ピザを受け取って部屋に戻った。チーズと熱したトマトの匂いに、畳の上で丸くなっていた有栖川が跳ね起きる。
「おー早かったな!」
「……」
「久しぶりだぜ、あったかいメシって」
こんなときだけ恭しく受け取ってくる。王冠を授与されたときのように。……いや、おそらく今の有栖川には王冠や勲章よりもチェーン店のピザ一枚の方が価値がある。空虚な栄誉と違い、ピザは腹を満たし、血肉になる。
紙の箱を有栖川に預け、夢野は冷蔵庫からキャベツを取り出した。ずっしりと重い球から、柔らかい緑色の葉を切り出して洗い、器に盛った。
神妙な顔で有栖川はちゃぶ台の前に座して、畳の縁を撫でている。夢野の配膳のルールはとっくに把握済みだ。
「最近キャベツ安いもんな。旬ってやつだよな」
外側もうまいよな、助かるぜと言いながらも、有栖川は先にピザに手を伸ばす。
「……そんなにがっつかないで下さい。デザートもありますよ」
注意すると、「おお」と何も考えていない声で有栖川は返事をしてきた。
留守番をするのかと思っていたが、夢野が立ち上がると有栖川も上着を羽織った。
「……賭場に行かないんですか」
夢野が現在住んでいる家は、坂の上にある。だらだらと坂を下りながら、夢野は背後の男に問う。
塀の向こう側で伸びる木々は綻びそうな蕾を葉の間に抱いて微睡んでいる。
「今日は休みだ」
賭場が、なのか有栖川自身がそう決めたのか判断しかねる返答だった。
背中を温める陽気は無性に夢野を苛立たせた。いや季節の気配だけではない。有栖川にも、ピザの配達のインターホン音にも、己の足音さえも。
「いつまで付いてくるつもりだ」
「おい、付いてきちゃ悪いのかよ」
「勝手に押し掛けて、食事をして、人の外出先まで付いてくる。何を考えている」
掲示板には、緑色のポスター。前政権の香りを消臭するかのような、補色。ポスターに掲げられた文句は美しい。信念も、正義も、その中にある。
だが、それはH歴時代も散々喧伝されてきたものだ。張り子の美しさだった。空であるが故に、何を入れてもいい。
「じゃあ、お前はどこに行くつもりなんだよ、幻太郎」
「どこでもいいでしょう……放っておいて下さい」
「さっきのメシの恩義があるからな。そういうわけにもいかねえよ」
「では貸したお金を返して下さい」
「卑怯だぞ。今その話をするんじゃねえよ」
「督促の時期なんていつだっていいでしょう。いつ催促しようが、私の自由だ」
有栖川は黙るが、離れることはない。
「なあ」
張り出した枝を避ける。またポスター。スローガン。
新政権が発足した際に、協力の要請は夢野にもあった。証言者としての、あるいは前政権の犠牲者としての役割を演じることはたぶんそこまで難しくはなかった。なかった、と思う。
「……」
「その名前で呼ばないでもらおうか」
後ろの債務者に夢野は告げる。
「そっか。でも心配してだぜ」
「人の身内にまで借金を申し込みに行くとは」
「いい奴じゃん」
家族が仲良いっていいことじゃねえのと有栖川は言う。感傷の匂いのない、物語の中にある遠い出来事を語る声だった。
「……それで」
どうして自分は現政権の要求を断ったのだろう。世界を変えてしまいたいという目的は彼らと共通であったというのに。
(世界は確かに変わってしまった)
政権は変わり、精神に作用するマイクロフォンは回収されて力を失いつつあるし、壁は少しずつだが撤去され、昨年から連続していた要人の暗殺事件は付随した他の事件を道連れにしながらも収束に向かい、でも争いは減らず、若葉よりもくすんだ緑のポスターの舞う世界が美しいのかどうかが夢野にはわからない。
「うな重とか寿司にすればよかったな」
「また高額なものを」
横断歩道の前で夢野は立ち止まると、有栖川が隣に並んだ。
「貴方なりに気を使っての昼食の選択だった、ということはわかりましたよ」
「まあ、食べたかったってのもあるけどな」
ぱたぱたと後ろから足音が聞こえる。一人、二人。子供のような軽やかな足取り。兄弟だろうか、と考える夢野の視界に、白線を踏む黒い靴の二組が侵入した。催眠術に用いる硬貨のように、ハート型のバックルが揺れている。
