は美術部に所属している。
乱数は体が弱い。
乱数は教室で前から二番目の席に座っている。
乱数は私のことを幻太郎と呼ぶ。
「いー名前だよね」
と乱数は言う。飴を噛む。甘いものを噛んでいる癖に虫歯が一本もない。
『夢野幻太郎』
その名前で小生を呼ぶ人間は、学校で乱数だけでした。文芸部の部誌に載せた小説を読んでいるのも、おそらくは乱数だけ。私が用いる幾多の筆名から、なぜ乱数が『夢野幻太郎』を気に入ったのかはわかりません。一番胡散臭く、一番美しい名前だったからかもしれません。乱数はきれいなものが好きでした。
「クラス替えの自己紹介のときに名乗ればよかったのにね。げんたろーって呼んでちょって」
「ええ、失敗しましたよ。千載一遇のチャンスを逃してしまった」
私達の通う学校には制服はありません。風紀を乱さない衣服を心がけるように、程度の注意書きが校則にある程度です(そうでなければ乱数のスカートの長さは許されないでしょうね)。乱数はだいたい赤いリボン、緑の上着の下にスカートやズボンを合わせる格好をしていました。私はつるつると背ばかりが伸びてしまったものですから、同じ格好をするわけにもいかず、長いスカートを袴のように捌きながら通学しておりました。
「貴方だって、二つ名があるでしょう」
指摘すると「名乗ったわけじゃないけどね」と乱数は小さい声で言いましたので、私はそれ以上追求するのを止めました。
「今日は部活には来るんですか」
「さあ?」
楽しそうだと思ったら行くよ、と乱数は返事をする。
廊下を楽しそうにクラスメイト達が走っていきます。廊下は走るな、という規則はありませんから。ピンク色の髪の同級生達はみんなとても楽しそうで、私は目の前で飴を舐める乱数を眺めました。同じ顔なのに、そのときの乱数はひどくつまらなさそうに、私の目には映りました。それは私の願望であったのでしょうか。
この学校の生徒は、数人を除いて同じ顔と名前をしています。





高等部に入学した当初は私も驚きました。
全員が「飴村乱数」の名前を持ち、同じ身長、同じ髪型、同じ顔、同じ声。たぶん同じ遺伝子。委員長も乱数ですし、図書委員も乱数。クラスメイトは私以外は乱数です。
これは学費が格安だとしても、とんでもないところに来てしまった。高校進学を喜んでくれたおじいさん、おばあさん……家族には申し訳ないが、これはいけない。
日々脱出計画を練る私は、そのうちだんだん愉快になってきました。やけばちな愉快さです。その愉快な気持ちには地面に落ちたアイスクリームに蟻が徐々に集る様を観察する好奇心が多分に混じっていた。忌避すべきものを見守るのは楽しい。
学校集会のときなんかは壮観です。講堂中を埋め尽くす桃色の頭、甘い匂い、小鳥のような騒がしい声。ベルトの金具がぶつかる金属音。息ができなくなるほどです。
(好奇心は猫を殺す、とは言いますけどね)
東棟の二階、廊下の突き当たりにある教室は日当たりがよく、外が見渡せるので私の気に入りの場所でした。元は美術室だったこの部屋を私は勝手に文芸部の根城としていました。
(では、僕の死期はいつになるんだろうか)
向かいの棟では、乱数達が戯れ、グラウンドでは乱数達が不思議なワルツを踊っている。
私を幻太郎と呼ぶ乱数は、誰とも戯れないし、誰とも踊りません。いえ、昨年の、高等部の入学式の頃はおそらく輪に混じっていたのだと思います。私はその頃の乱数を認識できていない。
(君の小説は、いつもどこか寂しいね)
人のいない冬の教室で乱数がそう感想を述べてから(部誌を差し出して「サインちょうだい」というおねだりのおまけもありましたが)、私は乱数と話すようになりました。
(貴方だっていつも寂しそうですよ)
