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春の闇がじっとりと袖から、裾から侵食してくる。
「いたか?」
「いえ。どうやらこの子も違うみたいですね」
手拭いで清めたクローンの顔に、夢野はタオルをかけてやる。二回、瞬きをしただけで動かなくなった。
「うまくいかねえなあ」
「元々、確率の低い賭けなのでは?」
「乱数ならこういうの、得意だろうけどよお」
と有栖川は伸びをする。
「泥を落として下さい。部屋に入るときには」
息のあるクローン三体を、夢野は縁側に座らせる。一つの生き物のように三人はぺったりと寄り添った。
「こいつら、どうする?」
手を繋ぎ、足をぶらつかせる三人ではなく、動かないクローンの山を有栖川は指す。有栖川の腕の先で血と汗と砂糖菓子と、塩気の混じった水の匂いが攪拌され、稀釈されていく。
「山に埋めますよ」
「まじか」
「貴方が掘るんです。穴を」
「やっぱそうなるか」
「小生は肉体労働は本業じゃないんだ。まったく」
箪笥の抽斗に収められた煎餅の缶にはピンク色の飴がぎっしりと詰まっている。煎餅の缶1ダース分の延命薬。三本選んで、クローンに渡す。
「お食べなさい」
「幻太郎、俺も腹減ったんだけどよ……」
夢野は溜息を吐く。
「遅れる人間は本当だったらご飯抜きの刑なんですよ」
「なあ、乱数」
畳の下に有栖川は呼びかける。
「どこにいるんだよ、お前」
哀れっぽい様子に、クローン達は手を叩いて喜んでみせる。急にゼンマイが切れたみたいに、血を吐くより前に一人が動かなくなる。声を出せない喉から奇妙な音が鳴る。両隣の二人が飴を引き抜き、口中で飴を割る。
(こいつら……)
「そういえばさ」
湯を沸かしていると、有栖川が声をかけてくる。
「マイクの材料ってあいつらって本当なのか?」
「は?」
「なんかあいつらの、骨、だっけか。あれがマイクの材料って信じてる奴らがいるらしいぜ」
「ああ、その噂か」
あんなにそのマイクのせいで争ったというのに、なぜか人はあのマイクに惹かれ、求める。
そもそもが、クローンの破壊事件の原因はそのデマだ。
あのクローンの肋骨がマイクの原料である、と。
(気になるのはそれだけではないけどね)
クローンを破壊していたのは、おそらく一人や二人ではない。骨だけを目的としているわけではない、他の暗い欲望を抱いている人間もいる。
(ただその中に)
あきらかに人体に精通している犯人がいる。そいつが狙ったクローンはどれもこれも、美しく体を切断され肋骨を抜き取られている。
(それを確かめるために、あんな場所まで足を運んだのに)
シンジュクは夢野の肌には合わない。
徒労だった。神宮寺寂雷のアリバイを確認できたのは収穫だったが。
「嘘でしょうね」
「だよなあ」
緑茶を淹れ、口紅のサイズの羊羹を盆に並べる。
「でも貴方のおかげで、一つ繋がりましたよ」
『本物』の飴村乱数に遭遇した者には不吉なことが起こると言われる。不吉とは、怪我か大病か、窃盗被害か放火事件か殺人事件か。
(それとも)
「乱数はブージャムだった、というお話なのかもしれませんね」
「なんじゃ、そりゃ。食い物かよ」
「ま、食べ物の親戚みたいなところもありますよ」
ブージャムは架空の生き物だ。姿も声もわからない。出会ってしまうと出会った人間はこの世界から消失すると、ブージャムの物語には書かれている。
(そう、たとえば)
年始の訪問客を夢野は思い出す。神宮寺の養子だという青年は、最近まで飴村の手によって昏睡状態だったらしい。
礼儀正しく、芯が強そうな青年だった。彼は、幾多の別離によって磨かれた強い光を瞳に湛えていた。
突然の訪問の詫びと、今はシンジュク中央病院で働いていること、訪問の理由を彼は簡潔に説明した。
追い返してもよかったが、病床にあった人間に自分は弱い。突如失踪してしまった神宮寺の手がかりを探しているという話にも興味はあった。
昨年の終わり、麻天狼のメンバーとの外出中に、飴村のクローンを追いかけて神宮寺はそのままどこかに消えてしまった。
まるでブージャムに出会った狩人みたいに。
(乱数、貴方は神奈備氏に迷惑をかけすぎですよ)
高名な医師の行方不明事件は最初こそ大々的に報じられたが、年が明け、政治家の暗殺未遂事件の犯人の逮捕の報道が始まると同時に、ぱったりと聞かなくなった。
(世の中は、神宮寺寂雷のこともいつか忘れてしまうんだろうか)
ちゃぶ台の前にいそいそと有栖川が座る。
人一人分の隙間を開けて夢野も腰を下ろす。畳の下に眠る宝石箱みたいなチョコレートの容器の位置は記憶している。飴村が好んだチョコレートの缶だ。小指の寝床には相応しい。
(『本物の』乱数の小指はどうなっているんだろう)
運命の糸の幻肢痛に痛むこともあるのだろうか。
(なんてね。三流劇作家でも考えやしない妄想さ)
「帝統、この羊羹なんですけど」
「おお? これ、昼間も食ったけどうまかったな」
飴村の小指より一回り小さい、和菓子を有栖川は褒める。星のない夜のような黒い、優しい味の練り菓子。
「夏に乱数が贈ってくれたんですよ。前に僕が雑誌に書いた記事を覚えていたらしくて」
「へえ。あいつ甘いもの好きだもんな」
「はい。そういうところはマメでしたよ。あの人は」
縁側のクローンの片割れは目を閉じている。とり残された一人は、目を開けない相方に覆い被さって飴を与えている。
(これが、年末に届きました)
神奈備が話の最後に見せてくれたのは、髪の束だった。
(警察には連絡したんですか)
(いえ……あの、届いたというか……空から突然降ってきたんです)
神宮寺の部屋を調べているときに、前触れなく出現したのだと神奈備は告げた。
嘘を吐いている風ではなかった。
大舞台で対峙したときに仲間を守るかのように靡いていた、青みがかった灰色の髪を夢野は観察する。今はきっちりと編まれ、二十センチほどの長さで切断されていた。
(天井から降ってきたとき、最初はすごく冷たくて)
(まるで氷の星にいるみたいに)
(……防寒が必要だな)
もう一度、彼とチームを組むことがあるのならば。それはとてもとても寒い土地での再開になる。
動いているクローンは、仰向けになったもう一人の髪の毛を編み込んでいる。
桃色の爪が器用に閃く。
体温を分け与えるみたいに重なるクローン達の身体と身体。
飴村の事務所の机にいつからか入っていた、左利き用の散髪鋏。
(鋏はまだあの場所にいるのだろうか)
有栖川が煎餅の缶をクローンの枕元に置く。
「おやすみなさい」
声をかけ、盆の羊羹をアルミの外袋ごと夢野は二分する。片割れを有栖川のために残す。口に含むと黒糖の味がゆっくりと溶けた。
(了)