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久しぶりに顔を合わせる神宮寺は、変わらぬ穏やかな雰囲気を纏っていた。まるで今の季節みたいな、と感じ、観音坂はその例えがおかしいとすぐに自覚する。
「独歩君、一二三君、元気にしていましたか」
「はい、先生も」
「先生少し痩せてません? だめっすよーちゃんと一日三食、食べないと。体は資本なんですから」
観音坂の隣で幼馴染の男は能天気に笑う。
「おい。先生はただでさえお忙しいんだぞ。それに加えて新政権のゴタゴタに巻き込まれて……」
(俺の会社だって、今だってまだ、ひっくり返ったみたいに大騒ぎだ……組織編成の話もなくなったし、ハゲ課長との縁も切れない。それもこれも全部俺の、俺が)
「口に出てんぞ、独歩」
「俺の俺の俺の俺の」
お、と伊奘冉が語尾を伸ばす。
「独歩もさあ、連勤ばっかりだもんな。稼ぎどきっていっても、働きすぎじゃん?」
「仕方ないだろう」
お前も、と言いかけて観音坂は言葉を飲み込む。
「訓練、続けてるんだね」
神宮寺が指すのは、観音坂の抱えるジャケットだ。
「ハハ……まだ全然っすけどね」
「距離があれば、女性一人だけなら、くらいには」
「一二三君は努力家ですから」
神宮寺が目を細める。
「先生に褒められちった、へへ」
「あんまり調子に乗るなよ。この前もそれで失敗しただろ」
釘を刺したものの、いつものごとく伊奘冉は聞いていない。先生、次いつ釣りに行けます? と肩越しに纏わりついている。もうアオリイカの旬、終わっちゃいますよ。
三人でこうして歩くのは何ヶ月ぶりだろう。周囲を確認しながら、観音坂は考える。前回も思ったことだが、元号が変更されるとこんなに面倒くさいとは! 政権の交代に、観音坂とて感慨がないわけではない。だが、それにしても変化に伴う混乱の方が大きい。セールだの、祝砲だのは観音坂の生活からは遠かった。給与明細を見て、ようやく実感が沸いたのだけれど。
「私のことは気にせず、楽しんで来て下さい」
と神宮寺は言うが、伊奘冉はしつこい。
「でも先生にも来て欲しいんすよ。独歩と釣りしてもそれはそれで楽しいですけどぉ、先生が来てくれたら二倍楽しいし」
……まったくもって同感だった。
大通りに出る前に、観音坂は伊奘冉にジャケットを手渡した。すでに無数の女性の声が、気配がする。
「今日はこれくらいにしとけ」
「ありがとう。独歩君」
伊奘冉の唇に色が戻り始める。
まだ昼間だというのにキラキラ光るイルミネーション。夜が更ければ星のように輝き、闇を祓う光。
駅に近接するバスターミナルの横断歩道前はいつだって、人で溢れている。
「……寒くないのかな」
できるだけ小声で言ったつもりだったが、伊奘冉だけでなく神宮寺とも目が合う。
「いや、あの」
「あの子達、どこの子だろうね」
道路を挟んだ向こう側を見て、伊奘冉が呟く。「あの子達」と伊奘冉が言うのは桃色の髪の毛の三人組だ。全員背の高さも、体格も、季節にそぐわない服も同じ。表情も三人とも同じ微笑みを浮かべる愛らしい姿。
『彼ら』は大舞台で闘った毒入りキャンディーじみた相手とは、別人だ。わかっていても観音坂の肝は冷える。
「お客さんの職場でも働いてるって聞いてるよ……」
伊奘冉の吐く息は白い。
観音坂の闘った飴村は傍若無人な人間だった。神宮寺の忠告を聞かず、場の空気を引っ掻き回す。
(よく素直に働いてるよな)
観音坂の把握している限り、職場で『彼ら』が反抗的な行動を取ったというニュースはない。いや、単に表に出ないだけなのかもしれない。
(俺だって働きたい、わけじゃない。けどそんなわけにもいかない)
一緒なのだろうか。平凡なサラリーマンである自分とは事情は違えど。
一人の肩に二人が頭を載せる。何がおかしいのか三人は笑う。跳ねる。
小学校の帰り道の伊奘冉のように。子供はよくわからないことで笑ってはしゃぐ。そういうものだ。
微笑ましい、光景なのかもしれない。たぶん、きっと。たぶんきっとそうなのだ。
クリスマスツリーに飾られる人形のような姿が、全く同じ姿ではしゃいでいるのは、可愛くて素敵なことなんだろう。微笑ましくて平和で喜ばしいことでおめでたくて祝福されていて新しい時代の象徴で、この上なく、クソったれだった。
「そうですね」
頭上から言葉が降ってくる。
「え」
「あ、いえ。あの飴村君達は近くの……庁舎で働いているのかもしれませんね」
考え込むように、神宮寺の声が沈む。
「そうかもしれませんね……先生がご責任を感じられる必要はないと思います」
あのとき神宮寺はできる以上のことをした、と観音坂は思う。
向かい側の飴村達ではなく、マイクロフォンを用いて言葉を操っていた飴村乱数に。