もしあのときそう告げていたら、私達は口を聞くようにはならなかったでしょう。まるで、安い恋愛小説の台詞だなと思い、そのときの私は言葉を喉の奥に閉じ込めていました。
寂しさは、この学校の生徒には不要な感情でしたから。
「やぁやぁ!」
「……おや」
教室のドアが開いて、乱数が入ってきました。
「楽しくなりたく、なりましたか」
「やだなあ。僕はいつだって楽しいのさ」
「そうですね。貴方は楽しいのが好きだ」
文芸部兼美術部の部室の中央の椅子に乱数は座ります。
「はしたないですよ。脚を開き過ぎです」
「幻太郎のえっちぃ」
ふふ、と春の陽気のように乱数は笑います。思考を溶かすような笑みです。砂糖とスパイスでできていると嘘を吐かれたら信じてしまいそうでした。
「てっきり、今日は保健室かと思ってましたよ」
「結婚するんだって、保健室のおねーさん」
「おやそれはめでたいお話ですね」
乱数が鞄から双眼鏡を取り出しますので、私もご相伴に預かりました。細かい格子の組み合わさった正門に向かって、女性が歩いていきます。この学校では正門が開放されるされる時刻は決まっています。この時間帯ならば、十七時に間に合うでしょう。
女性は遠い土地に旅立つような大きな荷物を抱えています。
肩の上で切りそろえられた髪。春の空気に白い首筋が寒々しい。足を引きずる歩き方は花嫁になる人間に似つかわしくはないが、
(マリッジブルーであるとか、単に退職が不本意である。たとえば政略結婚、両家の間の陰謀。あるいは結婚は建前で本当は知ってはいけない、重要な事実を知ってしまった)
人の心の深部は計り知れない。
自分のことでさえ、わからないことがある。
「乱数、貴方はあの人のこと、好きだったんですか」
「どうしたの。ヤキモチ?」
幻太郎が一番だよ、と白々しく乱数は吐き出し、私に体を預けてきます。細い鳥のような骨、柔らかい重み。顎に当たる髪の毛のこそばゆさ。
「おねーさんは、みんな大好きだよ」
(貴方達はみんなそう言いますね)
乱数達は、華奢で柔らかい。
乱数達は女性との交際を好む。とんだ漁色家だ。
「保健室の先生……なんというお名前でしたっけ」
「んー?」
「小生、こう見えて健康優良児ですので。入学以来、一度もお世話になっていません」
そもそも怪我や病気をすると、お金がかかりますからね。
「幻太郎、足速いもんね」
びゅーん、と乱数の手が動きます。
「だいぶ変わった苗字ではなかったですか。有名な小説家と同じ」
「そうだっけ」
忘れちゃったなあ……と乱数は呟きます。今日は一緒にいるときは一個も飴を噛んでいないのに。甘い息でした。





新しい保健室の教諭探しは難航しているようで、保健室はずっと封鎖されていました。
その間、乱数はどこで休んでいたのかわかりません。保健室が機能していた時期と同じく、授業中にふらりといなくなる生態は変わりませんでした。
私以外のクラスメイトは保健室が閉まっていることなどたいして気にしていないようでした。乱数達の日々の囀りには保健室の話題は毛の先ほども掠っていません。
(保健室を利用するのは乱数だけだ)
英語の時間に、隣から回ってくる手紙の文面を私は確認します。最初は複雑に折られた手紙に苦労したものですが、今は手慣れたものです。手紙の内容は他愛のないものが多く、購買部のお菓子の入荷情報ですとか、服の最新アレンジだとか、ちょっとした校内の噂。今日、独特の丸文字が綴るのは
(プリンセスいたよ)
右隣の乱数に私はハート型の手紙を渡します。
(珍しいな)
プリンセス、と称される生徒はこの学校に二人いました。一人は、文芸部兼美術部兼ダンス部に所属する乱数で、利用頻度から保健室の姫と呼ばれています。本人は嫌がっていました。侮蔑の匂いが隠れていないからです。 もう一人は中等部に通う生徒で、数少ない乱数ではない女子学生です。彼女は高貴な家柄の生まれ故に姫なのです。
