私の話はこれでおしまいです。
ただ乱数の恋愛に関連して、うっすら見聞きした面白くない話と、少し面白い話が残っています。
その話をしましょうか。





まずは面白くない方からお話いたしますと、実は私は朝礼で紹介される前に保健の教諭を知っていました。
正門が開放される時刻は決まっているから、私と赴任前に学校に来た神宮寺先生が同じ時間に帰宅することもある。あるのです。これは乱数も知らないことでしょう。
鉄格子が解けた先には、エレベーターが設置されていて乱数達以外の人間は、みなそのエレベーターに乗って地上に帰るのです。
「こんにちは」
同乗する私に、神宮寺先生は挨拶します。
「こんにちは」
ずいぶんと背の高い男だ、と私は感想を持ちました。今度お世話になります。保険医の……と彼は名乗ります。壁に背をつけている私よりも三十センチ近く高い。並んだら乱数がすっぽり隠れてしまいそうな大きさでした。
「君は……」
「初対面なのに失礼ですが……壊れてしまいますよ、そのままでは」
彼の左手にある物を私は指差しました。
「そうでしょうか……いえ、そうかもしれません」
「どうぞ、これを」
返さなくていいです、と私は鞄の中の図鑑から函を取り外し、彼に渡しました。表紙の孔雀と目が合います。真っ白い孔雀でした。
「ありがとう」
神宮寺先生は素直に受け取り、宝物を扱う手つきで花冠を函に納めました。
(迂闊な男だ)
乱数と電話帳に小葉を閉じ込めたのと同じ日のことでした。