「幻太郎、そっち見るなよ」
「わかって、います」
爪先が並ぶ。
歩行者用信号機の光の中で、スカートを履いたシルエットが青に変わった。夢野と有栖川を追い越して、長い上着の二人組は駆けて行く。
「久しぶりに見たな」
「……そうですね」
桃色の髪の毛の持ち主達は配達業者の看板が掲げられたビルの影に消える。
現政権はたぶん、かなりうまくやっているのだろう。短いながらも強烈だった前元号の遺産と負荷を、それなりに配分し緩やかな解消に努めている。
(乱数)
武器ではないという名目で生産されたマイクロフォンと、その機械のために産まれた存在は、それでもさすがに手に余ったのだろう。
マイクロフォンは無力化され、回収が進められ――反発はあるものの、今年中には区切りがつくと発表されている。
マイクロフォンを使用するクローン達は公共機関やインフラ系の企業に提供された。クローンとの共存、という見出しを悪夢のように、夢野は記憶している。
最初は発電所や土木関連での労働が想定されていたが、クローンは非力だった。そのために通信事業でのメッセンジャーや宣伝業務での従事に留まっている。
一時期、シブヤの街を歩く度に見慣れたピンク色の姿に遭遇したものだ。だから秋の間は、夢野は外出を止めてしまった。
「これからもっと見かけなくなりますよ。寿命が、ありますから」
「あー飴か」
「もう新しく生産はしないでしょうね」
夢野と違い、有栖川は幻影の闊歩する都会を平気で歩いていた。別にあいつらは乱数じゃねえから、というのが有栖川の理論だった。
「ふーん、じゃあそのうち会えなくなるのか」
「ええ」
寿命が付き、朽ち、そのうち誰の記憶からも消える。ピンクのクローンは子供時代の玩具みたいだ。
「……今日のピザも」
玄関を開けて立っていた姿を夢野は回想する。清潔な服を着ていたが、クローンの目は虚だった。公共機関から更に下げ渡されたクローンの再就職先として、デリバリー事業は主力になっている。
立ち尽くす夢野に、クローンは紙箱と伝票を差し出した。小さな桃色の爪は、あの日マイクを差し出したときと同じ艶と色と形をしている。
家主の苗字を家主の筆跡で書くと、クローンはぺこりと頭を下げて、敷石の上でくるりと回った。
「あいつら全然喋らないんだよな」
「喋らないんじゃないですよ。喋れないんです」
「はあ?」
クローンとの「共存」で問題視された部分はその点だ。兵器に匹敵するマイクを使えるクローン。未だに回収途中のマイクロフォン。では声がなければよい、という結論は速かに可決され、採用された。
「どのクローンも、話しませんよ」
「ひでえ話だな」
「そうですね。悲しい話ですよ」
「他人事みてえに言うな」
「あれは、乱数じゃないと言ったのは貴方でしょう」
「そりゃ、そうだけど……」
有栖川の拳が握られ、解け、また拳の形になる。
「……もっと、ひどい話だってあるんですよ」
「……」
有栖川が沈黙しているので、続きを促されているのだと夢野は知った。
「クローンの破壊事件です」
クローンの破壊事件が発生し始めたのは秋口だ。前政権への怨恨か、現政権への不満かと新聞は原因を分析している。一人でいるクローンが危ない、と。
「だから基本的に、クローンは複数体で行動するんです。一人がが壊されても、もう一人が通報できるように」
「詳しいな」
「……シンジュクから聞いたんですよ」
「麻天狼のやつらか?」
「まあ、そうです。あそこもあそこで今、大変みたいですけどね」
それは小生達には関係ありません。
説明すると、ふうんと有栖川は鳴いた。
ピンクのクローンにはきな臭い噂が多い。あまりにも非現実的、あまりにも情緒的であるが故に。受け入れ難いから、変な噂の糖衣がまぶされている。
「乱数は単独行動多かったからな」
「はい。乱数はそうでしたね」
夢野の知る彼は、友達を作るのが下手だった。デザインではあれだけ自身を表現できていたのに、他者と対峙すると虚構の己ばかりを開示してきた。