乱数達の噂によれば、学校の理事長に連なる血筋であり、世が世なら月を統治している可能性もあった人物、とのことでした。普通に生活していれば、まず私と関わりのない人種である彼女は、しかし相当な問題児でした。 まず学校に来ません。
そしていざ登校しても、授業には参加せずに麻雀やトランプ、花札……要は賭事ばかりをしていました。けして飼い慣らせない猫のような姿は、乱数達の花園の中でくっきりと鮮やかでした。
彼女の影響で、中等部の乱数達は麻雀が打てると聞いています。
(とんだカリスマだ)
もし彼女が読書家であれば、乱数達は小説を好むようになるのかもしれません。二人きりの文芸部もさぞや、賑わうことでしょう。
もっぱら最近の私は「夢野幻太郎」の筆名ばかりで書いていましたから、クラスメイト全員が私を「幻太郎」と呼ぶようになるかもしれません。
私を「幻太郎」として接する唯一の乱数は例によって欠席です(机の中に交換日記のノートが入っていましたから、学校には来たようです)。
部活動の一環である日記に乱数が書く内容は、授業中の手紙と同程度に無邪気で益体もない。ですが、私は乱数との交換日記が好きでした。




文芸部兼美術部兼ダンス部兼演劇部の部室に入ると、滅多にないことですが乱数が先に部室にいました。床にはスケッチブックが散らばっています。写真のような精緻なオニヤンマとデフォルメされたアキアカネが一枚の画用紙に並んでいました。
「幻太郎、遅いよ」
「麿は乱数と違って真面目に授業を受けていただけですにゃあ」
「猫なのに偉いねえ」
偉い偉い、と乱数は片手で私の頭を撫でました。冷えた指でした。
「世紀の大偉人の夢野先生に僕、教えてほしいことがあるんだよね」
「おや……今日の下着の色だったら、無理ですよ。履いてないので」
「アハハハハハ、面白いなあ。でも嘘だよね。風邪引くもん」
「御想像にお任せしますよ。で、なんですか」
「百科事典って、あるかな?」
「百科事典……何か調べたいことでも?」
ならば図書室にでも……とは私は言いません。図書室は乱数達の逢引の場所だからです。乱数達が侵入してこないのはこの部室と保健室などの限られた空間だけでした。
「重石にしたいんだよね」
「では事典でなくてもよいのでは。拷問に使うなら、それこそ石の方が調達しやすいですよ」
「違うよお。もー、僕がそんなひどい悪戯するわけないじゃん」
「では、そういうことにしておきましょう」
準備室に古い電話帳があるのを私は思い出しました。積まれた黄色の分厚い本には、聞き覚えのない住所が聖書の言葉のように並んでいます。あんなに頁数がある癖に電話帳の半分は白紙でした。
「押し花ですか」
「花じゃないよ」
そう言って乱数が見せてくれたのは、ハート型の小葉です。
今の季節に外に生い茂っている何の変哲もない白詰草。ただその草は葉が一枚しかない。残りの葉は人為的に捥がれていました。
「最初は五つの葉っぱだったんだよ」
「五枚」
四つ葉でさえ、私は見たことがありません。四つ葉が生まれるのは、何万分の一の奇跡的な確率と聞いてます。五つ葉となれば、さらに発生確率は低くなります。
「気持ち悪いから千切っちゃった」
あっさりと犯人は言い放ちます。
「一枚あれば充分だよ。そう思わない?」
「そうですか」
緑のハートを慎重に私達は頁の間に挟み込みました。
「忘れないようにしないといけませんね」
「そうだね。ここにあるのは、僕と幻太郎だけの秘密だからね」
「はい」
交換日記にも書いたらメッだよ、と乱数の言葉に私は頷きました。