伸ばされた神宮寺の手を振り払ったのは飴村の方だ。無言だったが、あれはまるで悲鳴、と感じたのを覚えている。今まで水と信じていたものが劇薬だったと知ったときみたいな激しい拒絶。柔らかい傷痕に触れられたときの防御反応。
(事故、みたいなものです)
(仕方がなかったんです)
(救われたくない人間は救えない)
「先生、神奈備さんは」
観音坂の思考を置き去りにして、世界は進んでいく。
「今日は留守番をしてもらってます。だいぶ元気にはなったんですけどね」
「そうですか、ならよかったです」
あの状態からの回復は、神宮寺のサポートと本人の努力の賜物だと観音坂は思う。
「僕達にお手伝いできることがあったら、なんなりとおっしゃって下さい。僕と独歩君が全力でサポートします」
「そんなにたいしたことはできないかもしれませんが、精一杯務めさせていただきます」
ありがとう、と神宮寺が目を伏せる。
「神奈備さんにもいつかお店にも来ていただけたら嬉しいです」
「ホストクラブにか?」
「そんなに嫌そうな顔をすることないだろう。独歩君だって来てくれたじゃないか」
「あれはやむを得なくだろ。せめて釣りに誘え」
神宮寺に紹介された、神奈備は物静かで優しげな青年だった。長らく寝たきりだったあの青年が夜の店の派手な空間を好むとは、観音坂には到底思えない。
「ええ、いつか。衢君も一緒に」
(あれ、もしかしてあの人もお酒は……)
いや、それは大丈夫かと考えたときに信号が青に変わる。
歩道を横断するときに、我知らず観音坂は息を殺していた。
「独歩君。無理はしないで」
「いや、俺のことより先生を頼む」
(お前だって)
「というか、他のディビジョンもこんな感じなんだろうな」
ヨコハマでもイケブクロでもシブヤでも街を歩けば、飴村の似姿に遭遇するのだろう。
「シブヤのあいつら、どうしてるんだろうな……」
集団の隙間を縫って、ちらちらと小柄な人影達がのぞく。手を繋ぎ、離す。軽く手の甲を叩き合っている。
「この前、夢野先生ならシンジュクでお見かけしたよ」
伊奘冉が答える。
「打ち合わせ、かな。このあたりの出版社って」
書生の服装をした有名小説家がシンジュクに立っているのは、なかなか想像が難しい。
「目立つからね、夢野先生は」
「何か、話したのか……いや、仲悪いから無理か」
「時間があればお話ししたかったけれど、でもあの日は、」
伊奘冉は言葉を中断する。
前を歩く神宮寺の表情は窺えない。ただ視界の中心にはあの三人がいる、それだけは確信できた。
「先生」
「私は大丈夫です」
人いきれにあっても、三人組はお互いしか見ていない。くすくすと音もなく笑い、戯れている。周囲の人間にぶつからないのは、流石というべきなのだろうけど。
(あと三秒)
二、一……祈るように、観音坂はカウントする。決戦のコロシアムで嗅いだあの甘い匂い、子供の体温。クローン達とすれ違う。二酸化ケイ素みたいな六つの目。声を産まない喉が上下する。通過。
息を吐き出したのは、伊奘冉と同時だった。
「心臓に悪いな」
「少し、驚くね……慣れないといけないんだろうけど」
「一二三君、ところで今日のお店って」
神宮寺が振り返る。
(だめだだめだだめだだめだだめだ!)
脳内でアラートが鳴る。
黄色い背景に立入禁止の文字が踊る。
「せ、先生」
何が危険なのかわからない。わからないまま、観音坂も背後を見た。
「あ……」
信号機はいまだに青。渡り終わった先には、さっきの飴村達が佇んでいる。三人とも同じ背の高さ、同じ髪型、同じ服装。同じ表情……ではない。端の一人だけが、片方の手を押さえた姿勢で、無表情に観音坂達を見つめている。バトルが始まる数秒前の緊張感。
(いや、マイクはここにはないぞ)
飴村だけでない。神宮寺の纏う空気も変質している。互いの間合いを図っている。
捕食。
「ごめん、先に行っていて」
「先生!」
「独歩君、だめだ」
下らないことを考えていたせいで、一拍追いかけるのが遅れる。信号が点滅し始める道を引き返す神宮寺に間に合わない。
(……あめ、むらくん)
痛切な空気の振動を確かに、観音坂は感知した。間に合わない。一人だけ無表情だった飴村のクローンは身を反転させて小道に駆けていく。
神宮寺が追う。
「独歩君、落ち着いて」
「間に合うと思うか」
横切る車を観音坂は睨む。遅い。全部止まってしまえ。
残された二人のクローンはいなくなった一人には興味をなくしたのか、二人きりで笑い合っていた。最初から二人だったよ、とでも言いたげな自然さだった。
「追いかけるぞ」
「わかってる」
不吉な二人組は飴をポケットから取り出して、静かに舐め始めている。
(先生)
観音坂は目を閉じる。目蓋の裏で、反対側に走っていく神宮寺の指が結ばれた糸に引かれるように揺れていたのを思い出す。左の小指だった。