「つうか乱数の話してたら、会いたくなってきたぜ。今日も泊まっていいか」
「いいですけど……畳を剥がすのは止めてくださいよ。戻すのが大変なんですから」
有栖川が伸びをする。
「つまらない話ばかりしてしまいましたね」
「そうか?」
じゃあ賭場に行ってくるぜ、八時には帰ると有栖川は言った。
八時には戻ると言ったのに、半刻過ぎても有栖川の訪れはない。
(あのギャンブラーも相当な嘘つきだ)
嘘ばかり吐く小説家に、嘘つきな博打打ち。チームメイトとしてはふさわしいのかもしれない。
一番嘘つきなのは死にたくないと言ったのに、消えてしまったリーダーだけれど。
(あんなに生きていたいと願っていたのに)
夢野達に残されたのは、切り落とされた指だけだった。いつも清潔に手入れされていた爪は血に濡れ、汚れ、干からびかけていて、持ち主の生存の可能性をつゆとも感じさせなかった。夏草の匂いがする空き地で、指と対峙しながら政権崩壊の報を夢野は聞いた。祝いの気持ちも、達成感も胸には湧き上がってこなかった。
どこかでリアカーの軋む音がする。夜逃げだろうか、それとも駆け落ち……と夢野は想像する。星が今夜は美しい。愛し合う者達には記憶に鮮やかな逃避行となるだろう。
音は曲がり、石を踏みつけ
(おや?)
雨戸を叩く音がする。
「はい」
「おお、幻太郎。帰ったぜ」
「玄関、というのものがあるんですがねえ。この家には」
昼過ぎに別れたときと同じ、あっけらかんとした笑顔の有栖川が、ビニールシートに覆われたリアカーを背後に立っている。
「今日はツいてたぜ!」
「それで遅くなったんですか?」
「だはははは、幸運の女神に愛され過ぎて遅くなっちまった」
「次に愛してもらえるのは何年後なんでしょうねえ」
(また庭を荒らしたな)
「で、なんなんですか。その荷物は」
家主への言い訳を夢野は検討する。
「ああ」
有栖川がビニールシートを外すと、甘い香が一筋の腐臭と同時に庭に立ち込めた。
最初に認識できたのは、無数の桃色の爪だ。どの爪も指に、指は手首に繋がっている。闇に沈む色の上着、桃色の髪が無造作に広がって重なっていた。
「なんてものを」
「いやー苦労したんだぜ」
庭に現れたクローンの山に、夢野は絶句する。
「最近マジで少なくなってんだな。こいつら。ま、出目がよくて助かった」
「なぜこれを」
「いや、お前気にしてたし」
「こんなに世話はできませんよ」
「飴、ちっとは残ってるだろ。もうやばいやつも多いけどな。それに」
「それに?」
クローンを地面に並べながら有栖川は言う。まるでスポーツでもしているかのような、違法の賭事帰りとは想像もできない健康的な動きだった。
「賭場のおっさんが言ってた。クローンのレートが最近上がってるらしくてよ」
「それは減っているからではないですか」
「それだけじゃねえよ、クローンの中に本物の乱数が混じってるって話になってる」
「本物の」
それはどういう意味なんだ、と問い詰めかけて夢野は黙る。中王区や生物学上の定義がどうあれ、有栖川の中の本物の乱数なんて、ただ一人に決まっている。
(皮肉なことだ)
さんざん失敗作と、紛い物だと形容されていたのに。政権が解体されてから、飴村の評価まで変わってしまった。
「本物の乱数ねえ。そんなの、乱数を知らない輩にどうやってわかるんでしょうね……」
「それがいかしてんだ。本物の乱数と遭遇したら、めちゃくちゃ不吉なことが起こるらしい」
「帰って下さい」
「待てって」
「まあ嘘ですけどね、帰れというのは」
「燃えるよな」
夢野は一体のクローンの顔の汚れを拭う。柔らかな頬は青ざめていて、細かい傷がある。息があるものはいったい何割なのか。
「……我々にはこれ以上、不吉なことなんて起こりようがないですからね」
「だよなあ」
飴村と組んで世界を面白くできたかはわからない。だが、飴村のいなくなった世界は確実に、少しつまらないものになっている。
(結局、渦中にいるときにはわからないものなんだろうな)
クローンの顔を改めながら、夢野は考える。飴村には話したいことがたくさんあった。