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正門が開放される時刻は決まっている。午後は十七時と十九時、二十一時に鳥籠じみた鉄格子は解かれる。
朝礼で保健の教諭が紹介された際はちょっとした騒ぎになりました。
(今度はおにーさんだ)
(背が高いね)
(おにーさんなのに、髪が長ぁい!)
(変な名前)
あんなに保健室に興味が薄かったというのに。乱数達は一斉に新たな登場人物の名前を囀り始めました。
(じんぐう)
(神宮寺)
(雷?)
(じゃくらい、って読むんだよ)
(神宮寺寂雷)
(なら寂雷だね)
(だね)
授業中も乱数達はその話題ばかりです。弾丸のように行き来する手紙を見ているだけで、私でさえ彼の専門家になれそうです。身長、年齢、医師免許を持っていること、しばらく海外で働いていたこと、趣味、配偶者はいないこと……。
彼が廊下を歩いているときに乱数達は集団で纏わりつき、彼の情報を得ているようでした。
(迂闊な男だ)
『神宮寺寂雷は埋立地で出会った乙女を探している』
彼の赴任した次の日、数学の時間に被弾した手紙に私は心中で大きな溜息をつきました。恋愛は私達くらいの年齢の人間には重要事件です。特に乱数達は閉塞した空間で生きているせいか、その傾向が強く見られました。
埋立地、と乱数達が物騒な名で呼ぶのは学校の外れに位置する廃墟でした。かつては特進科のための実験棟であった、と生徒手帳には記載されています。火事で焼失した棟は、崩れた壁の一部と立ち枯れた木々を残した姿で放置されているのですが、棟の中庭と思しき場所には時折誰かが立ち入っている形跡がありました。
私は埋立地をこっそり墓地と呼んでいました。
根拠はあります。
一般生徒の出入りは禁止されているため、遠目に確認した程度ですが、中庭部分には掌くらいの大きさの正方形の石が敷かれているのです。その石の数は私が入学した時分よりも明らかに増えており、まれに何かが石の上に置いてありました。花だったり、人形だったり、菓子だったり、と法則性は見出せませんでしたが。鴉が啄むのか、菓子は供えられた次の日にはもう消えていました。
(最近、あの石を観察していない)
墓地は部室からは見えない場所にあります。文芸部に乱数が入部してからというもの、私は部活にかかりきりで不穏な場所を気にかけている暇がありませんでした。
「貴方達も男性に関心を持つんですね」
休み時間に話しかけると、隣の席の乱数はきょとんとした表情で私を見返しました。
「そうなのかなあ?」
「そうですよ。神宮寺寂雷の話ばかりだ」
「そうだねえ。寂雷は面白いしね」
乱数は脚を組みます。甘い匂い。
「それにさあ、ほら僕達、おねーさんとはキスしたことあるけどおにーさんとはしたことないから」
「キス、ですか」
「アハハ、何真っ赤になってるの。可愛い」
乱数はけらけら笑います。美術部の乱数が見せるのと同じ笑みでした。
「……だって」
乱数が名前を呼びます。
名前は呪文。
この乱数にとって、私は『夢野幻太郎』ではない。
「したことあるでしょう。キス」
「……ふふ」
私は薄く笑います。巾着袋から赤い箱を取り出しました。
「食べますか」
「これは……なに?」
「昆布ですよ」
「昆布ぅ?」
「はい、昆布のお菓子です」
白い粉の塗された昆布をおそるおそる……といった風に乱数は摘み、顔を顰めました。
「酸っぱい、これ」
「初めてですか」
乱数は昆布を噛み、指についた粉を舐めました。
「しょっぱいよ」
「そうでしょう、そうでしょうとも」
これが君のキスの味なのかなあ?」
「……ふふふふふ」
もう一枚差し出した昆布を、今度は怯えずに乱数は受け取りました。
私のクラスで、彼の話をしないのは乱数だけでした。すなわち文芸部と美術部とダンス部と演劇部と書道部に所属する乱数。ただ一人、私を幻太郎と呼称する乱数。
いや、この言い方はフェアではないですね。私から乱数に彼の話題を振ったことはあります。乱数が再び保健室を利用するようになった時期に。
「乱数。貴方は今回の保健の先生には興味がないんですか」
「保健の先生……ああ」
画用紙に鉛筆を走らせながら、乱数は顔も上げません。開かれた図鑑の頁ではフンボルトペンギンが悠々と泳いでいます。
「ジングウジ先生のことかあ」
「はい、その人です」
「みんな好きだよね。あの男の人」
乱数の手元でペンギンは丸くデフォルメされ、ぬいぐるみじみた姿に変わっていきます。
乱数は黙っています。私はなぜかざわつきがおさまらず、胸元に手を遣りました。いつもの乱数であれば、こうしたときは甲高い声でびっくり箱のように喋るはずなのです。鎮痛剤のように、弾丸のように、私の思考を奪うほどに。
「先生と話したりはしないんですか」
私の声は他人のもののようでした。
いいえ、他人です。
考えているのは私、話しているのは文芸部の夢野幻太郎。夢野幻太郎はいつだって冷静なのです。
「……しないよ」
話すことなんてない、と乱数は言います。
「保健室では布団にくるまってるだけだもん。何か話す必要があるの?」
「はは」
部屋が暗くなり、甘い匂いが強くなった気がします。
私は外を見るふりをして窓枠に寄りかかりました。
「幻太郎、どーしたの?」
乱数の声は、平素のものに戻っています。先ほどの仄暗さはきれいさっぱり消去されている。その切り替えに目眩がします。
「いえ……天気が崩れないうちに帰りたいなと思いまして」
「今日は晴れらしいよ?」
「うっかり洗濯物を、干してきてしまって。シーツがそのままなんです」
「具合が悪いの?」
「いえ……いいえ、いいえ。すみません、図鑑新しいものを持ってくるのを忘れてしまって」
私は早口で謝罪します。
「変だよ、幻太郎」
「小生は不思議ちゃん文学少女ですよ、通常営業です、普通なんです」
「……まさか、あの男に何かされたのか」
厳しい言葉と裏腹に、その声は私を労わるものでした。そこには私への害意はなかった。
私は嘘吐きですから。嘘吐きが本当のことを言っているときはわかるのです。
「いいえ」
私は否定しました。その否定をどう、乱数が捉えたのかはわかりません。恐竜の写真のついた函に鳥類の図鑑をしまうときの、乱数の横顔は言及を許さないほどきっぱりしていました。