少し面白い話は、私が乱数に神宮寺氏の話をさせてしまった後に起こりました。あれから私と乱数の間には特に変化はありませんでした。乱数は保健室に行き、たまに部活で図鑑を見ながらスケッチをする。
乱数達の授業中の手紙は変わらず彼の話題ばかりでした。
神宮寺先生は少し元気がないようでした。
(失恋したんだって)
(それは昨日までの話でしょ。今日復縁したって、聞いたよ)
(ええー慰めてあげようと思ったのに)
(おそいおそい、僕なんて一昨日寂雷にアタックしたもんね)
(でも振られちゃったんだよね。うるうる)
(僕、かわいそー)
(よしよし)
神宮寺先生の恋人は土の匂いがする少女であるという手紙が回覧された次の日には、いや実は蜜の匂いのする少女であるという噂が流れ、さらには木の匂い、草の匂い、ミルクの匂い、砂糖の匂い……無視していればいいのに、乱数達はきゃあきゃあと鳴きながら、仲間の匂いを嗅ぎ合っていました。
(恋に恋をしているんですね、可愛らしい)
(面白い考え方をするんだねっ。ねえねえ、明日はどんな匂いの少女が来るのかなぁ)
(さあ……予想もつきませんね)
隣の乱数も元気いっぱいです。食べますか昆布、と私の誘いは断られました。昆布菓子の匂いの少女は彼の恋人ではないからでしょう。
部室に向かいながら、どうしてこんなことを僕はしているのだろうか……と考えました。
神宮寺寂雷は土の匂いがする少女と交際している。
神宮寺寂雷は蜜の匂いがする少女と交際している。
神宮寺寂雷は木の匂いがする少女と交際している。
神宮寺寂雷は草の匂いがする少女と交際している。
神宮寺寂雷はミルクの匂いがする少女と交際している。
神宮寺寂雷はピンクの絵具の匂いがする少女と交際している。
(こんなことをしていたっていつかは)
私はこの日、プリンセスと初めて話しました。部室の前で彼女から話しかけてきたのです。
「あんた、夢野幻太郎だろ」
「はて……そんな珍奇な名前の人物がこの学校にいたとは」
この学校で、私をその名前で呼ぶのは三人目です。
元は切り揃えてられ、清潔にその艶を慈しむように手入れされていただろう髪を、今はあらん限りに乱して露と草で飾った少女を私はまじまじと観察しました。両手いっぱいに野の草を抱えています。こんなに近くで彼女を見るのは初めてでした。
「何じろじろ見て……んだよ」
「これは失礼。人間観察が趣味なものでね。あと私は君の先輩ですよ」
「夢野先輩」
「幻太郎でいいですよ」
「……いいのかよ」
「はい」
部室にプリンセスは大人しくエスコートされます。人を疑わない素直さは育ちの良さに由来するものでしょうか。そんな性質でよくギャンブルなどに手を出したものです。ネギを背負った鴨です。
「して、何用ですか」
「おお」
茶菓子をがっつきながら、彼女は喋ります。食べていないのか……と思ってから、彼女はその素行故に半ば勘当されていたことを思い出します。
「乱数に」
野の草をプリンセスは示します。
彼女のご学友も全員乱数のはずです。
わざわざこの場所を訪れるからには、彼女の目的である乱数は、文芸部の乱数なのでしょう。
いささか汚れてはいましたが、野生の動物じみた危うさを持つ彼女に乱数が興味を持つのはわかるような気がしました。
乱数はきれいなものが好きだからです。
プリンセスが抱えていた草は、すべて同じ野草です。どれも三つ葉を冠する白詰草。束ねられた花は、白の他にいくらか薄桃色の花弁が混じっていました。
「プレゼントですか? そういうのは事務所を通していただきたいんですけどねえ」
「いや、乱数に四つ葉を見つけてもらおうと思ってよ」
口の端の生クリームを彼女は拭います。
「金運のお守りらしいじゃんか。今度の勝負、何がなんでも勝ちたいからな」
「はあ……」
彼女の話を総合すると、こうでした。
原っぱで昼寝をしていたプリンセスは、そこで乱数に声をかけられた。今生えている白詰草の中で、四つ葉は幸運のお守りである、と。どちらが多く見つけられるか勝負しないか、と。
「で、乱数のやつ、四つ葉ばっかり見つけてくるんだぜ」
でも四つより多いのは見つけたことないって言ってたな、と彼女は無邪気に付け加えてきます。
「負けたんですね。貴方が」
「調子が悪かっただけだ」
勝敗がついた後に「これあげるよ」と乱数は彼女に四つ葉の束を渡した。そしてその次の賭博では、魂が抜けるほどに豪運であったとプリンセスは続けます。
「ぞくぞくした」
(それは勝負に? それともその幸運の恐ろしさに?)
「それで来たんですか……」
「まあな」
また見つけてあげるよ、ボクは文芸部にいるからね、と乱数は彼女に告げたそうです。
(僕がいなかったら幻太郎……夢野幻太郎に渡してよ。アハハ、どんな子だって? 会えばわかるよ。長いスカートのきれいな子だよ。嘘ばっかり吐くから、気をつけてね)
「乱数の言った通りだったな」
「乱数も大分嘘吐きですけどね。気をつけた方が良いですよ」
「ふーん。なるほどなあ」
もう一杯、サービスされた紅茶をプリンセスは啜ります。
「似た者同士だから、仲いいんだな、先輩達」
「は?」
ビスケットが口の中で砕けます。
「友達なんだろ。幻太郎と乱数」
(友達)
私と乱数が?
ありえません。何を言ってるんだ、この子は。
強い目の光の彼女はジャムをビスケットに塗っています。
私と乱数の間にあるのは好奇心です。それ以上のものが存在するはずはないのです。
「私と乱数は」
「よく楽しそうに話してた……正直羨ましかったぜ」
「だから、それは」
(それは)
それはなんだ。なんなんだ。
僕が私が俺が所有していないものをすべて持っているだろう少女の言葉になぜ、こんなにも動揺する?
思考がまとまらないまま、私はティーカップに口をつけます。空です。お茶が入っていない。
私は友達なんて要りません。友達が欲しいなんて寂しい人間が言うことだ。
「私は乱数に」
(乱数)
変わって欲しかった。
変わって欲しくなかった。
掌で私は顔を抑えます。
「幻太郎、大丈夫か?」
帝統の声は心から私を、夢野幻太郎を案じている。
「平気ですよ」
(嘘を吐くときはすべてを嘘にしてはいけない)
本当を入れなくてはいけない。本当が混入した嘘は乱数達を混乱させ、わずかに真実から遠ざけます。
乱数は甘いものが好きだ。
乱数の書く文字は一斉に、定期的に変化する。
乱数は外に出たことがない。
乱数は寂しさを感じたことがない。
乱数の舐める飴の数は少ない。
乱数は私のことを幻太郎と呼ぶ。
乱数は乱数から保健室の姫と呼ばれている。
乱数は乱数から、失敗作と呼ばれている。




(了)